| 櫛引八幡宮 | |
|---|---|
拝殿 | |
| 所在地 | 青森県八戸市八幡字八幡丁3-2 |
| 位置 | 北緯40度29分25.2秒東経141度26分05.2秒 / 北緯40.490333度 東経141.434778度 /40.490333; 141.434778座標:北緯40度29分25.2秒東経141度26分05.2秒 / 北緯40.490333度 東経141.434778度 /40.490333; 141.434778 |
| 主祭神 | 八幡大神 |
| 社格等 | 旧郷社 |
| 創建 | 伝建久年間(1190-99年) |
| 本殿の様式 | 三間社流造銅板葺 |
| 例祭 | 旧暦4月15日(春季大祭) 旧暦8月15日(秋季大祭) |
| 主な神事 | お浜入り神事(5月14日)・流鏑馬(秋季大祭当日) |
| 地図 | |
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櫛引八幡宮(くしひきはちまんぐう)は、青森県八戸市にある神社(八幡宮)である。旧社格は郷社。
本殿など5棟の社殿が重要文化財に指定され、国宝や重要文化財の甲冑なども境内国宝館において一般公開されている。境内は「八幡山」と呼ばれ、樹齢100年以上の老杉が立ち並ぶ[1]。
近年では櫛引八幡宮は一ノ宮であるという勘違いが進んでいるが、これは事実ではない。通常一ノ宮は、国の役人であった国司が赴任の際に参拝する順番が最初という意味であるが、櫛引八幡宮が自称する一ノ宮というのは、盛岡藩の南部家がとても大切にしていた神社という意味合いで用いられている。
実際八戸藩が成立しても、櫛引八幡宮は飛び地として盛岡藩の管理下にあり、八戸の神社にならなかった程に盛岡南部家は篤く崇敬しており、藩制が解体されるまでずっと盛岡の神社となっていた。
この南部総鎮守一ノ宮という言葉は、上記の様な背景の為八戸では何ら地盤を持っておらず、衰退していた神社を立て直す為、平成に入る前後あたりに観光戦略的に作られた櫛引八幡宮独自の造語で、盛岡にいる本家の南部氏が特に篤く崇敬したから南部の総鎮守と言えるだろう、同じく南部家にとっての一ノ宮と言っても良いだろうというネタで作られたキャッチフレーズである。
このキャッチフレーズは、現蕪嶋神社宮司が櫛引八幡宮禰宜時代創作したものであるが、本人は北東北に一ノ宮が存在するはずもないという歴史的常識を知らずにやってしまった為、詐欺のような行為だという周囲の批判が巻き起こってしまった。しかし、事実これによって櫛引八幡宮が立ち直った側面があるのも事実である。
実際の陸奥国一ノ宮は、志和彦神社鹽竈神社・馬場都都古和気神社・八槻都都古和気神社・石都都古和気神社の陸奥国一ノ宮論社四社と言われる神社が本当の一ノ宮であり、青森県内では新一宮として岩木山神社が全国一ノ宮会に属している。
仁安元年(1166年)に加賀美遠光が甲州南部庄(現山梨県南部町一帯)に八幡神を勧請して創祀し、緋威の鎧を殿内に納めたという八幡宮に起源を持ち、文治5年(1189年)の奥州合戦で戦功をたてたその息南部光行(南部氏の始祖)が糠部5郡(八戸・三戸・下北・鹿角・下北)の領地を任されて建久2年(1191年)に入部した折に、六戸の瀧ノ沢村に社殿を造営して南部庄から八幡宮を遷座し、さらに貞応元年 (1222年) に櫛引村の現在地に遷座したという。社伝の『櫛引八幡宮縁起旧記』によれば、瀧ノ沢村への遷座に際しては津島平次郎という家臣が甲州へ遣わされ、同村に仮宮を営んだのも同人であった事から、その子孫である滝沢家が「鍵守」として祭祀に与るようになったといい、また南部庄八幡宮の別当職であった宥鑁(ゆうばん)という僧も遷座に供奉し、当地に来住して普門院を開創、以後別当寺院として鍵守とともに祭祀を掌ったという。なお『櫛引八幡縁起』に、櫛引村には大同年間(806-10年)に坂上田村麻呂が創祀したという八幡宮の小社が鎮座していたためにそれと合祀したものともしている。その後は「櫛引八幡宮」として南部の総鎮守と崇められ、「南部一ノ宮」とも称された[2][3]。
その後、建武年間に三戸南部家が衰退すると、当時陸奥国の国司代理として下向し、根城を築いた南部師行(根城南部氏4代目)が再興して南部氏の祈願所とした。
旧暦の8月14日から16日の3日間に行われる秋季大祭は最重要の祭儀と位置づけられ、流鏑馬の神事や様々な芸能が奉納される。
流鏑馬根城南部氏の師行の再興によって、領内安全・子孫繁昌・武運長久を祈願して奉納されたのが起源であるという。
師行の子孫である根城南部氏10代目の光経が応永18年(1411年)に秋田へ出陣するに際して戦捷を祈願し、八戸へ凱旋すると陣中で着用した具足と着替の2領、長船幸光の太刀、乗馬の青毛と替馬の鹿毛の馬2匹を奉納し、同年8月15日の大祭には盛大な流鏑馬の神事を斎行したと伝え、以後流鏑馬には青毛と鹿毛の馬を駆けさせる定めとなったという(『三翁昔語』巻の二)。また、流鏑馬の乗り手を「役者」と称すが、この年からは根城南部氏と共に七戸南部氏も参加するようになり、以来役者を勤める者は三戸、八戸(根城)、七戸の3南部家から出る事となり、その慣例が幕末まで続いた。かつては、勤仕する役者が神社へ参拝する時には不浄のものを踏まないように高足駄を履いたり、当日の朝は役者が参拝するまでは一般の参詣を許さない等の決まりがあったという。なお、現在の流鏑馬は明治以後に中絶していたものを、社前に新しく馬場を設けて昭和59年(1984年)11月7日に復興したものである[4]。
また5月14日のお浜入り神事は、神輿が小中野の御前(みさき)神社に渡御する神事であるが、これは神威の再生・更新を図るものであるという[5]。
以上の3棟は正保2年(1645年)から慶安元年(1648年)にかけて、盛岡藩2代藩主(南部氏28代)南部重直の命で造営されたもので、その後の補修工事も藩の直営事業として行われた。江戸時代前期の社殿形態を伝える遺構であり、拝殿左右に脇宮として祀られている神明宮と春日社の2棟(下述)を合わせて同時代の建造物群として残されている点が貴重であることから[7]、平成5年(1993年)4月20日に国の重要文化財に指定された。
なお、現拝殿は昭和59年11月に竣功した桁行15間梁間8間入母屋造平入銅板葺の建物。
その他、16柱の神々を祀る合祀殿や[8]、悶破稲荷神社(もんぱいなりじんじゃ)、祖霊舎がある。
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