| 櫻内 幸雄 さくらうち ゆきお | |
|---|---|
| 生年月日 | 1880年8月14日 |
| 出生地 | (現・安来市) |
| 没年月日 | (1947-10-09)1947年10月9日(67歳没) |
| 死没地 | |
| 出身校 | 東京専門学校中退 (現・早稲田大学) |
| 前職 | 実業家 |
| 所属政党 | (立憲政友会→) (政友本党→) (立憲民政党→) (無所属→) (翼賛政治体制協議会→) (翼賛政治会→) (大日本政治会→) 無所属 |
| 称号 | 従二位 勲一等瑞宝章 |
| 配偶者 | 櫻内 貞子 |
| 親族 | 弟・櫻内辰郎(元衆議院議員) 四男・櫻内義雄(元衆議院議員) 孫・太田誠一(元衆議院議員) 曾孫・福田達夫(衆議院議員) |
| 在任期間 | 1945年5月19日 -1946年4月17日 |
| 内閣 | 米内内閣 |
| 在任期間 | 1940年1月16日 -1940年7月22日 |
| 内閣 | 平沼内閣 |
| 在任期間 | 1939年1月5日 -1939年8月30日 |
| 内閣 | 第2次若槻内閣 |
| 在任期間 | 1931年4月14日 -1931年12月13日 |
| 選挙区 | 島根県第1区 |
| 当選回数 | 6回 |
| 在任期間 | 1928年2月21日 -1945年5月19日 |
その他の職歴 | |
(1920年3月7日 -1924年1月31日) | |
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櫻内 幸雄(さくらうち ゆきお、1880年(明治13年)8月14日 -1947年(昭和22年)10月9日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。商工大臣、農林大臣、大蔵大臣など歴任。
元中国電力会長櫻内乾雄、元衆議院議長櫻内義雄の父。福田康夫元首相の妻貴代子や政治家の太田誠一は孫。
旧雲州広瀬藩士・櫻内和一郎の長男[1]。東京専門学校(現・早稲田大学)中退[2]。岐阜新聞、愛知新聞などで記者を務めていたが、実業家の雨宮敬次郎に認められ、実業界に入り、大日本軌道、日本高架鉄道[3]の設立に参画、1907年(明治40年)東洋競馬会を起こして理事[2]。
また銚子、石巻、埼玉、逗子などで電燈会社を創業、1910年(明治43年)日本電燈株式会社を設立し取締役[2]。のち揖斐川電気、琴川電力、出雲電気各社長を務めた[2]。他に支那興業、利根川水力など電力数十社の重役、相談役を兼ねた[2]。
その間、1920年(大正9年)以来衆院議員(島根1区)当選8回、政友本党で政調会長、総務、民政党に合して初代幹事長、総務[2]。1931年(昭和6年)第2次若槻内閣の商工大臣、1939年(昭和14年)平沼内閣農林大臣、1940年(昭和15年)米内内閣大蔵大臣を歴任[2]。翼賛会、日政会各顧問、鈴木貫太郎内閣顧問、1945年(昭和20年)枢密院顧問官[2]。1946年(昭和21年)公職追放[2]。
1947年10月9日、死去。昭和天皇から祭粢料を賜る[4]。
幸雄は10歳に満たぬ年少の身でありながらすすんで母を手伝った[12]。母のつくった豆腐や油揚げは店で売れるのは量が知れていた[12]。母は自分のつくった油揚げを籠に入れて背負い山坂越えて遠く島根県八束郡の外海方面まで行商に行った[13]。幸雄少年も小さな肩に荷物を背負い、近隣の村々を売って歩いた[13]。毎朝五時に家を出て、八時過ぎに帰ってくると、朝めしもそこそこに学校にかけつけ、午後になって帰宅すると、まもなく夕方から豆腐売りにでかけるのである[13]。
ときによると、その前に菓子や飴などの行商にも出たというから、少年とはいいながらその奮闘ぶりは周囲の人たちを感動させたものらしい[13]。“士族の坊っちゃまが…”そういって彼らは、つとめて幸雄少年から買ってくれるのであった[13]。
1931年(昭和6年)、商工大臣時代に松山市で開催された第8回全国菓子飴大品評会の名誉総裁を引き受けている[14]。
| 公職 | ||
|---|---|---|
| 先代 青木一男 | 第41代:1940年 | 次代 河田烈 |
| 先代 有馬頼寧 | 第15代:1939年 | 次代 伍堂卓雄 |
| 先代 俵孫一 | 第7代:1931年 | 次代 前田米蔵 |
| ビジネス | ||
| 先代 織原万次郎 | 出雲電気社長 第5代:1933年 - 1936年 | 次代 佐々田懋 |
| 先代 立川勇次郎 | 揖斐川電気社長 第2代:1925年 - 1926年 | 次代 田中徳次郎 |
| 大蔵卿 | |
|---|---|
| 大蔵大臣 | |
| 財務大臣 | |
| 農林大臣 | |
|---|---|
| 農林水産大臣 | |