| あさの ただのぶ 浅野 忠信 | |||||||||||||||||||||||||||
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第37回東京国際映画祭にて(2024年) | |||||||||||||||||||||||||||
| 本名 | 佐藤 忠信[1] | ||||||||||||||||||||||||||
| 生年月日 | (1973-11-27)1973年11月27日(52歳) | ||||||||||||||||||||||||||
| 出身地 | |||||||||||||||||||||||||||
| 身長 | 179cm[3] | ||||||||||||||||||||||||||
| 職業 | 俳優・音楽家 | ||||||||||||||||||||||||||
| ジャンル | 映画・テレビドラマ・CM | ||||||||||||||||||||||||||
| 活動期間 | 1990年 - | ||||||||||||||||||||||||||
| 配偶者 | CHARA(1995年 -2009年) 中田クルミ(2022年 - ) | ||||||||||||||||||||||||||
| 著名な家族 | 佐藤幸久(父・元所属事務所社長) SUMIRE(長女) 佐藤緋美(長男) | ||||||||||||||||||||||||||
| 事務所 | DOMOIZU ADONIS A(サポート) | ||||||||||||||||||||||||||
| 主な作品 | |||||||||||||||||||||||||||
| 日本映画 『バタアシ金魚』/『青春デンデケデケデケ』 『幻の光』/『PiCNiC』/『Helpless』 『Focus』/『鮫肌男と桃尻女』/『白痴』 『地雷を踏んだらサヨウナラ』/『御法度』 『五条霊戦記 GOJOE』/『PARTY7』 『殺し屋イチ』/『アカルイミライ』 『座頭市』/『茶の味』/『珈琲時光』 『ヴィタール』/『母べえ』/『劒岳 点の記』 『ヴィヨンの妻 〜桜桃とタンポポ〜』 『寄生獣』/『私の男』/『岸辺の旅』 『グラスホッパー』/『母と暮せば』 『淵に立つ』/『幼な子われらに生まれ』 海外映画 『地球で最後のふたり』/『モンゴル』 『マイティ・ソー』シリーズ 『バトルシップ』/『沈黙 -サイレンス-』 『モータルコンバット』 『MINAMATA-ミナマタ-』 テレビドラマ 『3年B組金八先生 第3シリーズ』 『ロング・グッドバイ』 『A LIFE〜愛しき人〜』/『刑事ゆがみ』 『おかえりモネ』/『無言館』 『SHOGUN 将軍』 | |||||||||||||||||||||||||||
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浅野 忠信(あさの ただのぶ、本名:佐藤 忠信[1]、1973年(昭和48年)11月27日[3] - )は、日本の俳優・ミュージシャン。英語圏での愛称はTad(タッド)[4]。
神奈川県[3]横浜市[2]出身。個人会社DOMOIZUにて活動し、かつて所属していた芸能事務所ADONIS A(旧:アノレ)[注 1]のサポートを受けている[5]。妻は女優でモデルの中田クルミ。
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母方の祖父ウィラード・オバリング(Willard N. Overing)はアメリカ合衆国ミネソタ州ウィノナ生まれ[6][7]の北欧系アメリカ人[注 2]。
忠信の母・順子自身が父・ウィラードをナバホ系のアメリカ・インディアンで元農民[6]の血統と思い込んでおり、忠信自身もそれを30年以上信じていた[8]が、忠信のルーツをたどるNHK『ファミリーヒストリー』番組製作時の調査でそれが間違いと判明。ウィラードの弟ゴードンは「父ジェイコブはフリースラント州にいたオランダ系、母エラベルはノルウェー系で、共に北欧の家系である」と証言した。ただ、ウィラードの出身地(ゴードンの現住地)ウィノナはもともとアメリカ・インディアンであるスー族の一支族ダコタが居住する地域であった。また、オバリング家は、未開拓地を無償で払い下げる法律を作ってヨーロッパからの移民を大量に受け入れていた19世紀後半のアメリカに渡ってきた西部開拓移民であったことも、証言とファミリーヒストリー取材班の調査によって明らかとなった。一家は小麦や大豆を作って生計を立てていたという。
ウィラード・オバリングは、第二次世界大戦時(1946年、18歳時)以降、アメリカ陸軍の料理兵であった[6]。戦後、日本に駐留し[注 3]、配属された横浜市にて浅野の祖母である浅野イチ子と出会う[6]。
芸者であったイチ子は、ウィラードより15歳年上の38歳で、戦後、満州の大連市から帰国したが、故郷・広島が原爆で壊滅したため、仕事を求めて上京していたという[6]。やがてふたりは結婚し、1950年(昭和25年)9月23日に長女・順子(忠信の母)が生まれた[6]。
その後、ウィラードはアメリカ軍の引き揚げに伴って帰国する際、イチ子と順子の渡米を強く望んだが、イチ子はこれを拒んで日本にとどまった[6][注 4]。
順子は18歳で結婚し、1971年(昭和46年)11月14日に長男の久順(ひさとし)(現・KUJUN。俳優、演奏者)が、1973年(昭和48年)11月27日に二男の忠信(以下、浅野とも表記)が誕生した[9]。
忠信兄弟は、公園でビキニ姿のまま日光浴するような奔放さを持つ母と、整理整頓が得意で几帳面な父のもと、横浜市で育った。両親は20代前半で子を得てまだ若く奔放であった。忠信自身は父親について「家でいつも調子が悪いと言っては家で寝てばかりいる」、母親は「学校を休ませてドライブに誘う」、夜に忠信兄弟を家に残して両親がディスコに行ってしまうこともたびたびで、兄弟は近所の家に「お母さんがいない」と泣きついたこともあったという[9]。曰く、「ヒッピーの子供として生まれた」と自身の幼少期を振り返っている[8][10]。一方で両親は「親が白と言ったら白なんだ」という厳しさも持ち合わせていた[9]。大黒柱である父親が最初に食事をし、子供は残ったものを食べるというように、甘やかされることなく浅野は育てられた[9]。母によれば、忠信はいつもニコニコと照れ笑いしながら歩いている子供だったと言う[9]。
クォーターのために幼い頃は髪の色が金髪に近かった。何もしていなくても目立っていて声をかけられることも多く、子ども心に、日本人だが日本人になりきれていない違和感を覚えていたという[8]。しかし、「子供の頃から目立ちたがり屋で、いつもテレビに出たいと思っていた」とも振り返っている[11]。また、母が忠信に見せたウッドストック・フェスティバルの映像が自身の精神性に大きな影響を与えたと話しており、ステージ上のミュージシャンが観客を熱狂させているのを見て、人前で大勢の人を喜ばせるようなことをしたいと考えるようになり、それが今日の自身に影響していると浅野は考えている[12]。
小学生の頃から実家の隣の空手道場に兄と通った[13]。また、ブレイクダンスやスケートボードも始めた[10]。中学からは音楽を始め、パンクロックバンドを組み元町や本牧のライブハウスを渡り歩いた[13]。この頃ファンであったのはおニャン子クラブの吉沢秋絵で、フジテレビ前で出待ちをしたこともあったという[14]。ビートたけしのファンでもあり、父親が石倉三郎のマネージャーをしていたことから『風雲!たけし城』の見学にも来ていた[15]。
1988年(昭和63年)の中学3年時に、父親からテレビドラマ『3年B組金八先生第3シリーズ』(TBS系)のオーディションを勧められて受けたところ、合格して本名の佐藤忠信名義で出演[16]、タレントおよび俳優としてデビューした[11]。18歳になり、バンド活動と両立して俳優業も続けていくことを決める[12][8]。
1990年(平成2年)、『バタアシ金魚』で脇役として映画デビューを果たす。大人同士が徹夜や喧嘩を繰り返しながら目標に向かって一生懸命取り組む映画制作のスタイルが信用できることに思えたと言う[12]。その経験がきっかけとなり、高校生になってからは「映画でだけなら仕事をしてもいい」と考えるようになる。また、当時の浅野がこういった極端な活動方針を選べた理由は自身の家族が芸能事務所のスタッフだったことが大きいとインタビューの中で振り返っている[17]。
1996年(平成8年)、『Helpless』で映画初主演を果たす。
活動の場は国内にとどまらず、ウォン・カーウァイ監督『wkw/tk/1996@/7’55”hk.net(英語版)』(1996年)、クリストファー・ドイル監督『孔雀 KUJAKU』(1999年)などでも主演を務め、国際的にも注目を高めていった。1997年(平成9年)には、日本アカデミー賞話題賞、および、ヨコハマ映画祭主演男優賞を受賞している。
2000年(平成12年)、『御法度』と『五条霊戦記 GOJOE』で報知映画賞助演男優賞を受賞。『御法度』では、松田龍平と意気投合し、以来交遊をもっている。
2001年(平成13年)、『地雷を踏んだらサヨウナラ』『御法度』『五条霊戦記 GOJOE』で毎日映画コンクール男優主演賞受賞[18]。浅野の誕生日は偶然にも役を演じた一ノ瀬泰造の行方不明が報道された日でもある(実際に一之瀬が死去したのはこの日より前)。
2003年(平成15年)、タイ・日本その他の合作映画『地球で最後のふたり』(ペンエーグ・ラッタナルアーン監督)でヴェネツィア国際映画祭コントロコレンテ部門主演男優賞を受賞。
2004年(平成16年)、初監督作品『トーリ』を製作。ドキュメンタリーやアニメーションが織り込まれた5話のオムニバス作品。高校生の頃に観たボブ・マーリーのドキュメンタリー映画『Time Will Tell』で、マーリーの葬儀のときに鳥が飛んでいくシーンから受けた影響が製作の元になっているという[19]。昭和のいる・こいるや、無名の頃の菊地凛子(当時は菊池百合子)、首藤康之などが出演し、首藤は本作品で初めて自身で振り付けしたバレエを披露した。また、兄のKUJUNも音楽の担当として参加。3月にDVDで発表し、5月に渋谷シネ・ラセット(2008年1月閉館)で公開された。
2006年(平成18年)、『誰がために』と『乱歩地獄』で毎日映画コンクール男優主演賞を受賞[20]。
2007年(平成19年)、ロシアのセルゲイ・ボドロフ監督作品『モンゴル』で、チンギス・ハーン役で主演した。ボドロフは浅野に「内面から発する光のようなもの」を感じ[21]、「この役を演じられるのは浅野しかいない」と抜擢。浅野はCDをひたすら聴いてモンゴル語を憶え、尻の皮がむけるほど乗馬を猛練習して撮影に臨んだ[17][22]。
2008年(平成20年)2月、『モンゴル』が第80回アカデミー賞外国語作品部門にノミネートされ、浅野は妻のCHARAを伴ってロサンゼルスで記者会見を行った[22]。このとき浅野は、「撮影で留守にしている間にCHARAが家庭内のことを忙しい中やってくれていてありがたい」と感謝を述べた[22]。また、食事の際に歌を歌う文化のため、アカペラで『THE BLUE HEARTS』などの曲を歌ったことなど、モンゴルでの撮影中の裏話がCHARAとの会話の中で明かされた[22]。
2009年(平成21年)、『ヴィヨンの妻 〜桜桃とタンポポ〜』ほかで日本アカデミー賞優秀主演男優賞受賞を受賞。
俳優業のほかに、「ASANO TADANOBU」名義や、「Bunodata」名義[注 5]、「PEACE PILL」[23]、「SAFARI」(1999年結成[24])などでボーカルやギターとして音楽活動も行っている。「SAFARI」ではフジロックフェスティバルに何度か出演している[25][26]。
2011年(平成23年)、映画『マイティ・ソー』で初のハリウッド映画に出演し、新境地を開く[27]。『ソー』シリーズの3作品に出演を果たした[28]。
2012年(平成24年)、ハリウッド映画2作目となる『バトルシップ』に出演[29]。
2014年、主演映画『私の男』で第36回モスクワ国際映画祭最優秀男優賞[30]、第57回ブルーリボン賞主演男優賞[31]を受賞した。
2015年、主演作『岸辺の旅』が第68回カンヌ国際映画祭・「ある視点」部門に出品され、黒沢清が監督賞を受賞[32]。アメリカ合衆国サンフランシスコで開催されたJ-POP SUMMIT関連映画祭、サンフランシスコ日本映画際にて、第一回名誉賞を受賞した[33]。
2016年、主演作『淵に立つ』が第69回カンヌ国際映画祭・「ある視点」部門に出品され、作品が審査員賞を受賞。2年連続で主演作が同部門で受賞となった[34]。
2017年10月12日に放送開始の『刑事ゆがみ』(民放の連続ドラマでは初主演作品)では、適当でだらしない性格の主人公を演じており、役になり切るため普段やっている台本の読み込みやその職種や業界に取材などは今回に限りあえて行わなかった。その理由について「『こんな刑事、絶対いない』と思ったので、あえてやらなかった。それに準備するなんて、適当な弓神らしくない」と話している[35]。
2018年12月17日、ワタリウム美術館にて2014年ごろから映画撮影の待ち時間の合間などを縫って始めていた趣味であるドローイング(線画)作品を展示した個展『TADANOBU ASANO 3634 浅野忠信展』を開催[36]。自身のTwitterやInstagramなどSNSでも公開していたデッサンや落書き、漫画、アメコミなど700点を展示している。また、2019年2月9日に放送されたバラエティ番組『タモリ倶楽部』(テレビ朝日)に浅野が出演し、同個展の未公開作品についての解説を行った[37]。
2021年末をもって、アノレの専属契約を終了し、以前より所属していた個人会社「DOMOIZU」で活動を継続[38]。専属契約は終了したものの、アノレは翌年にADONIS Aに名称変更し、引き続き浅野のサポートを継続している。
アメリカ合衆国のドラマ『SHOGUN 将軍』の出演により、2024年開催の第76回エミー賞で助演男優賞にノミネートされ[39]、2025年開催の第82回ゴールデングローブ賞では、日本人としては初となるテレビドラマ部門 助演男優賞を受賞した[40][41]。
芝居に対する熱意が冷めていた時期があり、監督の言われるがままに演技をしていた影響から芝居に諦めのようなものが混じり始めたことがあった。しかし、2001年に公開された相米慎二監督の『風花』に出演したことが諦念を払拭する転機となり、浅野は相米から言われた「浅野がどうするかが俺の映画には重要だ、浅野が考えることを何で俺が考えるんだ」という言葉が自身の支えになっているとインタビューの中で話している[13]。
広島県生まれの祖母・浅野イチ子(1911年[明治44年]-2004年[平成16年])は、芸者の置屋を営む父(忠信の曾祖父)を持ち、自身も若い頃は芸者であった[6]。生後まもなく、父に従い、満州国大連市へ移住した[6]イチ子は、24歳のとき、南満州鉄道(満鉄)の社員(特急「あじあ」食堂車給仕長)で福岡県出身の廣松定(ひろまつ さだむ)と結婚[6]。当時の満鉄は社員待遇の良さで知られており、イチ子らは何不自由のない暮らしを送ったが8年あまりで後に離婚している[6]。ふたりの間に子はいなかった[6]。離婚したとき、イチ子の父はすでに他界し、母は再婚し、別家庭を持っていたため、戻るべき家庭はなくなっていた[6]。満州から引き揚げるも故郷・広島は原爆で壊滅していたため、仕事を求めて上京し、横浜市にてアメリカ駐留軍横浜司令部勤務の料理兵・ウィラード・オバリング(1926年[7]-1992年4月)に彼の友人を通じて紹介され、交際するようになった[6]。このとき、ウィラードは23歳、イチ子は38歳であった[6]。やがてふたりは結婚し、朝鮮戦争のためにウィラードが日本を離れて出動している最中の1950年(昭和25年)9月23日、忠信の母・順子が誕生する[6]。
なお、忠信の祖母・イチ子は夫ウィラードの話を忠信らにほとんど語って聴かせなかったし、忠信の母・順子も父ウィラードと4歳のときに別れ、以来一度も会うことがなかった[6]。忠信はそのような母による断片的な話と数枚の写真でしか祖父を知らず、過去に自力で調べはしたものの、詳細については全くわからずにいたと言うが、NHKの番組『ファミリーヒストリー』の取材班によって2011年(平成23年)5月より始まった綿密な調査の結果、曽祖父母にまで遡る詳細が明らかとなった[6]。ウィラードは帰国後、横浜配属前の旧配属地であるフォートノックス基地(ケンタッキー州フォートノックス(英語版)にある陸軍基地)に再び着任し、その4年後、当地で知り合った2児を持つ4歳年上のアメリカ人女性ジーン・ウィートと再婚したが、新たに子は設けず、実子は順子だけであった[6]。『ファミリーヒストリー』の取材に応じてウィラードの遺品を家族(ウィート家)が整理した際、亡くなる直前まで持ち歩いていた財布の中から生き別れた4歳当時の順子のポートレート1枚が見つかっている[6]。忠信は、祖父の人生を通じて、貧しい開拓民の話や1929年に始まった世界恐慌などアメリカ合衆国における過去の歴史も身近なものと感じることができるようになった自身の変化を語り、今後の演技(特にアメリカにおける仕事)にも活かせるのではないかとして、番組を締めた[6]。
1995年(平成7年)3月、岩井監督の映画『PiCNiC』で共演した6歳年上の歌手のCHARAと結婚。同年7月に長女SUMIREが誕生し、21歳で父となる。1999年(平成11年)、長男佐藤緋美が誕生。自身の写真集にはCHARAに抱きつき顔を埋めているものが使用されたり、CHARAのアルバムのジャケットに片手だけ映ったりし、公私ともに良好だった。しかし2009年(平成21年)7月25日、所属事務所のサイトにてCHARAと協議離婚したことを発表し[42]、14年余りの結婚生活にピリオドを打った。
長女のSUMIREの眼は虹彩がグリーンに近い茶色だが、カラーコンタクトではなく遺伝である。浅野自身も虹彩が日本人より明るい茶色である。長男の佐藤緋美はHIMIの名で2018年にファッションカタログのモデルとして登場した[43]。
2022年(令和4年)8月23日、18歳年下の女優・モデルの中田クルミと再婚したことを自身のTwitter及びインスタグラムを通じて報告した[44][45][46]。
複数国の合作映画を含む。
他多数

{{cite news}}: CS1メンテナンス: 先頭の0を省略したymd形式の日付 (カテゴリ){{cite news}}: CS1メンテナンス: 先頭の0を省略したymd形式の日付 (カテゴリ)| 代表者 | 福山正寿 | ||||||
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| 所属者 |
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| 過去の所属者 | |||||||
| 2007 - 2020年 | |
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| 2021 - 2040年 | |
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| 1970年代 | |
| 1980年代 | |
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| 2000年代 | |
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| 2020年代 | |
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ブルーリボン賞 主演男優賞 | |
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括弧内は作品年度を示す、授賞式の年は翌年(2月) | |
報知映画賞 助演男優賞 | |
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| 2020年代 | |
エランドール賞 新人賞 | |
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| 1950年代 | |
| 1960年代 | |
| 1970年代 |
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| 1990年代 | |
| 2000年代 | |
| 2010年代 | |
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日本映画批評家大賞 主演男優賞 | |
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| 1990年代 | |
| 2000年代 | |
| 2010年代 | |
| 2020年代 | |
※2017年度は授賞式中止 | |
ザテレビジョンドラマアカデミー賞 助演男優賞 | |
|---|---|
| 1回 - 10回 | |
| 11回 - 20回 | |
| 21回 - 30回 | |
| 31回 - 40回 | |
| 41回 - 50回 | |
| 51回 - 60回 | |
| 61回 - 70回 | |
| 71回 - 80回 | |
| 81回 - 90回 | |
| 91回 - 100回 | |
| 101回 - 110回 | |
| 111回 - 120回 | |
| 121回 - 130回 | |