
殷富門院大輔(いんぷもんいんのたいふ、生没年不詳:大治5年(1130年)頃 -正治2年(1200年)頃)は、平安時代末期に活躍した歌人である。女房三十六歌仙の一人。父は藤原北家勧修寺流従五位下藤原信成。母は従四位式部大輔菅原在良の娘。一説に道尊僧正の母ともいう[1]。
若い頃から後白河院の第1皇女・殷富門院(亮子内親王)に出仕、それに伴い歌壇で長年にわたり活躍した。俊恵が白川の自坊で主宰した歌林苑(宮廷歌人の集まり)のメンバーでもあり、藤原定家・寂蓮・西行・源頼政など多くの歌人と交際があった。また、文治3年(1187年)の百首歌等、自ら主催して定数歌や歌会の催しを行うこともあった。建久3年(1192年)の殷富門院出家に伴って自らも出家したという。私家集である『殷富門院大輔集』、及び『千載和歌集』以降の勅撰集、その他私撰集等に多数の作品を残している。
小侍従に始めて対面して夜もすがら連歌などし明かして帰るとて こじじゅう
— 『殷富門院大輔集』
思ひいでなきこのよにてやみなまし 今宵にあはぬ我が身なりせば
かへし
なかなかになにか今宵にあひぬらん あはずはけさの別れせましや
九月十三や ひとびとぐしてこじじゆうのもとへゆきたるに おはしまさずといふに
— 『殷富門院大輔集』
またそこへたづねゆきて ものがたりなどするついでに 大輔
つきにのりあはぬものゆゑかへらまし ふかき思ひのしるべそへずは
かへし 小侍従
まてばこそたづねもくらめつきをみる ながめにもまづわすれやはする
このついでに 五条さい相中将みちよりぐして 経などよみ給ひしに
をりからにや いたくしみまさりてきこえしかば 大輔
ながづきの月をばいつもみしかども こよひばかりのそではしぼらず
殷富門院大輔 人丸はか尋て仏事をこなふとて 人々に尺教歌よませ侍けるに 権中納言長方
— 『玉葉和歌集』 巻第十九 釈教歌
かきつめしことはの露のかすことに 法の海にはけふやいるらん
元興寺ことのほかに荒れて 煙のたぐひにはなくて うてなの露しげきに似たり
— 『殷富門院大輔集』
飛ぶ鳥や飛鳥の仏あはれびの そのはぐくみに漏らし給ふな
これに智光が曼陀羅おはします
夢のうちに手の際みせし極楽を とくみのりにぞ思ひあはする
この聖たち 昔の芹摘みしとかや聞こゆる
思ひがけぬものから あはれに
| 歌集名 | 作者名表記 | 歌数 | 歌集名 | 作者名表記 | 歌数 | 歌集名 | 作者名表記 | 歌数 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 千載和歌集 | 殷富門院大輔 | 5 | 新古今和歌集 | 殷富門院大輔 | 10 | 新勅撰和歌集 | 殷富門院大輔 | 15 |
| 続後撰和歌集 | 殷富門院大輔 | 6 | 続古今和歌集 | 殷富門院大輔 | 2 | 続拾遺和歌集 | 殷富門院大輔 | 1 |
| 新後撰和歌集 | 殷富門院大輔 | 1 | 玉葉和歌集 | 殷富門院大輔 | 4 | 続千載和歌集 | 殷富門院大輔 | 2 |
| 続後拾遺和歌集 | 殷富門院大輔 | 1 | 風雅和歌集 | 殷富門院大輔 | 4 | 新千載和歌集 | 殷富門院大輔 | 2 |
| 新拾遺和歌集 | 殷富門院大輔 | 4 | 新後拾遺和歌集 | 新続古今和歌集 | 殷富門院大輔 | 2 |
| 名称 | 時期 | 作者名表記 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 太皇太后宮大進清輔歌合 | 1160年(永暦元年) | ||
| 住吉社歌合 | 1170年(嘉応2年) | ||
| 広田社歌合 | 1172年(承安2年) | ||
| 別雷社歌合 | 1178年(治承2年) | ||
| 寿永百首 | 1182年(寿永元年) | ||
| 後京極摂政家百首歌 | |||
| 民部卿家歌合 | 1195年(建久6年)3月3日 |
殷富門院大輔
— 『千載和歌集』 巻第十四 恋歌四
見せはやなおしまのあまの袖たにも ぬれにそぬれし色はかはらす
たいしらす 源重之
— 『後拾遺和歌集』 巻第十四 恋歌四
松島やをしまの礒にあさりせし あまの袖こそ かくはぬれしか