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浅草観音文化芸能人節分会(2016年) | |
| 本名 | 石井 伊吉(いしい いよし)[1] |
| 生年月日 | (1936-03-31)1936年3月31日(89歳) |
| 出生地 | |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 俳優、タレント、ラジオパーソナリティ、短期大学客員教授 |
| ジャンル | テレビドラマ、映画、バラエティ番組 |
| 活動期間 | 1948年 - |
| 配偶者 | あり |
| 公式サイト | まむちゃんの部屋 |
| 主な作品 | |
| テレビドラマ 『ウルトラマン』 『ウルトラセブン』 ワイドショー番組など 『3時にあいましょう』 ラジオ番組 『毒蝮三太夫のミュージックプレゼント』 | |
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| 毒蝮三太夫 | |
|---|---|
| YouTube | |
| チャンネル | |
| 活動期間 | 2021年 - |
| 登録者数 | 1.8万人 |
| 総再生回数 | 120万回 |
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毒蝮 三太夫(どくまむし さんだゆう、1936年3月31日[2] - 、)は、日本の俳優、タレント、ラジオパーソナリティ。まむしプロダクション所属。本名及び旧芸名:石井 伊吉(いしい いよし)[1]。。愛称は「まむちゃん」「まむし(さん)」。
江戸弁の要素がみられる話し方が特徴的な東京・浅草育ちの俳優で、1969年から開始した『ミュージックプレゼント』(TBSラジオ)の中継先レポーターとして長年活躍し、聴衆一人一人に語りかける際の愛のある悪口が人気を呼び、長寿番組となった。
関東地方では高い知名度を誇るラジオスターの一人である。
大工の息子として[3]大阪市住吉区に生まれたが、生後3カ月で東京市荏原区中延(現:東京都品川区中延)に転居。第二次世界大戦中は、神奈川県横浜市戸塚区の親戚宅に縁故疎開していた。
1945年から1950年まで東京の浅草竜泉寺で育ち[3]、1948年、台東区立下谷中学校1年の時、友人と共に『鐘の鳴る丘』の舞台のオーディションに行ったところ、台詞の読みの闊達さを買われて自分だけが採用され、本名の石井伊吉名義で子役デビュー、戦災孤児を演じた[3][4]。同作品では、後に俳優となる久保明や江原達怡と共演した[5]。この舞台をきっかけに児童劇団に入り、NHKのラジオに出演[3]。
中学校では人気者で、生徒会の副会長に選ばれ、卒業式では卒業生代表として講堂で落語を披露した[3]。
谷口千吉監督『潮騒』など東宝や大映の青春映画に出演するも、東京都立大森高等学校卒業の頃に児童劇団を辞め、日本大学芸術学部映画学科では新劇をやるために豊原ミツ子、野村道子、山本嘉子、稲吉靖司、影万里江、菅沼定憲、菅谷政子、北浜晴子、増山江威子らと「劇団山王」を組織し、石原慎太郎の『処刑の部屋』などを演じた[3][6]。また、この「山王」時代の仲間の一人が後に『笑点』で共演する立川談志と知り合いで、仲を取り持っていたこともあって、毒蝮曰く、談志とはこの当時から「ウマが合っていた」とのこと[6]。
テレビドラマには草創期である1950年代から出演している。1966年には『ウルトラマン』に科学特捜隊のアラシ隊員役で出演、子どもたちの人気者となった。引き続き翌年の1967年に制作、放送された『ウルトラセブン』でもほぼ同様の役柄であるウルトラ警備隊のフルハシ隊員として出演した[4]。『ウルトラマン』と『ウルトラセブン』の両方に起用された理由について、毒蝮は「輝いてるって言うのと同時にね、丈夫で安いんですよ(笑)。病気をしないんです[7]。」と述べている。
『ウルトラマン』放映中の1967年に『笑点』の当時の司会者立川談志の誘いにより、同番組に座布団運びとして出演[8]。「何で正義の味方が座布団運びやってんだ。」といった苦情などがTBSテレビの方に入っていることを聞き、『笑点』で芸名を付けようという展開に至った[9][4]。「毒蝮」という芸名は、談志が「怪獣ドラマに出演しているなら怪獣風の芸名にした方が良い」「怪獣にも負けないような名前で、蝮ってのはどうだ?」と名付けたもの。談志は石井が就任した当初から「マムシ」と呼んでいたが、当時大喜利メンバーの1人だった5代目三遊亭圓楽が「ただのマムシじゃ面白くねぇ、毒を付けろ。」と発言したのを談志が気に入り、定着させた。また下の名前の「三太夫」は『笑点』より前に出演していた『談志専科』という番組で石井が家老・田中三太夫役に扮し、殿様役の談志と社会風刺や世相巷談を繰り広げていたことが元で命名された[9][4]。番組中で改名披露を行った『笑点』の1968年12月15日放送分から「毒蝮三太夫」に改名した[8][9]。後年有名になった年配者相手の毒舌トークの原点は『笑点』にある[8]。
1969年にはTBSラジオで『毒蝮三太夫のミュージックプレゼント』が放送開始。現在もなお続く長寿番組である。永らく『大沢悠里のゆうゆうワイド』の内包番組として放送され、2016年4月8日の同番組終了後も当コーナーは継続すると2016年1月18日放送分の同コーナーで明言された[10]。その後、月曜から木曜の週4回『ジェーン・スー 生活は踊る』内で放送されていた[11]。2018年4月より「金曜たまむすび」の午後2時からのコーナーに移動し、毎週金曜日の週1回の放送に縮小された。2020年4月からは「土曜ワイドラジオTOKYO ナイツのちゃきちゃき大放送」内での月1回の放送となった。
1971年、当時の立川談志の所属事務所だった「談志プロダクション」の社長に就任、同時に「まむしプロダクション」に改称する。1973年に株式会社を設立(商号は株式会社まむしプロダクション)。他の所属に落語立川流一門の多くの落語家、別れたはずの師匠5代目柳家小さんを擁するなど、規模の大きな芸能プロダクションであった。
2016年5月8日放送の『笑点』に、ゲストとして約46年ぶりに出演した。
2021年4月21日からYouTuberとしても活動を開始した[13]。
身長170cm、体重78kg[1]。血液型はO型。
1970年代以降は俳優業よりもタレント業での活躍が目立ち、「おばあちゃんのアイドル」「巣鴨のスター」の異名を持つ。
年配者相手に「ジジイ」「ババア」と呼ぶことを厭わないフランクな接し方で圧倒的な人気を誇っている[8]。なお、「クソジジイ」「クソババア」と発言することについては本人と関係者は否定しており、あくまで「元気な人にしか発言しない」ことを信条としている。また、出だしが「おいババア」、締めが「長生きしろよババア」というパターンもある。
赤坂泰彦は「自分のDJは、ラジオから流れるAFNと毒蝮さんからの影響が大きい。」と公言しており、親しみを込めてリスナーのことを「お前ら」と呼ぶところに共通性を見出すことができる。『笑っていいとも!』の「テレフォンショッキング」に友達として紹介している。
父親が違ううえ、10歳以上も年齢差がある兄2人とは兄弟ケンカをしたことがなく、可愛がられたという(本人曰く「一緒に遊べなかったから兄という感じがしなかった、一人っ子みたいで寂しかった。」とのこと[14])。
「本名をかな表記にすると『い』『よ』『し』の3文字しか使われていない。」とネタにする。
「毒蝮三太夫」という芸名は、当初は『笑点』限定としてやむを得ず了承したものであり、本人はあまり乗り気ではなかった。しかし、同芸名のインパクトが原因でまったく「石井」と呼ばれなくなり、後には「毒蝮」を受け入れたうえでこちらの名義で統一した。なお、親や妻にはしばらくこのことを黙っていたが、半年くらい経ってから発覚した[9]。
芸名にちなんで、ファンから「マムシ酒」を贈られることがある。
少年時代は病弱で、本人曰く「発疹チフスや猩紅熱などの法定伝染病は一通りかかったことがある。」という[注釈 1]。20歳を超えたあたりから徐々に丈夫になっている。
カニが嫌いである。
『ウルトラマン』のアラシ隊員と『ウルトラセブン』のフルハシ隊員を演じたことにより、往年の特撮ファンからも愛されている。本人の話によると「当時はジャリ番と言われたけど、熱心に演じたことが受け入れられたんだと思うね。」と喜んでいる。
ウルトラ警備隊(『ウルトラセブン』に登場する防衛組織)の紅一点、アンヌ隊員役のひし美ゆり子が好きであった隊員は、モロボシ・ダン役の森次晃嗣でも、ソガ隊員役の阿知波信介でも、アマギ隊員役の古谷敏でもなく、フルハシ隊員役の毒蝮であった。これを聞いたキリヤマ隊長役の中山昭二は「蓼食う虫も好き好きだな。」と述べたという[15]。
大森高校出身であることを誇りにしているが、毒蝮が高校生であった1951年から1954年までの同校の大学進学率は、当時の中堅私立高校を凌駕する実績であった。
近年は人民服風のマオカラースーツを常用している。ファッションの流行や祝儀不祝儀のTPOにも関係なく、急な訃報で駆け付けた際にも親族から失礼と思われないので、普段着にしていれば背広も礼服も不要で便利だという理由から。
大のプロレスファンであり、自身のラジオ番組でも時折話題にすることもある。
無類の愛妻家である[16][17]。妻は野沢雅子と同級生である。
創作童話に「来なくてよかったサンタクロース」がある。2021年には塚本やすしの作画により絵本化された[18]。
※石井伊吉名義
※毒蝮三太夫名義
1968年
1969年
1972年
2001年
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