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水野忠任

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(2019年9月)
 
水野忠任
時代江戸時代中期 - 後期
生誕享保19年(1734年
死没文化8年12月30日1812年2月12日
墓所茨城県結城市の山川水野家墓所(旧万松寺内)
官位従五位下織部正和泉守
幕府江戸幕府
主君徳川家重家治
三河岡崎藩主、肥前唐津藩
氏族水野氏
父母水野守満:不詳
養父水野忠辰
正室水野忠辰の娘
養子忠鼎水野忠鼎正室
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水野 忠任(みずの ただとう)は、江戸時代中期の大名三河国岡崎藩の第7代藩主。肥前国唐津藩の初代藩主。忠元系水野家8代。

生涯

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旗本水野守満の次男として生まれる。宝暦元年(1751年)、同族[1]である岡崎藩主水野忠辰の娘を正室に迎え、その養子となる。

忠辰は藩財政の立て直しを目指して政治改革を図ったが、重臣によって挫折させられ、遊蕩にふけるようになった。宝暦2年(1752年)、忠辰は重臣たちによる主君押込を受けて隠居を強制させられ、忠任が家督を相続した。一連の騒動は水野騒動と呼ばれる。

宝暦12年(1762年)、肥前唐津藩に転封される。忠任は窮乏化する財政のために新領地での増税政策をとったが、これは旧来の唐津での慣行を無視するものとして領民の反発を受けた。明和8年(1771年)に虹の松原一揆が発生し、領民の要求により増税政策を撤回することを余儀なくされている。

安永4年(1775年)に家督を養子の忠鼎に譲り隠居する。文化8年(1811年)死去した。

墓所は茨城県結城市大字山川新宿の山川水野家墓所(菩提寺の旧万松寺内にあった墓所で初代忠元から11代忠邦までの11基の墓のみが残る)[2]

系譜

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父母

正室

養子、養女

脚注

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  1. ^忠任の生家は、岡崎藩祖水野忠元の弟・水野守重の子孫である。
  2. ^市指定文化財 史跡(詳細)”. 結城市. 2025年7月18日閲覧。
水野氏岡崎藩7代藩主 (1752年 - 1762年)
本多家
水野家
松井松平家
本多家
水野氏唐津藩初代藩主 (1762年 - 1775年)
寺沢家
大久保家
大給松平家
土井家
水野家
小笠原家
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