毛沢東思想 国際組織
マルクス・レーニン主義政党・機構国際会議 革命的国際主義運動
毛沢東思想 (もうたくとうしそう、簡体字中国語 :毛泽东思想 、繁体字中国語 :毛澤東思想 、拼音 :Máo Zédōng Sīxiǎng )また毛沢東型社会主義 (もうたくとうがたしゃかいしゅぎ)は、中国 におけるマルクス・レーニン主義 を理論基礎とした社会主義 制度の導入に関する思想[ 1] [ 2] 。
政治の他に映画 や絵画 など様々な分野においても世界的に大きな影響を与えている[ 注釈 1] 。
中国共産党 初代の主席 である毛沢東 は、この理論を中心に中国独自の共産主義 理論や文化大革命 を展開し、1982年で作成された現行の中華人民共和国憲法 にもこの毛沢東思想を全中国人民が習うべきものだとして明記している[ 3] 。
毛沢東思想は統一的な定義を持たず、中国共産党は与論環境や敵国の対中感情に応じて、その定義を細かく調整していく。
1940年代の毛沢東思想は一般的なマルクス主義 やマルクス・レーニン主義から発展した理論と看做されていたが、1960年代の毛沢東思想は文化大革命 により従来の左翼理論と区別化された。毛沢東思想の初期の内容は、人民戦争理論 などがある。
1945年 以降の中国共産党 規約では「マルクス・レーニン主義 の中国における運用と発展」とされ、「マルクス・レーニン主義 」などと並ぶ「行動指針」と位置づけられた[ 3] [ 4] 。
特に1950年代 から1960年代 の中ソ対立 や文化大革命 の時期に、「中国共産党特有の理論」として強調され、外国でも広く毛沢東主義 、マオイズム (英語 :Maoism )と呼んだ。その信奉者は毛沢東主義者 およびマオイスト と呼ばれた。しかし中国国内では紅衛兵 ・造反派 の一部を除いて、中国共産党は文革期を含めて一貫して毛沢東思想であり、毛沢東主義と呼んだことは無い。
半民半兵のゲリラ戦争、解放区 (根拠地 )の建設、核武装 、有事を想定して政策を行うなど、長期戦略に基づく軍事力の増強を最優先課題とする。政治思想というより、軍事理論とされる場合も多い。
中国共産党は1945年 4月23日 から6月11日 にかけて開催された第7回党大会において、党規約に「中国共産党はマルクス・レーニン主義の理念と中国革命の実践を統一した思想、毛沢東思想を自らの全ての指針とする」との記述を加えた。ここでいう毛沢東思想とは、理念としてはカール・マルクス とウラジーミル・レーニン が確立した共産主義 を指針としながら、それを古代中国 の新石器革命 から農耕社会 であった中国の実情に適応させた、農民 中心の革命方式を指しているとされている。
毛沢東の思想は、毛沢東が若い頃から親しんだ農耕社会の観察や経験から導き出された中国発展のためのアイディアを含んでおり、その大綱として大公無私(個人の利益より公共の福祉 を優先する)、大衆路線(農村 大衆 の意見に政治的指針を求めそれを理解させて共に行動する)、実事求是 (現実から学んで理論を立てる)などがある。この他、社会と協調できる個人主義 、大人数の協力、農村から蜂起して都市 を囲いこんでいくゲリラ戦術 理論(人民戦争理論 )、世界各国が各自の特性に応じた革命を行うことによって第三次世界大戦 を防ぐことができるとする「中間地帯論」なども毛沢東思想に含められる場合がある。
毛沢東の農民重視の姿勢には、本来のマルクス主義 の唯物史観 による「社会主義革命は発達した資本主義 社会で発生する」との理論に対して、ロシア革命 時のロシア 以上に資本主義が未発達で農業中心社会であった中国の実情に対して、マルクス・レーニン主義を適用する必要性があった。また農村社会にも特有の一揆 的な暴力 の肯定、知識階級 に対する反エリート主義 (反知性主義 )などが挙げられる。またソビエト連邦 型との相違には、新民主主義論 による人民民主主義 や、3つの世界論 による世界認識と外交政策などがある。
毛沢東思想は毛沢東の著作、発言、実践などの総称であり、必ずしも体系的に理論化され矛盾なく整理されたものではない。簡易な参照には毛主席語録 も使用された。
毛沢東思想は、1950年代以降の社会主義政策推進、1957年からの反右派闘争 、1960年代 以降に激化した中ソ対立 、更に1966年に発動された文化大革命 などで特に強調され、毛沢東の個人崇拝や、政敵の打倒、国外の各国共産主義勢力への干渉にも広く使用された。
毛沢東の死後、その思想をめぐる評価は微妙に揺れ動いた。毛沢東のもとで中国は経済的には貧しい農業国のまま停滞しながらも第三世界 では初の核武装に成功して軍事 的に五大国 となり、国際連合 から台湾 を追放してイギリス ・フランス ・日本 ・アメリカ合衆国 など西側諸国 との外交 関係も築いて国際社会では無視できない地位を手にした。毛沢東は香港 とマカオ を除く中国大陸に覇を唱えるも、武力で制覇した覇道 的で覇権主義 的なその手法は後に西側から批判された。
毛沢東の死後、その後継者を自称した華国鋒 の唱えた「二つのすべて (两个凡是)」は、毛沢東自身が唱えた「実事求是」を持ち出して対抗した鄧小平 により批判され、華国鋒が失権すると、鄧小平は彼自身の解釈に基づく「実事求是」を中国共産党の指導方針として実権を掌握した。鄧小平は改革開放 で経済発展を進め、台湾と対話を試み、毛沢東がチベット侵攻 と新疆侵攻 で編入したチベット やウイグル とは対照的に、香港とマカオを一国二制度 に基づく高度な自治を認めた上で平和裏に編入することで当事国と合意した。
1981年 6月の第11期6中全会で採択された『建国以来の党の若干の歴史問題についての決議 』(歴史決議)では、毛沢東思想を「毛沢東同志を主要な代表とする中国の共産主義者が、マルクス・レーニン主義の基本的原理に基づき、中国革命の実践経験を理論的に総括してつくりあげた、中国の実情に適した科学的な指導思想」と定義している。その一方で、この決議は、毛沢東が文化大革命で提起した論点は「毛沢東思想の軌道から明らかに逸脱したもので、毛沢東思想と完全に区別しなければならない」とし、毛沢東思想を毛沢東個人の思想とは区別している。この決議では、「実事求是」「大衆路線」「独立自主」が毛沢東思想の真髄とされている。また、この決議と前後して、周恩来、劉少奇、朱徳ら、毛沢東と同時期の他の指導者たちの思想も、毛沢東思想の一部と解釈されるようになってきている。鄧小平は「マルクス・レーニン主義、毛沢東思想の堅持」を含む「四つの基本原則 」を繰り返し強調した。彼が堅持されるべきと考えた毛沢東思想は、こうした新たな解釈に基づくものである。
なお、毛沢東以降の指導者たちの考えは、「鄧小平理論 」、江沢民 の「三つの代表 」論、胡錦涛 の「科学発展観 」と、世代ごとに別のものとしてまとめられている。
毛主席語録 (ドイツ語版)1960年代 の世界的な学生運動 では文化大革命を中国の対抗文化 と見做し[ 5] 、しばしば原理主義 的で教条主義 的な共産主義信奉(原始共産主義 )が毛沢東思想に移行する例がみられた。影響を受けたのは大学生を中心とする都市部の中産階級 の若者であり、彼らが構成したヒッピー が始めたコミューン運動 などで、人民公社 型の集団生活の実践や、下放 のスタイルが模倣された。1967年のジャン=リュック・ゴダール の映画『中国女 』では毛沢東思想を研究するために共同生活を始めるフランスの若者たちを描いている。
フランスの哲学者ジャン=ポール・サルトル は、ソ連による1956年 のハンガリー 侵攻(ハンガリー動乱 )、1968年 のチェコスロヴァキア 侵攻(プラハの春 )以降、反スターリン主義 に共感するようになり。当時ソ連と対立していた中国(中ソ対立 )の毛沢東主義者主導の学生運動を支持しはじめ、晩年にいたるまでフランスの毛沢東主義者と交遊していた。
1968年の5月革命 にもマオイストの影響があるとされ、クリストフ・ブルセリエは、フランスのマオイスムの流行について、スターリン批判とそれによるソ連型共産主義の失墜、およびそれに代わるユートピア を求める運動の中で中国モデルが誇大視されたとしている[ 6] 。マオイスト運動はフランス共産党 のソ連擁護に対する反動として起こり、反西欧主義、東洋趣味が混在していた。また、エコール・ノルマル・シュペリウール のロベール・リナールらエリート学生、中国専門家のシャルル・ベトレームやルイ・アルチュセール が中心にいたといわれる[ 6] 。1963年にジャック・ヴェルジエが創刊した雑誌『革命』が中国ブームに火をつけた。1964年フランス共産党から除名追放されたフランソワ・マルティが同年7月に東京 で中国人運動家と知り合い、毛沢東 の招待を受ける。マルティらは『新しい人間主義』という雑誌を出している。
五月革命 以後、当時の内務大臣マルスランによってマオイストの組織は解体命令を受けるが、ベニ・レヴィ によってGP(fr:Gauche prolétarienne プロレタリア左派)が結成され、アンドレ・グリュックスマン、ベルナール・アンリ・レヴィ らが参加する。GPによる移民労働者の支援活動は、サルトルやゴダール、ミシェル・フーコー らによって支持された。同団体は、マドレーヌ広場の高級店フォーションから「フォーションが貧民窟に食糧支援をする」「盗人から盗んでも罪にはならない」「わが労働の果実をパトロンから奪おう」として商品を奪うフォーション事件を起こしている[ 6] 。代表のベニ・レヴィはのちにサルトルの助手となり、ユダヤ思想に没入し、イスラエル に渡った。また、フランスの作家のフィリップ・ソレルス や哲学者のアラン・バディウ らが毛沢東思想に魅了された[ 7] 。的場昭弘 によれば、エコール・ノルマル はマオイスムの母体となっていたと指摘している[ 7] 。
西ドイツ では、ルディ・ドゥチュケ ら新左翼 学生運動の活動家は毛沢東に倣った長征 を掲げて加入戦術 として環境保護運動 に乗り出し[ 8] 、毛沢東主義を掲げたKグルッペ (ドイツ語版 ) に所属していたヴィンフリート・クレッチュマン やユルゲン・トリッティン などの毛沢東主義者は緑の党 の結成に参加してグルッペZ (ドイツ語版 ) を形成した[ 9] 。ベルント・アロイス・ツィンマーマン は1969年に創作の集大成となった「若い詩人のためのレクイエム」において、毛主席語録 からの抜粋を淡々と読み上げるなど音楽創作に用いた。
また、毛沢東思想は新左翼だけでなく、当時の欧州の極右 の青年運動にも影響を与え、1970年代のドイツやイタリア で過激で反抗的かつ暴力的な活動を行っていたネオナチ の指導者ミヒャエル・キューネン (英語版 ) やナチ・マオイズム を掲げるネオファシズム の学生運動家フランコ・フレーダ (英語版 ) は毛沢東の影響を自負していた[ 10] [ 11] 。
毛沢東(左)と面会するホッジャ(1956年) 国家ぐるみで毛沢東思想に影響された例としては、東欧 のバルカン半島 南西部に位置するアルバニア のエンヴェル・ホッジャ 政権を挙げられる。ホッジャはアメリカ合衆国 のみならず、スターリン批判 以降のソ連、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国 に対して批判的であり、ソ連、ユーゴスラビアに対しては「社会帝国主義 者」というレッテルを貼った。スターリン主義 を元にしたホッジャ主義 は、チトー主義 と同様にソビエト連邦 が社会主義陣営 を主導することに対して批判的だったが、ホッジャは非同盟運動 に共鳴するチトー主義をマルクス主義 に背くと考えていた[ 12] 。ホッジャは毛沢東に傾倒し、中華人民共和国 に接近した。アルバニア人民軍 は人民服 風の軍装を着て中国製の56式自動歩槍 とそのコピーのASh-78 を制式小銃に採用して59式戦車 やJ-6 戦闘機なども配備するなど東西冷戦 時代の欧州で異様な軍隊となっていた[ 13] 。1967年 には中国の文化大革命にも影響されて「世界初の無神国家 」としてあくまで宗教 と信仰 をめぐる一立場にすぎない無神論 を国家 (政府 )の原則とし[ 14] 、全ての宗教を完全に否定かつ禁止して全国の教会 とモスク を閉鎖させ、あらゆる信仰の表明は、公的にであれ私的にであれ、違法となった。一方で、農業や教育を重視して識字率を5%から98%に改善して食糧の自給も達成した[ 15] 。1971年 には国際連合 でアルバニア決議 を共同提案して国際社会で友好国の中国が確固たる立場を築くのに一役を買った。しかし、ホッジャは翌1972年 のニクソン大統領の中国訪問 には批判的であり、リチャード・ニクソン を「熱烈な反共主義 者」と嫌った[ 16] 。1976年にホッジャは毛沢東の葬儀に出席するも、中国がフランコ体制下のスペイン やチリ のアウグスト・ピノチェト 政権など反共的な国々と国交樹立したこと[ 17] や中国の3つの世界論 は「第三世界 の超大国 」[ 16] [ 18] になることを目論んでいるとホッジャは批判しはじめ、華国鋒 ・鄧小平 時代となると中国からの援助は途絶えた(中ア対立 )。
全米有色人種地位向上協会 (NAACP)の創立者W・E・B・デュボイス やブラック・パンサー党 の指導者ヒューイ・P・ニュートン 、ウェザーマン は毛沢東から大きな影響を受け、デュボイスやニュートンら公民権運動 の活動家は中国を訪問している。ブラック・パンサー党はアメリカ合衆国 における黒人 社会を第三世界 、植民地 と見做し、合衆国と敵対関係にあったベトナム や朝鮮民主主義人民共和国 (北朝鮮)、キューバ といった国々に対して連帯の意思を表明していた。特にNAACPで武装化を進めた最も戦闘的な公民権運動家でニュートンにも影響を与えたロバート・F・ウィリアムズ (英語版 ) は「中国がなければ、アメリカにおける黒人の闘争はあり得ない」と主張して中国に逃れて活動し[ 19] 、アメリカ初の黒人分離国家を自称する「新アフリカ共和国 」の大統領に中国で就任した[ 20] 。
毛沢東とロバート・F・ウィリアムズ(1966年) 1970年代は、ファッション的に毛沢東を肯定する人がヒッピーやアウトローに多かった。アンディ・ウォーホル は1972年にニクソン大統領の中国訪問 にあわせて「マオ」という作品を発表している。ボクサーのマイク・タイソン は毛主席記念堂 を訪問し[ 21] 、毛の入れ墨も彫っている[ 22] 。
コミューン 運動も人民公社 は「人民のコミューン」と英訳されているようにインスピレーションを与え、ヒッピーの人民公園 (英語版 ) 運動など人民とコミューンはヒッピーや新左翼のタームとなった。各種のグルイズム 的なカルト 宗教と結合してその信者コントロールの手段としてより広範囲に利用された。またニューエイジ や精神世界ですらそれを模範する文化が広がった。南米ガイアナ のコミューンで起きた人民寺院 事件では、毛沢東主義との関係がアメリカの新聞等で指摘されている。人民寺院教祖のジム・ジョーンズ は毛沢東に傾倒していることを認め[ 23] 、中国の洗脳 を研究していた[ 24] 。
日本の学生運動に影響を与え、「造反有理 」のスローガンが、過去東京大学 の正門を飾ったことがあったが[ 25] 、現在では飾られていない[ 26] 。
一般社会において、1970年代当時は横山光輝 [ 27] や藤子不二雄A [ 28] が、毛沢東に肯定的な漫画を描いた。中国が1981年の「歴史決議」をおこなったあとも、養老孟司 は毛沢東主義者を自任して農本思想 的側面を評価している[ 29] 。毛沢東を信奉した中国研究者の新島淳良 は後に農本主義的なコミューン運動に理想を見出して農事組合法人 「ヤマギシ会 」の広告塔となった[ 30] 。オウム真理教 の麻原彰晃 は毛沢東の絶大な影響を受け[ 31] [ 32] 、教団を武装化させて富士山麓の農村などにサティアン を築いて武装蜂起と政権転覆を企てた。また、毛沢東思想は右派 保守 の政治運動にも影響を与え、石原慎太郎 [ 33] [ 34] [ 35] や西村修平 [ 36] は毛沢東に影響を受けていることを認めている。
ポル・ポト 毛沢東思想を奉じるグループが、実際に武装闘争 によって政権を獲得した例として最も有名なのは、カンボジア に民主カンプチア を築いたクメール・ルージュ である[ 37] 。最高指導者のポル・ポト は、文化大革命 期の中華人民共和国によって支援されていたために、毛沢東思想の影響を強く受けており[ 38] [ 39] [ 40] 、政権を握ると文革時代の中国で行われた重農主義 的な政策を極端な形で模倣 した[ 41] 。これは世界で動員 が繰り返されてきた20世紀 の歴史から見ても例のない社会実験だったとされる[ 42] 。
ポル・ポト派は貨幣経済 を否定するため、通貨 の流通を停止させ、自力更生 的に食料生産を担う農村共同体を「国民生活の基本単位」とするために、生産力を持たない“寄生虫 ”とみなされた都会とその住民を強制的に田舎 へ下放 し、都市をゴーストタウン にした。ポル・ポトは原始社会 (原始共産制)の自給自足 の生活を営んでいると考えたカンボジアの山岳先住民族 を理想に都市文明 の廃絶を企んだ[ 43] 。
大規模な下放の過程で、ポル・ポトの理想とする世界に適応できないと判断した都市住民はおろか、病人・高齢者・妊婦などの弱者 [ 44] や知識人、技術者、眼鏡をかけている者、文字を読もうとした者、時計が読める者など、少しでも学識がありそうな者といった人々も犠牲になった[ 45] 。都市部に多かった中国系とベトナム系の住民も原住民 のクメール人を脅かしてきた入植者として民族浄化 の標的となり[ 46] 、東南アジア 史上最大規模[ 47] ともされる中国系住民の虐殺で当初は42万人いた中国系も20万人に減ったが[ 47] 、ポル・ポトを支援した中国共産党はこれを無視し[ 48] 、さらにポル・ポトはベトナム領内の農村でベトナム人の大量虐殺を行うも(バチュク村の虐殺 )、ベトナムは民主カンプチア領内へ侵攻 し、1979年 にベトナム軍はプノンペンを攻略してポル・ポト政権は崩壊した。ベトナム軍は山林に隠れたポル・ポトを捕えられず、ポル・ポト派はタイ領を避難場所としてベトナム軍に対し地下活動を続け、カンボジア内戦 終結後にカンボジア特別法廷 にてクメール・ルージュの残党は人道に対する罪 で裁かれることとなった。
プラチャンダ (左)毛沢東思想を奉じるグループが、武装闘争を経て民主的な選挙に勝利して合法的に政権を獲得した例もあり、ネパール のネパール共産党毛沢東主義派 (マオイスト)は有名である。最高指導者のプラチャンダ は毛沢東主義を発展させたとして「マルクス主義-レーニン主義-毛沢東主義-プラチャンダ・パト 」を掲げた。
マオイストは武装組織「ネパール人民解放軍 」(2万人)を擁し、生活基盤、経済基盤 整備が遅れていた山間農村部に拠点「人民政府」を構えた。外国からの援助は皆無であるとされ、マオイストを弾圧していたギャネンドラ・ビール・ビクラム・シャハ 国王は親政 を敷いて国際社会から孤立して中華人民共和国の軍事援助を受けていた[ 49] [ 50] [ 51] 。農民の家に党員や兵士を住まわせてもらい、食糧 は農民の援助か自給自足 が基本である。武器弾薬は主に警察や国軍を襲撃して奪ったものを使用する。資金調達のため銀行を襲うこともあった。
ネパール内戦 でマオイストは国土のかなりの部分(一説に8割)を実効支配したが、2006年に停戦して議会進出して2008年に単独第一党となり、プラチャンダも首相に選ばれ、ネパール人民解放軍も国軍に統合された[ 52] 。
毛沢東を掲げる南街村 の看板 現在でも、世界中の様々な反政府組織が毛沢東思想に範をとって活動している。そのため一部の国家 では「マオイスト」という言葉はテロリスト ・過激派 という先入観を持たれる可能性がある。発展途上国の毛派はゲリラ路線に走りやすいが、これら毛沢東思想を継承したグループは統合された指揮系統は存在しておらず、地の利を得て麻薬原料植物の栽培や資源の採掘など独自の資金源を有している場合が多く、中国も含めて諸外国の援助を受けずに独力で大勢力に発展している場合がほとんどである。また、毛派はしばしば中国共産党の手先とみなされることがあるが、中国に対する一方的な親近感以上の関係は確認されなかったり、逆に現在の中国共産党と敵対している場合もある。
ペルーの自称毛派で一時ペルーの国土の3分の1を征服したセンデロ・ルミノソ も中国の支援を受けていた事実は無く、コカイン の原料となるコカ の産地を支配して資金を稼いでおり、鄧小平時代になって中国が文革期の毛沢東思想を放棄してから以降は、在ペルーの中国人や中国政府関係者、さらには北朝鮮 関係者までがセンデロ・ルミノソの攻撃対象とされている。
ネパールでは毛派が合法的に政権を獲得したが、インド ではネパールの毛派と協力関係にあったインド共産党毛沢東主義派 の主導するナクサライト が武装闘争を行っており、インドの首相マンモハン・シン は2006年に「インド国内の安全保障上最大の問題」と呼んでいる[ 53] [ 54] 。2013年にインド政府はインド国内の76の地域がナクサライトのテロを受けており、106の地域が思想的な影響下にあるとしている[ 55] 。
日本の日共左派 などの場合は武装闘争や犯罪は一切行なっていないが、体罰教育の推進を唱えたり、毛沢東思想セクトであるマルクス主義青年同盟による無党派学生虐殺や連合赤軍において大量殺戮を指示したのが毛沢東主義の日本共産党革命左派神奈川県委員会指導部であったことによる左翼運動内における反発は大きい。
中国の河南省 漯河市 臨潁県 城関鎮には、毛沢東思想を信奉して人民公社の形を残している南街村 が存在している[ 56] 。また、重慶モデル への支持など社会主義的な政策を中国政府に求めている新左派 (英語版 、中国語版 ) は毛沢東主義の影響も受けているとされる[ 57] [ 58] [ 59] [ 60] 。
以下に転向 者、反共産主義者を含む、毛沢東主義者、毛沢東に思想的影響を受けた人物、あるいは自らの芸術作品のモチーフとした中国国外の著名な人物を列挙する。
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