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江戸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
曖昧さ回避江戸」のその他の用法については「江戸 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
ポータル 江戸

江戸(えど、旧字体:江戶[注釈 1] は、東京の旧称であり、1603年から1867年まで江戸幕府が置かれていた都市である。現在の東京都区部に位置し、その前身及び原型に当たる。武蔵国武蔵野台地の東端に位置する地名を指す。この地には平安時代後期に江戸重継が居館を置き、室町時代太田道灌が築城し、その後徳川氏により1603年慶長8年)から1868年慶応4年)まで江戸幕府が置かれたことを契機として巨大都市となった。現在の東京の前身に当たる。

古代

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当時、「江戸」という地名はまだ武蔵国に生まれていなかった。ただし後にそのように呼ばれる場所は平川[注釈 2]日比谷入江[注釈 3]へ注ぐ河口部にあり、律令時代東海道が通っており、早くから村もできていたようである[1]

古代東海道の経路は相模国から武蔵国へ入り、多摩川を渡り橘樹郡から荏原郡へ入り、東京湾の海岸沿いを品川を経て北上し桜田郷に入り、日比谷入江の北端に注ぐ平川の河口部(和田倉門付近)にかかる高橋(現在の大手門橋もしくは平川橋の位置と推測される)を東へ渡り豊島郡(の後の江戸郷)へ入り、神田、鳥越(現・鳥越神社付近)、浅草と進み、隅田川を渡り下総国へ入り、常陸国へ至った。

平安時代

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「江戸」という地名は平安時代後期に、武蔵国豊島郡(当時の平川の東岸)内の小地名として生まれたと考えられている[2]。平安時代中期(930年代頃)に成立した『和名類聚抄』には、「江戸」という地名の記載は無くまだ発生していなかったと考えられ、史料上の初見は鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』である。

その場所は、当時の平川が、和田倉門付近で日比谷入江へ注ぐ河口付近で、概ね平川東岸の神田山(後の駿河台)の裾部から南へ江戸前島(後の江戸郷前島村)までを指すと考えられている 。

地名の由来は、は川あるいは入江とすると、は入口を意味するから「江の入り口」に由来したと考える説が有力である。また「戸」は港町の名称に用いられる例が多いことから、「江の港」とする説[注釈 4][3]もある。あるいは、江戸の近郊にあったとされる今津・亀津・奥津という地名が、現在では今戸亀戸奥戸と称されている事から、「江の津」とする説[2]もある。

なお『和名類聚抄』記載の武蔵国豊島郡内の付近の当時の郷名として、「湯島郷」(現在の文京区湯島)・「日頭郷」(同区小日向)があり、江戸はどちらかの郷内に属したと考えられる。ちなみに平川(および日比谷入江)を挟んで西に隣接する荏原郡内には「桜田郷」も記載されている(千代田区霞が関の旧称である桜田に名が残り、太田道灌以降の江戸城が平川河口を見下ろす麹町台地東端に建てられた)。

江戸氏

平安時代後期の12世紀に、秩父氏の一族が、武蔵国の秩父地方から出て河越から入間川(現荒川)沿いに進出し、この地に目を付け、居館を構えた(江戸重継[4]

江戸重継はこの地名を名乗りとし(江戸太郎を称した)[2]、その後の江戸氏の勢力伸長に伴い、この地は豊島郡江戸郷として認識されるようになった。

江戸重継の子である江戸重長1180年源頼朝が挙兵した時には、当初は平家方として頼朝方の三浦氏と戦ったが、後に帰属し鎌倉幕府御家人となった。

鎌倉時代

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この頃の鎌倉から常陸国(さらに北上し奥州)へ向かう街道(鎌倉街道)も、江戸を通り、律令時代東海道と同じ経路だった。

弘長元年10月3日1261年)、江戸氏の一族の一人であった地頭江戸長重正嘉の飢饉による荒廃で経営ができなくなった江戸郷前島村を北条氏得宗家に寄進してその被官となり、1315年までに得宗家から円覚寺に再寄進されていることが記録として残されている。なおこれが「江戸郷」という地名の初出とされる。

また、弘安4年4月15日1281年)に長重と同族とみられる平重政が作成した譲状[5]には「ゑとのかう(江戸郷)」にある「しハさきのむら」にある在家と田畠の譲渡に関する記述が出てくる。この芝崎村(もしくは柴崎村)は同郷前島村の北側、今の神田付近と推定されている[2]。また同郷には、芝崎村の西側に平川村が存在した(平川の河口部東岸)。平川は後の江戸城三ノ丸の堀の和田倉門付近で日比谷入江へ注いだと考えられている[6]

なお、桜田郷は元来荏原郡に属したが、隣接する豊島郡江戸郷と一体として認識されるようになったことが後世の文書記録から裏付けられる。このように認識されるようになった原因は、江戸氏が両郷を勢力下に入れたことが大きいと推測される[2]。また、桜田郷は鎌倉時代後期には北条氏の所領となり、北条時宗の異母弟である僧侶・時厳に与えられて子孫に伝えられたもと言われている。

室町時代

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鎌倉幕府が滅びると、江戸氏一族は南北朝の騒乱において新田義貞に従って南朝方につくなどしたが、室町時代に次第に衰え江戸郷・桜田郷を去ったが、子孫は多摩郡喜多見へ移って活動を続けた。

応永27年(1420年)紀州熊野神社の御師が書き留めた「江戸の苗字書立」によれば、さらに多摩川下流の大田区蒲田・六郷・鵜の木丸子や隅田川下流域の金杉石浜牛島、江戸郷の国府方柴崎、古川沿いの飯倉、小石川沿いの小日向、渋谷川沿いの渋谷、善福寺川沿いの中野阿佐谷にも江戸氏一族が展開した。

応永30年(1423年)には江戸氏一族とみられる江戸大炊助憲重が「武州豊嶋郡桜田郷」の土地売却を巡って訴訟を起こしており、文書記録に残る。

太田道灌
太田道灌

江戸郷・桜田郷から江戸氏が去った跡には、太田資長が入り(のちの太田道灌関東管領上杉氏の一族扇谷上杉家の有力な武将であり家老であった)、桜田郷の麹町台地東端に江戸城を築いた。江戸城は、一説には康正2年(1456年)に建設を始め、翌年完成したという(『鎌倉大草紙』)。太田資長は文明10年(1478年)に剃髪し道灌と号し、文明18年(1486年)に謀殺されるまで江戸城を中心に南関東一円で活躍した。

道灌の時代も平川日比谷入江へ注いでいた。江戸前島を挟んで西に日比谷入江、東に江戸湊(ただし『東京市史稿』は日比谷入江を江戸湊としている)が位置し、浅草湊品川湊と並ぶ中世武蔵国の代表的な湊であった。これらの湊は東京湾最奥部に面し、利根川(現在の古利根川中川)や荒川などの河口に近く、北関東の内陸部から水運を用いて鎌倉・小田原西国方面に出る際の中継地点となった。

太田道灌の時代、長く続いた応仁の乱により荒廃した京都を離れ、権勢の良かった道灌を頼りに下向する学者や僧侶も多かったと見られ、平川の村を中心に城下町が形成された[7]吉祥寺は当時の城下町のはずれにあたる現在の大手町付近にあり、江戸時代初期に移転を命じられるまで同寺の周辺には墓地が広がっていた(現在の「東京駅八重洲北口遺跡」)。平河山を号する法恩寺浄土寺も縁起からかつては城の北側の平川沿いの城下町にあったとみられている。また、戦国時代には「大橋宿」と呼ばれる宿場町が形成された。更に江戸城と河越城を結ぶ川越街道や小田原方面と結ぶ矢倉沢往還もこの時期に整備されたと考えられ、万里集九宗祇宗牧など多くの文化人が東国の旅の途中に江戸を訪れたことが知られている[8]

道灌の死後、扇谷上杉氏の当主である上杉朝良長享の乱の結果、隠居を余儀なくされて江戸城に閉居することになった。ところが、その後朝良は実権を取り戻して江戸で政務を行い、後を継いだ朝興も江戸城を河越城と並ぶ扇谷上杉氏・武蔵国支配の拠点と位置付けた。

後北条氏

だが1524年後北条氏は、高輪原の戦いで扇谷上杉氏を破り、江戸城を奪った。後北条氏はそれまでの相模国・伊豆国の支配に加え、東京湾(江戸湾)の西半分までも支配下に置いた。これに衝撃を受けた東半分の房総半島の諸勢力(小弓公方里見氏)に後北条氏との対決を決意させたと言われている[9]。後北条氏末期には北条氏政が直接支配して太田氏千葉氏を統率していた。支城の支配域としては、東京23区隅田川以西・以南および墨田区川崎市多摩地区の各々一部まで含まれている。

安土桃山時代

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この節の加筆が望まれています。 2025年11月

関東では北条氏が小田原城を根城に、広い勢力圏を誇り、この江戸の地も北条氏が支配する地となった。周辺には北条氏の勢力下の武将らの支城が置かれていた。

1590年後北条氏小田原征伐豊臣秀吉に滅ぼされると、徳川家康が後北条氏の旧領に封ぜられ、家康は関東・奥羽方面の押さえを期待された。

家康は関東地方の中心となるべき居城を江戸に定めた。なお小田原征伐中に豊臣秀吉が江戸城に御座所を設ける意向を表明しており(「富田文書」)、家康の移封後の本拠地の決定についても秀吉の意向が働いたらしい[10]。同年の旧暦8月1日八朔[注釈 5]、家康は駿府から居を移すが、当時の"江戸城"は老朽化した粗末で小さな城であったという。

家康は江戸城本城の拡張は一定程度に留める代わりに城下町の建設を進め、駿河台神田山を削り、日比谷入江を埋め立てて町を広げ、家臣と町民の家屋敷を配置した。突貫工事であったために、埋め立て当初は地面が固まっておらず、乾燥して風が吹くと、もの凄い埃が舞い上がるという有様だったと言われる。この時期の江戸城はこれまでの本丸・二ノ丸に、西丸・三ノ丸・吹上・北ノ丸があり、また道三堀の開削や平川江戸前島中央部への移設、それに伴う埋め立てにより、現在の西丸下の半分以上が埋め立られている(この時期の本城といえるのはこの内、本丸・二ノ丸と家康の隠居所として造られた西丸である)。

江戸時代

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徳川家康

家康が1600年関ヶ原の戦いに勝利して天下人となり、1603年征夷大将軍に任ぜられると、幕府の所在地として江戸の政治的重要性は急速に高まり、徳川家に服する諸大名の屋敷が設けられた。江戸に居住する大名の家臣・家族や、徳川氏の旗本御家人などの武士が数多く居住するようになるとともに、町人を呼び寄せて、町が急速に拡大した。江戸城とその堀は幕府から諸大名に課せられた手伝普請によって整備され、江戸城は巨大な堅城に生まれ変わり、城と武家屋敷を取り巻く広大な惣構が構築された。(都市開発の歴史については後の都市の章で述べる。)

江戸時代の江戸の概要
江戸図屏風に見る、初期の江戸
弘化年間(1844年-1848年)改訂江戸図
1853年の青山通り宮益坂上(左)~青山2丁目(右)、麻布長谷寺(中央下)近辺。根岸信輔蔵。

江戸は、江戸時代に江戸幕府が置かれた日本政治の中心地(行政首都)として発展した。また、江戸城徳川氏将軍の居城であり、江戸は幕府の政庁が置かれる行政府の所在地であると同時に、自身も天領を支配する領主である徳川氏(徳川将軍家)の城下町でもあり、武陽(ぶよう)と呼ばれることもあった。

徳川氏が関ヶ原の戦いに勝利し1603年に征夷大将軍となると、江戸は一気に重要性を増した。徳川家に服する武将(大名)に江戸の市街地普請が命じられ、山の切り崩しや入り江や湾の埋め立て等が行なわれ、旗本御家人などの武士、家臣、その家族らが数多く居住するとともに、町人が呼び寄せられ、江戸は急速に拡大した。1612年(慶長17年)には江戸町割が実施され[11]1623年元和9年には武家地に町人が住むことが禁じられた。1635年(寛永12年)に参勤交代が始まると、新たに大名とその家族のための武家屋敷が建設された。

木造家屋が密集しており、火事が頻発した(江戸の火事)。1657年3月2日(明暦3年旧暦1月11日)には、明暦の大火が発生し、多大な被害が生じたが、その後も市街地の拡大が続いた。

江戸の町を大きく分けると、江戸城の南西ないし北に広がる町(山の手)と、東の隅田川をはじめとする数々の河川・堀に面した町(下町)に大別される。江戸時代前期には、「山の手が武家屋敷で、下町が町人の町」と一般的に言われていたが、江戸時代中期以降の人口増加によって、山の手に町人町が存在(千代田区の一部が挙げられる)したり、逆に下町に多くの武家屋敷が存在するなど、実際はかなり複雑な様相を示していた。江戸の都市圏内には非常に多数の(そして多様な)町が存在するようになり「江戸八百八町」とも言われるようになり、18世紀初頭には人口が百万人を超え、世界有数の大都市へと発展を遂げた。膨大な数の庶民によって多彩な文化が開花した。また、江戸は循環型社会であった[12]。江戸の住人は「江戸者」「江戸衆」「江戸人」などと言ったが、江戸で生まれ育った生粋の江戸人や、根っから江戸者らしい性質(小さなことにこだわらず、だが意地張りで、しばしばせっかちで短気、等々)を備えた町人が江戸っ子と呼ばれた。→#生活と文化

ウィキソースに慶長見聞集の原文「江戸町の道どろふかき事」があります。
愛宕山から見た江戸のパノラマ』 撮影者:フェリーチェ・ベアト 1865-1866頃

江戸の行政・司法(および警察)

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江戸の「町方支配場」の行政・司法は江戸町奉行南町奉行および北町奉行)が管理した。町奉行が管理したのは あくまで町方のみであり、神社や寺院の私有地である「寺社門前地」や江戸城・大名屋敷等の「武家地」は町奉行の管理(支配)は及ばなかった。

だがその後、1745年(延享2年)に寺社門前地内の町屋を江戸町奉行が管理することが正式に通達され、門前町町屋・寺社領町屋440箇所、寺社境内借家有の分127箇所、合計567箇所が町奉行の支配となった。江戸町方支配場・寺社門前地の町数は享保8年(1723年)に1672町、延享3年(1746年)に1678町、天保19年(1843年)には1719町に増えた。『江戸図説』によると天明年中(1785年頃)の江戸町数1650余町の内、町方分1200余町、寺社門前地分400余町で、他に大名上屋敷265ヶ所、中屋敷・下屋敷466ヶ所[注釈 6]、「神社凡そ200余社」「寺院凡1000余所」との記述がある。

町奉行の管理領域だけでなく、「江戸御府内」の範囲も時代によって変化があり、特に寺社門前地をどう取り扱うかについては幕府役人の間でも混乱があったことをうかがわせる書簡が残っている。1818年(文政元年)には江戸御府内を「朱引」、町奉行の支配領域を「墨引」と呼び、江戸御府内であっても町奉行の支配下ではない地域が郊外にできた(これらの地域は武家屋敷と武家所領、寺社門前地と寺社所領などで、御府内であっても一部で代官支配体制が続いており、武家屋敷と共にかなりの農地が存在し、また一部では町屋を形成していたと考えられている)。また1854年安政元年以降は新吉原品川・三軒地糸割符猿屋町会所までが町奉行の支配下に入った。

江戸の人口

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→詳細は「江戸の人口」を参照

範囲

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→幕府によって定められた市域については朱引も参照
江戸の墨引(≒明治期の朱引)の範囲を引き継いだ明治期の東京市街(1890年)。江戸城の東、現在の丸の内東京駅付近を中心とする半径4kmほどの円状を為す。

江戸時代初期における江戸の範囲は、現在の東京都千代田区とその周辺であり、武家屋敷も町人地も外堀の内側であり、外堀が江戸の外構であった。明暦の大火以後、その市街地は拡大。通称「八百八町」と呼ばれるようになる。1818年、朱引の制定によって、江戸の市域は初めて正式に定められることになった[13]。今日「大江戸」としてイメージされるのは、一般にこの範囲である[14]

江戸の外郊はすべて徳川将軍家、御三家、あるいは許可された一部の有力大名のための鷹場が設定されており、鳥見という特別の役人により厳しく規制されており、日本橋から五里四方(実際には御三家などに認められた区域があり、より広い)は街道筋や寺社地周辺などを除けば当初は新田開拓を含め著しく規制を受けていた。そのため日本橋を立ってしばらく行けばすぐ原野が広がるような状況であった。徳川家光の時代には、麻布、品川、目黒、高田馬場、千住、葛西、王子、墨田川などで頻繁に鷹狩が行われた記録があり(『徳川実記』)[15]、家光の時代、これらはすでに江戸の郊外であったことが分かる。鷹場は時期や政策(とりわけ明暦の大火以降の、江戸城の外堀より外への拡張、隅田川東岸への拡張)により変化しており、反射的に鑑みれば内藤新宿や品川宿など街道筋が町続きとなった方面以外については、鷹場のきわまでが実質的な江戸城下と考えてよい[16][17]

支配の観点では、江戸時代には江戸御府内ともいったが、その範囲はやはり時期により、あるいは幕府部局により異なっていた。江戸時代の統治は各藩による自分仕置であり、将軍から拝領した江戸屋敷は各藩の大使館であり治外法権の領域であった。一方で町人は江戸の1割5分ほどの極めて限られた町人地に集住させられており、南北両町奉行の支配を受けた。居住地はすべて幕府からの拝領であり私有財産ではないが、実質的には交換や売買が可能で、江戸屋敷については相互に合意のうえ幕府から許可をえる相対替が、町人地についても家守を通じた売買が可能であった。江戸は身分制居住が原則であったが、武士が町人地を所持しそこに住むことも、武家地を小分けにして町人に貸し出されることもあった。町人から地代・店賃を取って生計の足しにしたのである[18]

浅草寺、寛永寺、増上寺といった巨大寺院の領域は各々の寺院法度により統治され、これも原則として治外法権の領域であったが寺社奉行による支配を受けた。

一般に江戸御府内の町人地は町奉行の支配範囲と理解された。その支配地は拡大していった。寛文2年(1662)に街道筋の代官支配の町や300町が編入され、正徳3年(1713)には町屋が成立した場所259町が編入された。さらに、延享2年(1745)には寺社門前地440カ所、境内227町が町奉行支配に移管された。この町奉行の支配範囲とは別に御府内の範囲とされた御構場の範囲、寺社奉行が勧化を許す範囲、塗り高札場の掲示範囲、旗本・御家人が御府外に出るときの範囲などが決められた。これらの御府内の異同を是正するため、文政元年(1818)に絵図面に朱線を引き、御府内の範囲を確定した。これにより御府内の朱引内(しゅびきうち)とも称するようになった。[19] この範囲外は朱引外(しゅびきそと)と称した。

江戸の市街地の拡大(内藤昌 「江戸―その築城と都市計画―」 月刊文化財 175号(1978年))
年号西暦総面積武家地町人地寺社地その他
正保年中1647年頃43.95 km234.06 km2
(77.4%)
4.29 km2
(9.8%)
4.50 km2
(10.3%)
1.10 km2
(2.5%)
寛文10~13年1670~1673年63.42 km243.66 km2
(68.9%)
6.75 km2
(10.6%)
7.90 km2
(12.4%)
5.1 km2
(8.1%)
享保10年1725年69.93 km246.47 km2
(66.4%)
8.72 km2
(12.5%)
10.74 km2
(15.4%)
4.00 km2
(5.7%)
慶応元年1865年79.8 km250.7 km2
(63,5%)
14.2 km2
(17.8%)
10.1 km2
(12.7%)
4.8 km2
(6.0%)
明治2年1869年56.36 km238.65 km2
(68.6%)
8.92 km2
(15.8%)
8.80 km2
(15.6%)

この他にも刑罰の観点では江戸払の規定があり、これは日本橋から五里四方に立ち入ることを禁止する刑罰であるが、実際の運用はもっと狭く、品川、板橋、千住、本所、深川、四谷の関所や木戸を「御構場所」として、関所内への立ち入りを禁ずる刑罰としていた。

各地の詳細

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以下に江戸に含まれる主な歴史的地名をあげる。

実際には、既に触れたように江戸の地は平安時代末期から関東南部の要衝であった。確かに徳川氏の記録が伝えるように、後北条氏時代の江戸城は最重要な支城とまではみなされず城は15世紀の粗末な造りのまま残されていたが、関八州の首府となりうる基礎はすでに存在していた。

しかし、江戸が都市として発展するためには、日比谷入江の東、隅田川河口の西にあたる江戸前島と呼ばれる砂州を除けば、城下町をつくるために十分な平地が存在しないことが大きな障害となる。そこで徳川氏は、まず江戸城の和田倉門から隅田川まで道三堀を穿ち、そこから出た土で日比谷入江の埋め立てを開始した。道三堀は墨田川河口から江戸城の傍まで、城の建造に必要な木材や石材を搬入するために活用され、道三堀の左右に舟町が形成された。また、元からあった平地である今の常盤橋門外から日本橋の北に新たに町人地が設定された(この時と時期を同じくして平川の日比谷入江から江戸前島を貫通する流路変更が行われたと思われる)。これが江戸本町、今の日本銀行本店や三越本店がある一帯である。さらに元からあった周辺集落である南の、北の浅草や西の赤坂、牛込、麹町にも町屋が発展した。この頃の江戸の姿を伝える地図としては『別本慶長江戸図』が知られている。

江戸中心部の主要な門と橋、寺社。青部分は江戸を敵から守る堀と神田川、隅田川。

江戸は「の」の字形に設計された[20]ことが一般の城下町と比べて特異であるといわれる。 つまり、江戸城の本城は大手門から和田倉門、馬場先門、桜田門の内側にある本丸、二の丸、西の丸などの内郭に将軍、次期将軍となる将軍の世子、先代の将軍である大御所が住む御殿が造られ、その西にあたる半蔵門内の吹上に将軍の親族である御三家の屋敷が置かれた。内城の堀の外は東の大手門下から和田倉門外に譜代大名の屋敷、南の桜田門の外に外様大名の屋敷と定められ、西の半蔵門外から一ツ橋門、神田橋門外に至る台地に旗本御家人が住まわされ、さらに武家屋敷地や大名屋敷地の東、常盤橋・呉服橋・鍛冶橋・数寄屋橋から隅田川、江戸湾に至るまでの日比谷埋立地方面に町人地が広げられた。これを地図で見るとちょうど大手門から数寄屋橋に至るまでの「の」の字の堀の内外に渦巻き上に将軍・親藩・譜代・外様大名・旗本御家人・町人が配置されている形になる。巻き貝が殻を大きくするように、渦巻き型に柔軟に拡大できる構造を取ったことが、江戸の拡大を手助けした。

家康の死後、2代将軍徳川秀忠は、江戸の北東の守りを確保するため、小石川門の西から南に流れていた平川をまっすぐ東に通す改修を行った。今の水道橋から万世橋(秋葉原)の間は本郷から駿河台まで伸びる神田台地があったためこれを掘り割って人工の谷を造って通し、そこから西は元から神田台地から隅田川に流れていた中川の流路を転用し、浅草橋を通って隅田川に流れるようにした。これが江戸城の北の外堀である神田川である。この工事によって平川下流であった一ツ橋、神田橋、日本橋を経て隅田川に至る川筋は神田川(平川)から切り離され、江戸城の堀となった。この堀が再び神田川に接続され、神田川支流の日本橋川となるのは明治時代のことである。

更に3代将軍徳川家光はこれまで手薄で残されてきた城の西部外郭を固めることにし、溜池や神田川に注ぎ込む小川の谷筋を利用して溜池から赤坂、四ッ谷、市ヶ谷を経て牛込に至り、神田川に接する外堀を造らせた。全国の外様大名を大動員して行われた外堀工事は1636年に竣工し、ここに御成門から浅草橋門に至る江戸城の「の」の字の外側の部分が完成した。

城下町において武家地、町人地とならぶ要素は寺社地であるが、江戸では寺社の配置に風水の思想が重視されたという。そもそも江戸城が徳川氏の城に選ばれた理由の一因には、江戸の地が当初は北の玄武麹町台地、東の青龍平川、南の朱雀日比谷入江、西の白虎東海道、江戸の拡大後は、玄武に本郷台地、青龍に大川(隅田川)、朱雀に江戸湾、白虎に甲州街道四神相応に則っている点とされる[21]。関東の独立を掲げた武将で、代表的な怨霊でもある平将門を祭る神田明神は、大手門前(現在の首塚周辺)から、江戸城の鬼門にあたる駿河台へと移され、江戸惣鎮守として奉られた。また、江戸城の建設に伴って城内にあった山王権現(現在の日枝神社)は裏鬼門である赤坂へと移される。更に、家康の帰依していた天台宗の僧天海が江戸城の鬼門にあたる上野忍岡を拝領、京都の鬼門封じである比叡山に倣って堂塔を建設し、1625年寛永寺を開山した。寛永寺の山号は東叡山、すなわち東の比叡山を意味しており、寺号は延暦寺と同じように建立時の年号から取られている。

江戸は海辺を埋め立てて作られた町のため、井戸を掘っても真水を十分に得ることができず、水の確保が問題となる。そこで、赤坂に元からあった溜池が活用されると共に、井の頭池を水源とする神田上水が造られた。やがて江戸の人口が増えて来るとこれだけでは供給し切れなくなり、水不足が深刻になって来た。このために造られた水道1653年完成の玉川上水である。水道は江戸っ子の自慢の物の一つで、「水道の水を産湯に使い」などと言う言葉がよく使われる。

1640年には江戸城の工事が最終的に完成し、江戸の都市建設はひとつの終着点に達した。しかし、1657年明暦の大火が起こると江戸の町は大部分が焼亡し、江戸城天守も炎上してしまった。幕府はこれ以降、火事をできるだけ妨げられるよう都市計画を変更することになった。これまで吹上にあった御三家の屋敷が半蔵門外の紀尾井町に移されるなど大名屋敷の配置換えが行われ、類焼を防ぐための火除地として十分な広さの空き地や庭園が設けられた。

大名屋敷が再建され、参勤交代のために多くの武士が滞在するようになると、彼らの生活を支えるため江戸の町は急速に復興するが、もはや外堀内の江戸の町は狭すぎる状態だった。こうして江戸の町の拡大が始まり、隅田川の対岸、深川・永代島まで都市化が進んでいった。南・西・北にも都市化の波は及び、外延部の上野浅草が盛り場として発展、さらに外側には新吉原遊郭が置かれていた。

江戸の災害

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→詳細は「江戸の火事」を参照

江戸の街は建設の当初から幕末まで、一貫して火災と地震に悩まされた。火災については江戸時代266年間を通じて大火と呼べるものの記録が89回あり、うち町火消の制度が整備された1695年から1732年の38年間に限っても34回の記録が残されている[22]。江戸城の火災だけでも失火や類焼を含めて、江戸期を通じて36回に及び、本丸だけでも5回消失している(1639年、1657年、1844年、1859年、1863年)。天守閣については1657年の明暦の大火の際に焼失したのを契機に再建されることはなかった[23]

地震については江戸期の日本全国で18回分の記録が知られており、そのうち江戸の都市が直接被害を受けたものは大きいものが1854年の安政東海地震・1855年の安政江戸地震があり、それ以外にも近隣都市には多大な被害を出し、江戸の街にも被害が出たものとして1677年の延宝房総沖地震、1703年の元禄地震、1707年の宝永地震、1782年の天明小田原地震、1853年の嘉永小田原地震などが数えられる[24]

このほか1707年の富士山の噴火(宝永大噴火)や1783年の浅間山の大噴火(天明大噴火)の際には江戸の街にも降灰があり、また周辺地域の荒廃により食糧供給の混乱や気候変動の影響を受けたとされる。

江戸の都市問題

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1657年明暦の大火の後、再建事業によって市域は隅田川を超え、東へと拡大した。その人口は絶えず拡大を続け、18世紀初頭には人口が百万人を超え、大江戸八百八町といわれる世界有数(一説によると当時世界一)の大都市へと発展を遂げた。人口の増大は、江戸を東日本における大消費地とし、日本各地の農村と結ばれた大市場、経済的先進地方である上方近畿地方)と関東地方を結ぶ中継市場として、経済的な重要性も増した。当時の江戸は、『東都歳時記』、『富嶽三十六景』にみる葛飾北斎の両国(現在の墨田区)からの作品などからも見られるように、漢風に「東都」とも呼ばれる大都市となっていた。18世紀末から19世紀初めには、上方にかわる文化的な中心地ともなり、経済活動や参勤交代を通じた江戸を中心とする人の往来は江戸から地方へ、地方から江戸へ盛んな文化の伝播をもたらした。

一方で、膨大な人口が農村から江戸に流入して、様々な都市問題を引き起こすことにもなった。ごみ処理と下水処理がその典型であり、江戸開府当初は人口も少なく、また土地も大量に未開発地が残されていたため、各家がおのおの適宜処理していたものと思われる。とくに武家地は当初は参勤交代の制も義務化されておらず、一方で広大な敷地を拝領していたため、谷地や窪地などに適宜投棄したり焼却していたと考えられている。しかし三代家光の頃にはごみ処理が問題となっていたようであり、慶安元年(1648年)にはごみによる街路補修や下水溝へのごみ投棄を制する禁令が発出されている。翌年には会所地にごみを捨てることを厳禁とする制札が出され、これは町人地では処分地に困り結果として町人の共有場所である会所がごみ捨て場となっていたことを暗示する。家光の代では禁令を出すばかりで適切なごみ政策が幕府から指示されることはなかったのであるが、四代家綱の代には永代浦をごみの投棄場所に指定する制札が出され、その後ごみ処理の請負人の指定や収集料金の定制、綱吉の代にはごみ焼却処分の禁止や投棄場所の指定、吉宗の代に埋め立て地の指定などが行われ、段階的にごみ処理制度が確立されていることが確認できる[25]

江戸のごみ問題は堀や池の水質汚染問題としても深刻化したと考えられている。慶長11年(1606年)に虎ノ門に堤を築き溜池とした箇所は、当初は水質がよく上水に使用できるような状態であった。しかしごみの処分や下水の流入などによって次第に飲用に適さない水質となり、これが承応3年(1654年)の玉川上水の整備の理由となった[26]。江戸の沿海部は堀や河川の勾配がほとんどなくなるため汽水化しやすく、また関東ロームを形成する風塵(レス)により微細な粒子が河川に滞留するため富栄養化しやすく、これらも堀や川の悪臭・衛生問題となっていた。中央区の日本橋一丁目遺跡からは1630年から40年ころに開削されたと推定されている下水の遺構が発掘されており、この時期にはすでに下水が整備され始めていたことが分かる。新宿区市谷や四谷などでも町々の下水をさらに集める大下水が、尾張藩上屋敷跡などからも下水は確認されている。

感染症の流行も重要な問題で、天然痘(疱瘡)、麻疹(はしか)、赤痢などの痢病、そして幕末期に海外からもちこまれたコレラなどが猛威を振るった。なお西欧の中世期に猖獗をきわめた黒死病(ペスト)の日本国内への伝播は明治後期であり、江戸期には発生した記録は存在しない。

1858年(安政5年)から1860年(万延元年)にかけて、市中でコレラの大流行が発生。死者数は把握できないほど多く、1858年(安政5年)の死者数は、月で万人単位の死者を出した。『今日鈔』では病死10万人、『日本災異志』では同年7月17日から55日間の死者数を、諸寺院の扱った死者数から16万人と推計している[27]

牢人問題は江戸特有の問題であり、とくに武断政治が行われた江戸初期には大名の改易・減俸などを原因とする数十万の牢人が発生し、彼らは再就職の手立てを求めて江戸に滞留したため、幕府は彼らを厳しく取り締まった。すなわち江戸市中からの追放、構の設定、寄住の制限、という強硬策である。これは京都でも実施された記録がある[28]慶安事件を契機に牢人発生の原因となる大名の改易は減少したが、江戸では町奉行による掌握と管理の下、名字帯刀と町方での居住が許されるようになる。この時期においては再仕官の可能性はほとんど閉ざされており、帰農や帰商するなり、武芸や学問、文芸の分野に進出するなり、寺小屋の師匠などとして生活を維持するより外はなかった。また1600年代の末ころからは、足軽や若党といった出替奉公人(パートタイムの奉公人)が都市に滞留して牢人化するなど、問題が発生した[29]

江戸の学校、教育と識字率の高さ

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身分(武士、僧侶、町人)によって識字率が異なっており、江戸という都市は、5割〜4割前後[注釈 7]を武士が占め、つまり日本の都市の中でも突出して武士が多く、その武士の識字率は高くほぼ100%であったので、必然的に非常に識字率が高くなった。また江戸の人口の5%前後とされた仏教の僧侶も、高度な仏教系の哲学を学び、当然識字率もほぼ100%であり、それらの2つ身分が高度に知的な活動を行っていたので、江戸の識字率はそれだけでも必然的に高くなった。あとは、江戸の人口の残り(5割前後)を占めた町人がどの程度の識字率にできたかが、都市江戸の全体の識字率に影響した。(さらに、江戸市中には武家地には武家屋敷、町人地には表店やその裏手に長屋が密集し、土地が足りず農地が基本的になかったので、江戸市中には農民(農民という識字率が低い人々。識字率の足をひっぱりがちな、教養レベルの低い人々)が住んでいないことが江戸の識字率を上げた。)

  • 武士 - 江戸時代、武士が必ず学ばなければならない書物として儒学朱子学)の経典(書物)があった。(徳川幕府により儒学は身分秩序を保つのに都合が良いと判断されて奨励され、学ばないわけにはいかなかった)。また武士としての心構えを説く武道書も読むべきとされた。各藩は江戸の上屋敷、中屋敷、下屋敷のいずれか(あるいは複数に)藩の学校を置き、武士のそれらの本を学ばせた。(したがって、武士の知的水準をはかる "ものさし" は "識字率"すなわち"文字が読めるか読めないか"などという低いものではなく、当然文字の読み書きを学んだ上でその何段階も上の水準の学習、儒学の書物を学んだり、その複数の節をそらんじる(暗記する)などということ、どこまで高めていけるか、という水準で測るものであった。)
  • 僧侶 - 僧院(寺)というものが一種の学校であり、経典の読み書きをする(高度な仏教哲学にもとづいて書かれた経典を学び、僧侶の"つとめ"として漢字で書かれたお経を日々読誦し、ときに写経も行った)ので、仏教僧侶は"識字率はどうか"などという低い水準の "ものさし" で測る存在ではなく、その何段階も上の高度な仏教哲学を学んでいた。
  • 町人 - 町人の多くも字の読み書きを学んでいた。
    • 寺子屋の多さ - 江戸には町人が学ぶことができる学校である寺子屋が少なくとも数百、実際には1000を超える寺子屋があったとされる。寺子屋の師匠の大半は江戸の町民であり、多くは男性だったが、特に江戸においては女性の師匠もおり、師匠たちは、寺子屋に学びにやってくる子供たちひとりひとりの親の職業や本人の希望を考慮し、それぞれにあったカリキュラムを個別に、しなやかに用意する、現代でいう個別指導(個別教育)を行っていた。
    • 裕福な商人の教育 - たとえば、江戸の表通りに面する表店(おもてだな)を構える裕福な商人は大福帳(現代でいう経理帳簿)の読み書きをする必要があり必ず読み書きを学んだ(それだけでなく、商人は"金の計算"をできなければ商人としてやっていけないので、当然の素養として、算術も学んだ)。
    • 出版業の繁栄 - 江戸では出版業(版元)が盛んであった。元禄年間以降、急速に江戸の地元の版元が台頭した[30]。特に、江戸で独自の発展を遂げたのが、草双紙くさぞうし(絵入りの通俗小説)や浮世絵版画を専門とする地本問屋が台頭した[31]。江戸の出版点数は、18世紀後半には上方を凌駕するに至り、文化的中心地としての地位を確立した[32]江戸には草双紙くさぞうしと呼ばれる、絵入りの通俗小説があり、草双紙には通常、ひらがなでふりがな(ルビ)がふってあったので、(たとえ子供時代につい寺子屋で漢字の学習をさぼってしまった人でも、つまり現代でいう "おちこぼれ" になってしまった人でも)大人になってからでも、絵とふりがなを見ながら(げらげらと笑いつつ)楽しく学び、漢字を学習することができた。つまり、江戸では "学びなおし" や "生涯学習" がしやすい環境が整っていた。

江戸にはそれらの好条件が揃っており、(はっきりとした数字は不明だが)江戸の町人も、おそらく半数以上が文字を読む事が出来たと考えられている。[注釈 8]  

識字率

江戸の人口構成は、識字率がほぼ100%の武士、識字率がほぼ100%の仏教僧侶、そして、武士でも僧侶でもないのに識字率が高い江戸の町民、農民(識字率が低い人々)が基本的にはいなかった、これらの4つの条件が揃っていたので、結果として識字率が高かった。江戸の成人男性の識字率幕末には70%を超え、同時期のロンドン (20%)、パリ(10%未満)を遥かに凌ぎ、世界的に見れば極めて高い水準であった。ロシア人革命家メーチニコフや、ドイツ人の考古学者シュリーマンらが、驚きを以って識字状況について書いている。

(あえていうと、1783年(天明3年)の浅間山の大噴火が原因となって農作物が不作となり天明の大飢饉(1782年〜1787年頃)が生じたことで、農民(識字率が低い)が必死に生き延びようとして周辺域から江戸市中に流れ込んだ際は、江戸の"識字率"が低下しただろうと推察される。そして、飢饉で江戸に流れ込んだ農民がおうおうにして、無職の無宿者、"チンピラ" や " ごろつき " になり、盗みや暴力沙汰を引き起こし江戸の治安の悪化の原因にもなった。江戸では当初はそういうゴロツキどもを厳しい処罰していたが、長谷川平蔵はそういう者たちを見捨てず、立ち直らせ真人間にするための施設を建造するように提案し、実行にうつし、現代で言う職業学校のような施設もつくった。)

日本の他地域との比較

(ここでは江戸の識字率の話だけをしており、日本全国の識字率はここで語るべきではないが、参考までに、田舎、農民ばかりが住んでいる田舎も含めた日本全体の識字率は江戸の識字率に比べるとかなり低かった。当時、日本全国平均での識字率は20%から50%程度と推定されている[33]

江戸の娯楽

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江戸の歌舞伎。市村座での『青砥稿花紅彩画(白浪五人男)』より稲瀬川勢揃いの場(歌川豊国:1862年(文久2年))。江戸時代の町人文化を代表する歌舞伎。本作の時代には作者河竹黙阿弥が活躍し、江戸歌舞伎が隆盛を極めた。
歌舞伎

1624年(寛永元年)には中村勘三郎猿若)が京都から江戸に移り、町奉行所の許可を得て「猿若座」を開き、江戸の芝居小屋が始まった。最初は江戸・中橋(現在の日本橋と京橋の中間あたり)にあったが、やがて堺町(今の人形町)へ移転。元禄時代(1688~1704年頃)には江戸の歌舞伎は隆盛となり、芝居小屋は猿若座(堺町)、市村座(葺屋町=現 人形町)、森田座(木挽町=現在の歌舞伎座のあたり)、山村座(木挽町)の4つとなった(「江戸四座」と言う)。

江戸落語

江戸落語は17世紀後半(貞享・元禄年間)に鹿野武左衛門によって始められ、18世紀後半には烏亭焉馬の会咄を経て、三笑亭可楽(初代)によって寄席芸能として確立したと言われている。

講談
出版物
→詳細は「版元」および「地本問屋」を参照

耕書堂は蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう、通称蔦重つたじゅう )が営んだである地本問屋である。蔦重は、吉原細見(よしわらさいけん -遊廓のガイドブック)の発行で成功を収めた後、田沼意次の時代に頭角を現し、喜多川歌麿東洲斎写楽山東京伝大田南畝(蜀山人)といった一流の絵師や戯作者をプロデュースし、狂歌本、黄表紙(きびょうし)、洒落本(しゃれぼん)、錦絵(にしきえ)など、多岐にわたるジャンルで革新的な出版を行い、大ブームを引き起こし、生涯で数百点にのぼる出版物をプロデュースしたと言われている。

蔦重のライバルとしては、宝暦年間(1751年 - 1764年)から続く老舗の西村屋与八(にしむらやよはち。堂号は永寿堂)がいる。西村屋は、3代目が歌川広重の『東海道五十三次』(天保3年 - 5年・1832年 - 1834年頃)や葛飾北斎の『富嶽三十六景』(天保2年 - 6年・1831年 - 1835年頃)といった大判錦絵の風景画シリーズを出版し、大ブームを巻き起こした。

花火 -玉屋宗家花火鍵屋
その他

服装

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江戸と富士、富士講

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江戸から見た富士。この浮世絵は、目黒に二つあった富士塚のうちのひとつの新富士(現存せず)と富士山を描いたものである(『目黒新富士』名所江戸百景より。歌川広重:江戸後期)。

江戸のさまざまな場所から富士山を見ることができ、江戸の住人は富士山を愛した。江戸には富士見坂(=富士が見える坂)という名がついた坂も多い。浮世絵も多数描かれた。また富士山を信仰する富士講も非常にさかんとなり、江戸には多数の富士構信者がいた。その結果、わざわざ富士山まで行くことができない住民らのために富士塚が多数作られ、近所で日々富士登山ができるようになった。富士塚は現在でも多数残っている。


神社仏閣

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神社

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寺院

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葛飾北斎筆 東叡山中堂之図

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江戸近郊

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諺・故事成語

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(火事のときは周りの家を倒して広がるのを防いだ。木造建築なので火が移りやすいため。)

  • 江戸の敵を長崎で討つ
  • 江戸っ子は宵越しの銭は持たぬ
  • 江戸っ子は5月の鯉の吹き流し
  • 江戸っ子の梨を食うよう
  • 江戸っ子の初もの食い
  • 江戸っ子の産れ損なひ金を貯め
  • 京の着だおれ、大坂の喰いだおれ、江戸の呑みだおれ(京の人はファッションにお金を使い、大坂の人はグルメにお金を使い、江戸の人は酒を呑んで酔いつぶれている)[38]

幕末の江戸と明治初頭の東京

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徳川幕府は実に260年ほども続いたが、幕末には内政でも外政でも問題が山積の状態となり混乱を来たした。

1862年(文久2年)に参勤交代が緩和され、江戸の武家人口が激減。政治的中心も京都に移り、15代将軍徳川慶喜は将軍としては江戸に一度も居住しないような状態であった。徳川家と敵対する勢力によって一連の軍事的また政治的クーデターである明治維新が行われ、1868年(明治元年)に発せられた江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書によって江戸は「東京」と改称され、東京への改称とともに町奉行支配地内を管轄する東京府庁が開庁された。また天皇の東京行幸により江戸城が東京の皇居とされた。

明治維新により徳川将軍家が静岡に転封された際にも人口が減少した。明治2年(1869年)に東京府は新たに朱引を引き直し、朱引の内側を「市街地」、外側を「郷村地」と定めた。この時の朱引の範囲は江戸時代の「墨引」の範囲におおむね相当し、安政年間以降一時的に江戸に組み込まれた品川などは、東京とは別の町として扱われ、町数も1048(『府治類集』)に減った。翌年には、最初は京都にあった明治新政府も東京に移され、再び日本の事実上の首都となった。1871年廃藩置県が行われ、東京府は新・東京府に置き換わった。

東京への改称

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慶応4年/明治元年旧暦1月3日(1868年1月27日)に戊辰戦争が起こり、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗れると、軍の大軍が江戸に迫り、江戸は戦火に晒される危険に陥った。幕臣勝海舟は早期停戦を唱えて薩長軍を率いる西郷隆盛と交渉、同年旧暦4月11日(5月3日)に最後の将軍徳川慶喜は江戸城の無血開城し降伏、交戦派と官軍の間の上野戦争を例外として、江戸は戦火を免れた(江戸無血開城)。

同年旧暦5月12日(7月1日)に町地を中心に「江戸府」が設置された。同年旧暦7月17日(9月6日)には「江戸」は「東京」と改称され、「江戸府」は「東京府」となった(江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書)。同年旧暦10月13日(11月26日)に明治天皇東京行幸した際、「江戸城」は「東京城」と改称された。翌明治2年旧暦2月19日(1869年3月31日)には新たに朱引きの範囲が定められ、旧暦3月16日(4月27日)には町地に五十番組制(五十区制)が敷かれた。旧暦3月28日(5月9日)には、明治天皇が二度目の行幸を行い、「東京城」を「皇城」と称し、かつての将軍の居住する都市・江戸は、天皇の行在する都市・東京となった(東京奠都)。旧暦11月2日(12月4日)には武家地を含めた地域が東京府の管轄となった。明治4年旧暦6月9日(1871年7月26日)には朱引が改定され、大区小区制に基づく六大区制が導入された。

同年旧暦7月14日(8月29日)の廃藩置県以降、段階的に周辺の地域が東京府に併合され、明治4年旧暦12月27日(1872年2月5日)には武家地・町地という名称が廃止された。明治7年(1874年)3月4日には東京十一大区制へ再編され、明治11年(1878年)11月2日には東京十五区制に落ち着く。以降、東京の町並が東京市東京都へと変遷しつつ東京都市圏に拡大してゆく過程で、かつての江戸のうち隅田川以東の本所・深川を除いた地区は都心となり、その中核としての役割を果たしている。

関連作品

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小説

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随筆

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映画・テレビドラマ

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その他多数あり。

著名な出身者

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小江戸

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川・堀の水路網と蔵は江戸を象徴する町並の特徴であり、蔵造りの町並が残された栃木市、埼玉県川越市、千葉県香取市の旧佐原市の市街地などの関東地方の河港都市は、江戸に似た構造という点や江戸と交流が深かったという点から「小江戸」と呼ばれている。

なお上記とは別用法として、初期の江戸城下町を、後年の広域化した江戸城下町を意味する「大江戸」に対して「小江戸」と称する用法もある。

脚注

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[脚注の使い方]
注釈
  1. ^西ヨーロッパの言語では、Edo、Yedo、Yeddo、Yendo、Jedoなど諸表記あり
  2. ^平川河口部は、古代の隅田川東京湾へ注ぐ河口部(浅草寺付近に位置した浅草湊)からは南西へ4kmに位置する。
  3. ^日比谷入江は後の江戸城の間近まで入り込んでいた。
  4. ^この場合「江戸湊」は語源が忘れられた後に出来た重言とされる。
  5. ^松平家忠の『家忠日記』によれば7月18日とされる。なお、柴裕之は徳川氏の領国の最終確定が8月1日であったことから、江戸幕府の成立後に徳川氏の領国確定日と八朔の日が重ねるこの日を家康の入城の日と定めたとする(柴裕之 『徳川家康 境界の領主から天下人へ』 平凡社〈中世から近世へ〉、2017年6月。ISBN 978-4-582-47731-3 P193.)。
  6. ^ただし御三卿屋敷並びに抱屋敷の分を除いた。
  7. ^時期による
  8. ^ただし、偏屈な親を持ってしまった一部の女性が寺子屋に通わせてもらえず、学べなかった可能性はある。
出典や注など
  1. ^内藤昌『江戸の町』(上)p.6-7
  2. ^abcde山田邦明「古代・中世の江戸」(初出:藤田覚・大岡聡 編『街道の日本史20 江戸』(吉川弘文館、2003年)ISBN 978-4-642-06220-6 P31-55./所収:山田『鎌倉府と地域社会』(同成社、2014年)ISBN 978-4-88621-681-6
  3. ^岡野友彦『家康はなぜ江戸を選んだか』教育出版、1999年
  4. ^山田邦明「古代・中世の江戸」では、桜田は本来は江戸(平川流域地域)の一部ではなく、江戸氏の勢力拡大や太田道灌の江戸城築城に伴う「江戸」の拡大よって本来属していた荏原郡から切り離されて豊島郡江戸の一部になったとしている。また、山田は江戸氏の館も後の江戸城ではなく、平川流域の現在の水道橋付近にあったとする説を提示している。
  5. ^「深江文書」
  6. ^岡野友彦「「静勝軒寄題詩序」再考」江戸遺跡研究会編『江戸の開府と土木技術』吉川弘文館、2014年
  7. ^内藤昌『江戸の町(上)』p8-9。
  8. ^齋藤慎一『中世東国の道と城館』(東京大学出版会、2010年)第三章「南関東の都市と道」(2004年発表)/第一五章「中近世移行期の都市江戸」(新稿)
  9. ^佐藤博信「小弓公方足利氏の成立と展開」『中世東国政治史論』塙書房、2006年(1992年発表)
  10. ^柴裕之 『徳川家康 境界の領主から天下人へ』 平凡社〈中世から近世へ〉、2017年6月。ISBN 978-4-582-47731-3 P195.)
  11. ^『慶長記』
  12. ^石川英輔『大江戸リサイクル事情』 講談社 1997年
  13. ^江戸の範囲 (レファレンスの杜) 『東京都公文書館 研究紀要』(第4号)、p45-48、平成14年3月
  14. ^江戸の市街地の広がりと「大江戸」 (シリーズ・レファレンスの杜) 『東京都公文書館だより』 第6号、p6、東京都公文書館発行、平成17年3月
  15. ^港区史、第三巻、通史編、近世下、P.172-174[1]
  16. ^ただし鳥見役所による鷹場組合は農村部だけでなく町場にも及んでいた。港区史、第三巻、通史編、近世下、P.172-174[2]
  17. ^(参考1)江戸周辺鷹場概念図[3]、小平市立図書館。隅田川東岸に拡張していない時期を作画している。(参考2)夏目ほか「御拳場六筋の復元」(Theory and Applications of GIS、2015)[4]、P.49、PDF-P.7
  18. ^港区史、第三巻、通史編、近世下、P.68-69[5]<
  19. ^竹内誠・古泉弘・池上裕子・加藤貴・藤野敦『東京都の歴史』山川出版 2003年 168-170頁
  20. ^内藤昌
  21. ^柳営秘鑑
  22. ^宮本房枝「江戸における町火消成立期の火災被害に関する研究」(日本建築学会、2013)[6][7]、山川健次郎「東京府火災録」(東京大学、1881)
  23. ^伊藤渉「江戸城の火災被害に関する研究」(東京理科大学工学部第一部建築学科辻本研究室)[8]
  24. ^(参考)国立国会図書館東日本大震災アーカイブ、地震年表(江戸期:1605年~1868年)[9]
  25. ^三上宰主「江戸時代のごみ事情」(北海道教育大学)[10]
  26. ^谷川章雄「江戸の街のゴミ事情」(神奈川県埋蔵文化財センター、h.27考古学ゼミナール)[11]
  27. ^池田正一郎『日本災変通志』新人物往来社、2004年12月15日、694頁。ISBN 4-404-03190-4 
  28. ^渡井榮八「徳川上代の浪人政策」(立教大学学術リポジトリ、1934)
  29. ^山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」『牢人』[12]
  30. ^寿岳文章『日本の出版文化』講談社学術文庫、1991年、150頁。 
  31. ^鈴木敏夫『江戸の本屋(上)』中央公論新社、2009年、150頁。 
  32. ^小島庸敬『江戸の出版文化』ぺりかん社、1991年、62頁。 
  33. ^鈴木理恵, "江戸時代における識字の多様性",史学研究, 209号 (1995), pp. 23–40. 江戸時代の識字率は状況証拠(文書による支配の徹底、年貢村請制の実現、商品経済の浸透、寺子屋の隆盛、欧米人の旅行記の記載、出版業の隆盛、多量多彩な文書の蓄積)から推定されたものであり、批判も多い。また、ヨーロッパでの識字率の低さは、字が読めることが男らしくない、格好悪いとされた騎士道の時代の考え方の名残という文化的背景や、自分の名前がかける程度の者は非識字とカウントしている点なども考慮しなくてはならない
  34. ^江戸食文化紀行
  35. ^宮崎昭の『食卓を変えた肉食』で、(1)カレーの牛肉を豚肉に替える食文化が出来た。(2)カツレツを豚肉で作ると特においしい事が知られた。(3)牛肉は豚肉にとって替わられていった。と、変化の状況を説明。
  36. ^吉田忠の『牛肉と日本人』ISBN 978-4540911064で、(1)東京人は真っ先に豚肉によって食肉の消費が増加。 (2)豚カツをはじめ豚肉の消費が多様化。(3)牛肉料理を豚肉に変えたらどうかと工夫を重ねる。最初は江戸において変化が起こった。
  37. ^農林省畜産局の『本邦の養豚』、全国で(1)1916年 337,891頭。(2)1925年 672,583頭。と、9年倍増のデータで前述の変化を裏付
  38. ^朝日ジャーナル編、「大江戸曼荼羅」、p.211、朝日新聞社、1996年。

関連書籍

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関連項目

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学問
文化
その他

外部リンク

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