| 人物情報 | |
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| 全名 | かわたけ としお |
| 生誕 | (1924-12-07)1924年12月7日 |
| 死没 | (2013-05-06)2013年5月6日(88歳没) |
| 出身校 | 東京帝国大学、早稲田大学 |
| 学問 | |
| 時代 | 昭和 -平成 |
| 研究分野 | 演劇学 |
| 学会 | 日本演劇学会 |
| 主な受賞歴 | 芸術選奨新人賞(1968年) 毎日出版文化賞(1980年) 読売文学賞(1981) 紫綬褒章(1987年) 神奈川文化賞(1988年) 国際交流基金賞(1994年) 勲三等旭日中綬章(1995年) 日本芸術院賞・恩賜賞(2000年) 文化功労者(2001年) 早稲田大学芸術功労者(2002年) NHK放送文化賞(2003年) 旭日重光章(2013年)等 |
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河竹 登志夫(かわたけ としお、1924年12月7日 -2013年5月6日)は、日本の演劇学者。学位は、文学博士(東京大学・論文博士・1974年)(学位論文「近代日本演劇とハムレット : ハムレット移入史の研究」)。早稲田大学名誉教授。1995年勲三等旭日中綬章受章、2000年恩賜賞・日本芸術院賞受賞、2001年文化功労者。
本名は俊雄[1]。演劇研究家・河竹繁俊の二男として東京に生まれる。歌舞伎作者の河竹黙阿弥の曾孫にあたり[2]、祖母(繁俊の養母)の糸女が河竹黙阿弥の娘である[3]。
旧制成城高等学校、東京帝国大学理学部物理学科卒業[4]、早稲田大学第一文学部演劇学科、同大学院を経てハーバード・エンチン研究所客員研究員として招かれた。1964年、早稲田大学教授を経て、のちに名誉教授。1974年東京大学より文学博士の学位を取得、学位論文は「近代日本演劇とハムレット : ハムレット移入史の研究」。1990年、共立女子大学教授。ウィーン大学、北京日本学研究センターの客員教授。日本比較文学会会長、放送文化基金理事長、日本演劇学会会長、日本演劇協会会長などを歴任し、公益法人都民劇場理事長を務めた。
物理学の場の概念を応用した「歌舞伎の「場」理論」や、歌舞伎を反古典主義的・バロック主義的な到達点とする「歌舞伎バロック論」で知られ[3]、〈比較演劇学〉の開祖と称される[5]。また、歌舞伎の海外公演の反響調査も実施した[3]。
1960年の歌舞伎アメリカ公演以降、のべ12回に渡り、歌舞伎海外公演の松竹文芸顧問として同行した[2][3]。1961年、当時のロシア演劇界では稀だった歌舞伎公演を団長として率い、モスクワ、レニングラードで俳優28人・演奏家22人・補助22人での公演を実現した[6]。
1968年、『比較演劇学』で芸術選奨新人賞[1]、また1981年、黙阿弥没後の河竹家の歴史を描いた『作者の家』で読売文学賞、毎日出版文化賞を受賞[1]。1987年に紫綬褒章を受章し[2]、1994年には国際交流基金賞を受賞。1995年に勲三等旭日中綬章を受章[2]。2000年には日本芸術院賞・恩賜賞を受賞し[2][3][7]、2001年に文化功労者に選出された[2][7]。2010年5月には日本経済新聞にて『私の履歴書』を連載した。2003年にNHK放送文化賞を受賞。2013年3月28日の歌舞伎座新開場では「杮葺落興行古式顔寄せ手打式」で狂言名題を読み上げた[3]。本人は「家を継いだ責任を果たした」と語っていたという[5]。
2013年5月6日、東京都内の病院にて心不全のために死去[8]。88歳没。死没日をもって叙正四位、旭日重光章追贈。墓所は中野区源通寺。
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| 太字は恩賜賞受賞者。雅号、筆名、芸名等は受賞時のものによる。表記揺れによる混乱を避けるため、漢字は便宜上新字体に統一する。 | |||||||||