浅井 昭𫟘 | |
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| 個人情報 | |
| 生誕 | 浅井 昭衛 (1931-11-30)1931年11月30日 |
| 死没 | (2023-10-16)2023年10月16日(91歳没) |
| 宗教 | 冨士大石寺顕正会 |
| 子供 | 長男:浅井克衛 次男:浅井城衛 |
| 両親 | 父親:浅井甚兵衛 |
| 出身校 | 早稲田大学政治経済学部卒業 |
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浅井 昭𫟘(あさい しょうえい、1931年〈昭和6年〉11月30日 -2023年〈令和5年〉10月16日)は、日本の宗教家。冨士大石寺顕正会会長(初代)。早稲田大学政治経済学部卒業。東京都出身。
浅井甚兵衛の長男として東京都に生まれる。戦後の1947年(昭和22年)、16歳の時に立正安国論を読んで本格的に日蓮正宗の信仰に目覚めた。当時の彼の指導教師であった中島日彰・品川妙光寺住職(能化、元・管長代行。円妙院日彰)から、大石寺26世日寛の六巻抄の個人講義を受け、大石寺教学の基礎を学んだ。
その後、早稲田大学政治経済学部に進学するも中退。法道院法華講の青年部長、妙信講青年部長、同本部長を歴任し、顕正会会長となる。全国法華講連合会の統制に抵抗し、日蓮の遺命について、創価学会および大石寺と全面的に対立するに至った。
生前には、このように日顕の温泉豪遊を批判した張本人の浅井自身が、平成八年に日顕が豪遊した同じ高級温泉旅館の同じ特別貴賓室に宿泊したのである。但し、浅井は日顕と違って芸者遊びはしなかったようだが、女子部筋の情報によると、不適切な関係を噂される総合女子部長の加藤礼子だけが何度か浅井の部屋に出入りしていたということである、といった報道がなされた事も有った[1]。
2023年(令和5年)10月25日、顕正会の機関誌である『顕正新聞』において、10月16日未明に死去したことが公表された[2]。91歳没。同紙に掲載された次男・浅井城衛(顕正会理事長、現会長)のコメントによると、数年前から体力の衰えは窺われながら会長としての指揮を続けていたが、同年9月に開催された同会総幹部会での講演を終えた翌々日に体調を崩し、治療・療養していた中での臨終であったという[2]。
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