| 清水一郎 しみず いちろう | |
|---|---|
| 生年月日 | 1918年9月4日 |
| 出生地 | |
| 没年月日 | (1991-06-12)1991年6月12日(72歳没) |
| 出身校 | 福島高等商業学校卒業 (現福島大学経済経営学類) |
| 前職 | 群馬県立前橋商業高等学校講師 |
| 所属政党 | (自由民主党→) 無所属 |
| 称号 | 従三位 勲二等旭日重光章 |
| 当選回数 | 4回 |
| 在任期間 | 1976年8月2日 - 1991年6月12日 |
| 在任期間 | 1974年5月29日 -1975年5月14日 |
| 在任期間 | 1970年5月16日 -1971年5月13日 |
| 選挙区 | 前橋市選挙区 |
| 当選回数 | 4回 |
| 在任期間 | 1959年 -1975年 |
| 当選回数 | 1回 |
| 在任期間 | 1955年 - 1959年 |
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清水 一郎(しみず いちろう、1918年〈大正7年〉9月4日 -1991年〈平成3年〉6月12日)は、日本の政治家。
群馬県知事(公選第9・10・11・12代)、群馬県議会議員(4期)、第47代群馬県議会議長、群馬県議会副議長、前橋市議会議員(1期)を歴任した。
群馬県前橋市出身[1]。1936年、群馬県立前橋中学校(現群馬県立前橋高等学校)卒業[1]。1939年、福島高等商業学校(現福島大学経済経営学類)卒業[1]。同年、日立製作所東京本社勤務となる[1]。1943年、青森県立商業学校(現青森県立青森商業高等学校)教諭となる[1]。1944年、群馬県立前橋工業学校(現群馬県立前橋工業高等学校)教諭となる[1]。1948年、群馬県立前橋商業高等学校講師となる[1]。
1955年に前橋市議会議員となり、1期4年務める[1]。この間、総務、文教の各常任委員会に所属し、前橋市監査委員も務めた[1]。1959年4月の群馬県議会議員選挙に、前橋市選挙区から立候補して、初当選を果たし4期16年務めた[1]。同年、自由民主党に入党した[1]。県議会では、群馬県議会副議長(1970年5月16日から1971年5月13日)、第47代群馬県議会議長(1974年5月29日から1975年5月14日)を歴任した[1][2]。また、これ以外にも総務、厚生、商工労働、総務企画、交通並びに地域開発、議会運営の各委員会の委員長を、厚生、商工労働、交通対策、議会運営、尾瀬推理対策の各委員会の副委員長を歴任した[1]。また、群馬県監査委員、前橋工業団地造成組合議会議員、都市計画地方審議会委員、総合開発審議会委員、社会福祉協議会長等を歴任した[1]。
1976年、群馬県知事選挙に出馬し当選[1][3]。以後、3回連続当選を果たし、4期目まで知事を務めた[1][3]。この間、関東知事会監事を務めた[1]。在任中は、「スポーツ県 群馬」を提唱し、1983年のあかぎ国体を成功に導くなど、スポーツ知事として親しまれた。現在「ニューイヤー駅伝」として知られる全日本実業団駅伝の初の群馬県開催時(1988年)の知事でもある。1981年、自民党を離党した[1]。1991年6月12日、急性腎不全のため在職中のまま死去した[1]。享年72。墓所は前橋市正幸寺[4]。
| 公職 | ||
|---|---|---|
| 先代 神田坤六 | 公選第9 - 12代:1976年 - 1991年 | 次代 小寺弘之 |
| 議会 | ||
| 先代 高瀬茂郎 | 第47代:1974年 - 1975年 | 次代 林辰衛 |
| 官選 |
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|---|---|---|---|
| 公選 |
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