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武田信広

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曖昧さ回避武田亘弘」あるいは「武田修宏」とは別人です。
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(2020年9月)
 
武田 信広/蠣崎 信広
武田信広像
時代室町時代後期
生誕永享3年2月1日1431年3月3日
死没明応3年5月20日1494年6月23日
別名彦太郎
官位贈正四位
氏族若狭武田氏?→蠣崎氏
父母武田信賢?
蠣崎季繁?
兄弟親信?、国重信恒国重氏の祖)?、信広
蠣崎季繁養女
下国恒季室、光広、女子
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武田 信広(たけだ のぶひろ)は、室町時代後期の武将陸奥国南部氏の一族ともいわれる[1]。花沢館主蠣崎季繁の養子となった人物で[2]、勝山館主[2]として蠣崎氏の「始祖」と称される[3]

生涯

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永享3年(1431年2月1日若狭国守護大名武田信賢の子として若狭小浜青井山城にて誕生した[注 1]。父・信賢は家督を弟・国信に譲る際に、自身の子である信広を養子にさせたが、間もなく国信に実子・信親が誕生したことで疎遠になった。また、信広は実父・信賢とも対立して孤立無援となったといわれているが、永享3年当時の信賢は12歳であり、国信は誕生前であったため、この伝承の信憑性は低い。また、国信の子とする説もあるが、若狭武田氏との関係は当時の若狭と北出羽地域の交流の深さに基づく後世の仮託と考えられている[4]。この他に若狭武田氏ではなく、一色氏の家臣で若狭小守護代を務めていた武田重信の一族であった可能性を指摘する研究者もいる。こちらの説では、応永13年(1416年)に若狭守護一色満範と対立した守護代小笠原長春が失脚したのと時を同じくして、小守護代の武田氏も姿を消しているのに着目し、没落した元一色氏家臣の武田氏の一族が若狭から蝦夷地に渡った可能性を指摘する[5]

宝徳3年(1452年)、21歳の時に家子の佐々木三郎兵衛門尉繁綱、郎党の工藤九郎左衛門尉祐長ほか侍3名を連れて夜陰に乗じて若狭を出奔したという。暫くは古河公方足利成氏の下に身を寄せていたが、この年の内に三戸の南部光政の下へ移った。陸奥宇曽利に移住し、南部家の領分から田名部・蠣崎の知行を許され、蠣崎武田氏を名乗るようになった。

享徳3年(1454年)、相原政胤(周防守)、河野政通(加賀右衛門尉または加賀守)らとともに安東政季を奉じて南部大畑より蝦夷地に渡り[6]、上国花沢館の蠣崎季繁に身を寄せた。その後、季繁に気に入られてその婿養子となり、蠣崎姓に改めている。

康正2年(1456年)に嫡男・光広が生まれている。

同年、政季が蝦夷を去る際、信広を上ノ国に配置し、花沢館の蠣崎季繁とともに、この地を守らせた[6]

康正3年/長禄元年(1457年)5月、アイヌによる和人武士の館への一斉襲撃があり、和人武士団とアイヌの間で戦闘が始まった(コシャマインの戦い)。開戦当初は、当時蝦夷地にあった道南十二館のうち10館が陥落するなど、奇襲攻撃を受けた武士達が追い詰められていた。季繁の客将だった信広は、敗残兵をまとめ、七重浜で戦い、自身の弓でもってコシャマイン父子を射殺した[6]。乱が鎮定されたのは、長禄2年6月だった[6]。この功績により信広の蝦夷地における地位は決定的となった。

嘉吉3年(1459年)、対立する小山隆政を、隆政の義弟の長門広政を調略して討ち取る。

嘉吉4年(1460年)、蠣崎家の家督を継ぐ。

寛正3年(1462年)には勝山館を築城している。

文明7年(1475年)、樺太アイヌの首長から貢物を献上され、樺太を支配下に置いたとされるが、勢力から考えても実効支配していたとはいえず、半ば放置されていたと考えられる。

文明11年(1479年)、嫡孫の蠣崎義広が誕生。

明応3年(1494年)5月、死去[7]。享年64[7]。墓所は松前藩松前家墓所にあるが4世季広までは一つの墓に合祀されている[3]

死後

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明治14年9月6日、贈正四位。同年、信広を祭神に松前町 (北海道)に松前神社が建立された[8]

系譜

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脚注

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注釈

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  1. ^書誌には御瀬山城生まれとあるが、同城は大永2年(1522年)に築城されたもので前身である青井山城と思われる。

出典

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  1. ^清私記』など。
  2. ^ab第2章 史跡上之国館跡を取り巻く環境(PDF)」『上ノ国町』。
  3. ^ab松前藩主松前家墓所(PDF)」『松前町』。
  4. ^木下聡「若狭武田氏の研究史とその系譜・動向」木下 編『シリーズ・中世西国武士の研究 第四巻 若狭武田氏』(戎光祥出版、2016年)ISBN 978-4-86403-192-9
  5. ^和氣俊行「松前氏祖武田信広の出自について : 従来の説の再検討と新しい可能性の提示」『国際日本学』第1巻、法政大学国際日本学研究所、2003年10月、49-73頁、CRID 1390009224830454144doi:10.15002/00022559hdl:10114/00022559ISSN 1883-8596 
  6. ^abcd函館市 1980, p. 329.
  7. ^ab函館市 1980, p. 336.
  8. ^松前神社北海道神社庁

参考文献

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  • 函館市 編『函館市史 通説編』 第一巻、函館市、1980年3月1日。NDLJP:9490805 (要無料登録要登録)

関連項目

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外部リンク

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丸に割菱紋蠣崎氏初代当主(1462年 - 1494年)
宗家

季繁(花沢館主) - 信広(勝山館主[注釈 1]) - 光広 - 義広 - 季広 - 慶広(松前藩祖) - 盛広[注釈 2] - 公広 - 氏広 - 高広 - 矩広 - 邦広 - 資広 - 道広 - 章広 - 良広 - 昌広 - 崇広 - 徳広 - 修広 - 勝広 - 正広 - 之広 - 孝広 -

分家・支流

崇行院松前家

隆広 - 靖広 - 宣広 - 慶広 - 賀広 -

松川松前家

安広 - 広国 - 為広 - 広雄 - 広高 - 脩広 - 広義 - 広文 - 広憲 - 広胖 - 広致 - 広道 - 賢吾 -

泰広系

泰広 - 嘉広 - 勝広 - 端広 - 誉広 - 忠広 - 幸広 -

正広系
守広系

守広 - 友広 - 広隆 - 広明 - 広武 - 広栄 - 広重 - 広房 - 広常 - 右狩 - 守道 - 広鄰 -

  1. ^蠣崎氏の「始祖」とされ[1]、信広を初代として世数が記述される[2]
  2. ^盛広の代数(世数)の扱いについては文献により異なる。松前氏(蠣崎氏)当主としては第6代に数えられ[3][2]、盛広を含めると幕末の松前修広で第19代となる[3][2]。しかし、松前修広を第18世とするものもある[4]。また、盛広は松前藩初代藩主・慶広の子であるが、盛広は藩主には就かず、2代藩主には盛広の嫡男の公広が就いたとされ[5]、『藩翰譜』や『寛政重修家譜』などでは藩主と認めていないが、『松前家記』などでは藩主として数えている[6]。代数(世数)の扱いについては、国指定文化財「松前藩主松前家墓所」の解説から松前氏(蠣崎氏)当主には含め[3]、『藩翰譜』や『寛政重修家譜』などと同じく藩主には含めず松前修広で松前藩主14代[4]として表示している。詳細は蠣崎氏を参照。
  1. ^松前藩主松前家墓所(PDF)」『松前町』。
  2. ^abc福島憲成「8高等教育機関合同公開講座「函館学」(PDF)」『キャンパス・コンソーシアム函館』。
  3. ^abc北海道・松前郡松前町の文化財」『文化遺産オンライン』。
  4. ^ab松前修広」『コトバンク デジタル版 日本人名大辞典+Plus』。
  5. ^新藤 透「「新羅之記録」書誌解題稿」『情報メディア研究』第3巻第1号、情報メディア学会、2004年、1-10頁。 
  6. ^福島町の文化財」『福島町』。
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