沖野 忠雄(おきの ただお、嘉永7年1月21日(1854年2月18日)[1] -大正10年(1921年)3月26日[2])は、日本の土木技師。工学博士、勲一等。
但馬国城崎郡大磯村(現・兵庫県豊岡市)で、豊岡藩士・沖野春水の次男[3]として生まれる。1871年、豊岡藩の貢進生として大学南校に入学、大学在学中の1876年フランスに派遣され、エコール・サントラル・パリ(École centrale des arts et manufactures)に入学する。1881年帰国後、東京職工学校で工業教育を担当し、1883年より内務省土木局に所属して淀川・大阪港など各地の河川改修・港湾整備に従事する。フランス式の捷水路方式による治水を国内に浸透させた。1911年内務技監となり、1916年からは土木学会会長を務めた。1918年退官。
地元の兵庫県豊岡市にある出石神社境内に沖野忠雄顕彰碑がある[4]。淀川改修工事での難工事(毛馬閘門・洗堰工事)の功労を讃え、内務省大阪土木出張所元所長で、河川工学(特に淀川)の権威の一人である坂本助太郎と共に、淀川河川公園内に「沖野博士記念像」が設置されている[5][6]。