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法政大学野球部

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
法政大学野球部
法政大学のユニフォーム
加盟団体東京六大学野球連盟
本拠地神奈川県川崎市中原区今井仲町260(合宿所)
創部1915年
監督大島公一
公式サイト公式ウェブサイト
リーグ戦成績
リーグ成績優勝46回
全日本大学野球選手権大会
出場回数20回
最高成績優勝8回
明治神宮野球大会
出場回数16回
最高成績優勝3回
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法政大学野球部(ほうせいだいがくやきゅうぶ、:HOSEI University Baseball Team)は、東京六大学野球連盟に所属する大学野球チーム。法政大学の学生によって構成されている。OB組織の名称は法友野球倶楽部。

ユニフォームは、クリーム色の生地に「HOSEI」と表記されたもの。また野球帽には、「H」の一文字が取り付けられている。

歴史

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  • 草創期の野球部(1916年)
    草創期の野球部(1916年)
  • 1926年秋の法早戦(戸塚球場)
    1926年秋の法早戦(戸塚球場
1930年(昭和5年)、東京六大学野球で初優勝を果たした当時の野球部
  • 1915年(大正4年) 正式に発足。中野(新井薬師)にグラウンドを開設[1]。コーチに早大野球部の八幡恭助を迎える。
  • 1917年(大正6年) 四大学リーグに加盟。野上豊一郎が部長に就任。神田橋グラウンドを借用[2]
  • 1919年(大正8年) 中野球場完成[1]
  • 1930年(昭和5年) 六大学リーグ悲願の初優勝(四大学リーグ加盟以来14年目)。
  • 1939年(昭和14年) 練習グラウンドを川崎市木月(現中原区木月大町武蔵小杉界隈)に移転(2023年現在も使用)。
  • 1960年(昭和35年)全日本大学野球選手権大会初優勝。
  • 2004年(平成16年) リーグ戦通算1000勝達成。
野球部初優勝時のエースだった若林忠志。まだ日本プロ野球界が職業野球として完全に確立していなかった黎明期、球界の発展にも多大な貢献をした。1964年(昭和39年)、野球殿堂入り。

東京六大学リーグ戦が始まった1925年秋季は1分けのみの10敗で最下位からのスタートだった。その後も好選手はいながら2位にもなることなく苦戦が続いたが、主将だった藤田信男が監督に就任しハワイから若林忠志が入学すると一躍に割って入り1930年秋季リーグ戦で初優勝、以後若林在学中に3度の優勝を果たし第一期黄金時代を迎えた。藤田はその後も野球部長として生涯野球部の発展に尽くし「法政野球部の父」と呼ばれている。

戦争に伴う野球弾圧の波は法政にも例外なく及び、1943年をもって活動を停止、翌1944年に部員たちは銃剣術部などに転部を余儀なくされ、本田耕一や坪谷幸一(北海中出身)はじめ数多くの選手・OBたちが戦争の犠牲となった[3]。1945年5月23日夜の空襲によって当時グラウンドのバックネット裏にあった合宿所などを焼失する被害も受けた[4]

終戦後の同45年11月に活動を再開した。1948年、進駐軍に接収されていた武蔵小杉グラウンドが返還された。この年、関根潤三が力投して秋季リーグ戦で戦後初優勝を遂げるが、その後およそ12年あまり天皇杯から遠ざかる長い低迷期に入った。前年1947年から5回実施された、東京六大学、東都大学旧関西六大学の3連盟間で王座を決する全国大学野球王座決定戦の第2回大会(1948年)に出場し優勝した。

1960年春、服部力監督のもと山崎正之新山彰忠両投手、山本一義室山皓之助小川博樋口正蔵らが活躍して久々の優勝を果たした。この頃から六大学リーグ戦で優勝争いの常連となっていく。田丸仁監督を経て松永怜一監督の代になる1960年代後半になると、田淵幸一山本浩二富田勝の「法政三羽烏」や桑原秀範堀井和人ら中軸以外も打ちまくり、その猛打は「法政火山」と呼ばれ恐れられた。また、下級生のエース山中正竹荒川堯谷沢健一ら強力打線擁する早稲田を抑えた。1968年の大学選手権決勝で駒澤大を12-3で圧倒し優勝、同時に東都大学の選手権5連覇を止めた。

「法政三羽烏」卒業後の1969年秋、4年生山中正竹投手がリーグ最多の通算48勝を挙げて優勝。翌1970年から1971年春にかけて横山晴久と1年下の池田信夫両投手と野口善男藤村正美依田優一長崎慶一伊達泰司ら強力打撃陣を擁して最初の4連覇を果たした。しかし、関大山口高志亜大山本和行投手らが立ちはだかり全国優勝は果たせなかった。

初の4連覇から5年後の1976年から江川卓投手(1974 - 1977年)や後に同大学野球部監督となる金光興二植松精一楠原基徳永利美袴田英利島本啓次郎ら「花の(昭和)49年組」を中心に2回目の4連覇を果たす。この4連覇は全4季勝ち点5の完全優勝であり、東京六大学に6例ある4連覇のなかで唯一の記録である。

その後1980年代の10年間は鴨田勝雄竹内昭文両監督の下、田中富生・和田護・樽井徹西川佳明猪俣隆石井丈裕秋村謙宏葛西稔ら豊富な投手陣と武藤一邦木戸克彦西田真二小早川毅彦銚子利夫・山崎正之・伊吹淳一・秦真司島田茂若井基安松井達徳中根仁田中善則大島公一ら強力打撃陣を擁して毎年必ず春秋どちらかのシーズンで優勝を記録、10戦全勝優勝(1982年春季)、無敗優勝(1985年春季)[5]、大学選手権連覇(1984年・1985年)、3度目の4連覇(1987年秋季から)など長期黄金時代を築く。

1990年代初頭に一時優勝から遠ざかる低迷期に入ったものの山中正竹が監督を勤めた1994年から2002年まで、真木将樹伊達昌司矢野英司福山龍太郎安藤優也土居龍太郎らの投手陣と稲葉篤紀、江崎亘、奥村幸司副島孔太平馬淳廣瀬純阿部真宏浅井良後藤武敏ら強力打撃陣を擁して再び毎年優勝を重ねる強い法政が復活した。しかし、全国優勝は大学選手権(1995年)の1回のみに留まる。なお、2000年から2023年秋季リーグ終了現在までのリーグ戦優勝回数は早大が14回、慶明が各12回なのに対し法政は8回(立大1回、東大0回)であり、さらに全国優勝も大学選手権(2009年)の1回のみと、3校に後塵を拝した状況となっている。

リーグ優勝は46回(2023年秋季リーグ終了時点)、うち41回が1960年以降の優勝である。大学選手権優勝も最多の8回を数えるなど、六大学のみならず大学球界の雄として全国にその名をとどろかせている。

ユニフォーム 

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戦前はクリーム色で、新人戦用にグレー地のユニフォームも着用されていた[6]。戦後の1948年秋の優勝後、白のユニフォームとなり1960年まで採用。1961年から1973年まではグレー地。1974年から現行のクリーム色となった[7][8]

野球帽の「H」マークは、1993年まで各自で貼り付けていた。ストッキングは昔と変わらず白の下地にオレンジと濃紺のストライプの配色である[7]

本拠地

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神奈川県川崎市中原区今井仲町260(合宿所)。グラウンドと野球場も併設されている。武蔵小杉駅南口より徒歩約15~20分。

記録

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法政三羽ガラス(1968年)

※獲得タイトルは、東京六大学野球リーグで歴代3位の計57回である。

歴代役員

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部長

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  • 新谷孝朔(1915年 - 1916年)
  • 野上豊一郎(1917年 - 1920年)
  • 小西憲三(1921年 - 1923年)
  • 服部平六(1924年 - 1928年)
  • 井本健作(1929年 - 1930年)
  • 佐々木良一(1931年)
  • 小山竜之介(1932年)
  • 細川潤一郎(1933年 - 1937年)
  • 本間喜一(1938年 - 1939年)
  • 小斉甚治郎(1940年 - 1947年)
  • 藤田信男(1948年 - 1972年)
  • 中村哲(1973年)
  • 三井嘉都夫(1974年 - 1991年)
  • 今井一孝(1992年 - 2004年)
  • 佐藤典人(2005年 - 2012年)
  • 宮脇典彦(2013年)
  • 宮本健蔵(2014年 - 2017年)
  • 神谷健司(2018年 - 2022年)
  • 金光興二(2023年 - )

監督

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藤田信男

主な出身者

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多数につき、Category:法政大学野球部の選手を参照。

1930年(昭和5年)秋の法大野球部(後列左から監督の藤田信男島秀之助、藤井繁、大滝信隆、久保春吉、矢野信男、苅田久徳、武田一義、長沢安治、前列左から鈴木幸蔵、若林忠志、吉田要、鈴木茂、西垣徳雄倉信雄、松井孝敏)

プロ野球ドラフト

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ドラフト年ドラフト指名選手(ドラフト外含む)
第1回 1965年長池徳二 阪急1位鎌田豊 広島3位
第2回 1966年中村之保 南海1位里見忠士 東映3位×、河合楽器近藤徹 サンケイ4位×、日本コロムビア
第3回 1967年鶴岡泰 南海12位×、日本楽器
第4回 1968年山本浩二 広島1位田淵幸一 阪神1位富田勝 南海1位
第5回 1969年堀井和人 南海7位山田克己 南海8位×、大昭和製紙
第6回 1970年野口善男 大洋1位黒田正宏 南海6位江本孟紀熊谷組)東映ドラフト外
第7回 1971年横山晴久 東映1位
第8回 1972年長崎慶一 大洋1位伊達泰司 ロッテ1位
第9回 1973年上林成行(中退・クラレ岡山)近鉄3位
第10回 1974年新井宏昌 南海2位
第11回 1975年岩井靖久 大洋2位古賀正明丸善石油)太平洋クラブ1位山本功児本田技研鈴鹿)巨人5位中西弘明 阪急ドラフト外
第12回 1976年
第13回 1977年江川卓 クラウンライター1位×金光興二 近鉄1位×、三菱重工広島袴田英利 ロッテ1位植松精一 阪神2位島本啓次郎 巨人6位
第14回 1978年高代延博東芝)日本ハム1位
第15回 1979年高浦美佐緒三菱自動車川崎)大洋ドラフト外
第16回 1980年武藤一邦 ロッテ2位佐々木正行(大昭和製紙)ヤクルト2位
第17回 1981年住友一哉プリンスホテル)近鉄6位福原峰夫日本通運)阪急ドラフト外
第18回 1982年木戸克彦 阪神1位西田真二 広島1位田中富生 日本ハム1位谷真一本田技研)近鉄2位
第19回 1983年銚子利夫 大洋1位川端順(東芝)広島1位小早川毅彦 広島2位池田親興日産自動車)阪神2位
第20回 1984年秦真司 ヤクルト2位
第21回 1985年西川佳明 南海1位
第22回 1986年猪俣隆 阪神1位高田誠 巨人3位山越吉洋(本田技研)阪急2位
第23回 1987年若井基安日本生命)南海2位
第24回 1988年中根仁 近鉄2位石井丈裕(プリンスホテル)西武2位金子誠一(本田技研)阪神3位島田茂(日産自動車)ロッテドラフト外
第25回 1989年葛西稔 阪神1位鈴木俊雄日立製作所)ロッテ3位松井達徳(日産自動車)中日4位秋村謙宏日本石油)広島ドラフト外
第26回 1990年瀬戸輝信 広島1位
第27回 1991年高村祐 近鉄1位
第28回 1992年大島公一(日本生命)近鉄5位
第29回 1993年諸積兼司(日立製作所)ロッテ5位
第30回 1994年稲葉篤紀 ヤクルト3位
第31回 1995年
第32回 1996年副島孔太 ヤクルト5位
第33回 1997年真木将樹 近鉄1位
第34回 1998年矢野英司 横浜2位福本誠 横浜4位福山龍太郎 福岡ダイエー4位
第35回 1999年宮﨑一彰(米独立リーグ)巨人7位松田匡司(シダックス)阪神7位
第36回 2000年広瀬純 広島2位阿部真宏 近鉄4位伊達昌司(プリンスホテル)阪神2位開田博勝三菱重工長崎)オリックス5位×田中聡(米独立リーグ)日本ハム7位
第37回 2001年浅井良 阪神自由枠安藤優也(トヨタ自動車)阪神自由枠
第38回 2002年後藤武敏 西武自由枠土居龍太郎 横浜自由枠河野友軌 横浜8巡目北川利之川崎製鉄水島)横浜6巡目
第39回 2003年新里賢 近鉄5巡目佐藤隆彦(元フィリーズ1A)西武7巡目
第40回 2004年田中彰 オリックス5巡目普久原淳一 中日12巡目
第41回 2005年加藤光教 育成中日2巡目
第42回 2006年大引啓次 オリックス大学社会人3巡目西川明 中日大学社会人7巡目
第43回 2007年下敷領悠太(日本生命)ロッテ大学社会人5巡目
第44回 2008年小松剛 広島3位
第45回 2009年二神一人 阪神1位武内久士 広島3位
第46回 2010年加賀美希昇 横浜2位
第47回 2011年
第48回 2012年三嶋一輝DeNA2位
第49回 2013年西浦直亨ヤクルト2位三上朋也JX-ENEOSDeNA4位山本翔也王子阪神5位
第50回 2014年石田健大DeNA2位
第51回 2015年木下拓哉トヨタ自動車中日3位
第52回 2016年
第53回 2017年若林晃弘(JX-ENEOS)巨人6位
第54回 2018年中山翔太 ヤクルト2位
第55回 2019年宇草孔基 広島2位福田光輝 ロッテ5位
第56回 2020年鈴木昭汰 ロッテ1位高田孝一 楽天2位石川達也 DeNA育成1位
第57回 2021年山下輝 ヤクルト1位三浦銀二 DeNA4位岡田悠希 巨人5位
第58回 2022年是澤涼輔 西武育成4位村上喬一朗 オリックス育成5位
第59回 2023年森田駿哉Honda鈴鹿)巨人2位
第60回 2024年篠木健太郎 DeNA2位山城航太郎日本ハム6位
第61回 2025年松下歩叶 ヤクルト1位

脚注

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[脚注の使い方]
  1. ^ab「法政の球場──実は試合のための借球場は一時一ッ橋内にあつたが大正八九年頃となつて球場はまだ麦畑に包まれてゐた中野新井薬師裏に移つた、移つたといふより戻つて来たといふ方が適切であるかも知れない、なぜなら、このグラウンドは大正四年に野球部の創立と共に誕生してゐたからである」(『東京朝日新聞』 1936年9月9日)
  2. ^「法政は新しいグラウンドを中野の新井薬師近くに作ったものの、工事はかどらずとあって、神田橋にほど近い中央気象台の敷地予定地を一時借りて仮グラウンドとしたのであった。神田橋グラウンドは法政の中野球場が完成するまでのあくまで仮のグラウンドであった。」(大和球士 『真説 日本野球史《大正篇》』ベースボール・マガジン社、1977年、100頁)
  3. ^野球体育博物館内の「戦没野球人モニュメント」に刻まれている法政出身者は23名。
  4. ^『法政大学と戦後五〇年』 6頁
  5. ^12戦10勝2分。
  6. ^法大OB、4氏によるユニフォーム談義 法大野球部
  7. ^abユニフォーム 法大野球部
  8. ^ただし、報知グラフ1974年秋号「神宮の星東京六大学野球特集」(報知新聞社発行)には表紙も含め、同年に入学してきた江川卓ら「法政 花の49年組」ら1年生の面々がグレー地のユニを着用してポーズをとる姿が掲載されている。
  9. ^法政大学野球部指導者の交代について法政大学公式ウェブサイト 2020年11月10日

外部リンク

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