もりもと たけろう 森本 毅郎 | |
|---|---|
| プロフィール | |
| 愛称 | タケロー(さん) |
| 出身地 | |
| 国籍 | |
| 生年月日 | (1939-09-18)1939年9月18日(86歳) |
| 最終学歴 | 慶應義塾大学文学部英文学科 |
| 職歴 | 協会:岡山→佐世保→神戸→東京 民放:TBS専属契約→フリーランス |
| 活動期間 | 1963年 - |
| ジャンル | 報道・情報・ナレーション |
| 著名な家族 | 森本哲郎(兄) |
| 公式サイト | TBSラジオによるプロフィール |
| 出演番組・活動 | |
| 出演中 | 『噂の!東京マガジン』 『森本毅郎・スタンバイ!』 |
| 出演経歴 | 『NHKニュースワイド』 『そこが知りたい』 『スパスパ人間学!』 『情報ライブEZ!TV』など |
森本 毅郎(もりもと たけろう、1939年〈昭和14年〉9月18日[1] - )は、日本のフリーアナウンサー、総合司会者。元NHKアナウンサー、ニュースキャスター。番組制作会社株式会社ラダック(LADAK)の設立者。TBSラジオで30年以上続く長寿番組であり「首都圏で一番聴かれている朝の情報番組」ともなった『森本毅郎・スタンバイ!』のパーソナリティ。また、やはり30年以上の長寿番組となったTBS→BS-TBS『噂の!東京マガジン』の総合司会を務め、テレビドラマや映画などへも出演している[2][3]。
東京府東京市中野区(現在の東京都中野区)で3男4女の7人きょうだいの三男として誕生。兄は評論家の森本哲郎。1944年12月、東京に戦火が落とされるのを恐れ、長野県長野市横沢町へ一家揃って疎開した。
東京都立富士高等学校、慶應義塾大学文学部英文学科を卒業[注 1]。大学時代は劇研(演劇研究会)に所属し、当時の仲間に石坂浩二がいる。後に石坂が主演した大河ドラマ『草燃える』ではナレーションを担当した。
1963年、NHKにアナウンサーとして入局。入局後は研修を経て、岡山放送局に配属。岡山放送局時代には高校野球の決勝戦中継も経験した。
その後、佐世保放送局(当時、現在は長崎放送局傘下の支局)、神戸放送局を経て東京(本部)へ異動。
1973年から1974年まで『新日本紀行』のナレーターを担当。1974年から1977年まではインタビュー番組『女性手帳』の聞き手役を務める。1977年から1979年までは『教養特集』のキャスターを務め、1980年4月7日からは朝の情報・報道番組『NHKニュースワイド』のメインキャスターを担当した。
1984年2月29日に『NHKニュースワイド』にて「私事で恐縮ですが、今日を持ちまして『ニュースワイド』を卒業します。それと同時にNHKを辞めます」と当時としては異例の「公開フリー宣言」を公表し、2月中に『NHKニュースワイド』を卒業、NHKも退職した[4]。
NHKを退局後、TBSと専属契約を交わす。1984年5月7日から冠番組の『森本毅郎さわやかワイド』( - 同年11月2日)、同年11月5日から『森本ワイドモーニングEye』(後に『モーニングEye』に改題、 - 1987年9月25日)の総合司会を担当。また、個人事務所の「株式会社森本毅郎事務所」を設立し、同社の所属となった[5]。
このTBS専属時代、『ニュース22プライムタイム』のメインキャスター(1987年10月5日 ‐ 1988年9月30日)、『そこが知りたい』の司会(1987年 - 1997年)、『悠々!お昼です』の司会(1990年 - 1991年)、『わいど!ウォッチャー』の司会(1993年 - 1995年)を担当した。なかでも、『噂の!東京マガジン』では1989年10月1日の番組開始より現在まで総合司会を担当している。
1990年からはTBSラジオで冠番組『森本毅郎・スタンバイ!』のパーソナリティを担当する。やがて同番組は「首都圏で一番聴かれている朝の情報番組」の座を確立し[6]、2009年7月に放送5000回[7]、2024年11月に放送9000回を突破した[8][9]。2025年2月現在も放送回数を増やし続けている。
1993年にTBSとの専属契約を解除し[10]、フジテレビやテレビ朝日などにも活動の場を広げる。ただし、日本テレビには出演歴がない。
フリー転身後は、『噂の!東京マガジン』の司会と『森本毅郎・スタンバイ!』のパーソナリティを引き続き担当しながら、フジテレビ・関西テレビ『スーパーナイト』の総合司会(1997年 - 2001年)、TBS『スパスパ人間学!』の司会(1999年 - 2005年)、フジテレビ・関西テレビ『EZ!TV』(後の『情報ライブ EZ!TV』)の総合司会(2001年 - 2005年)、テレビ朝日『グレートマザー物語』のナレーター(2001年4月 - 2007年3月)などを務めた。
2015年11月29日に放送した『噂の!東京マガジン』のエンディングで腰の手術のためしばらく休養することを報告し[11]、2016年1月10日放送分で復帰。2022年4月1日に放送した『森本毅郎・スタンバイ!』のエンディングにて自身5度目となる腰の手術を行うことを公表し[12]、『噂の!東京マガジン』は同年4月いっぱい休演した[13]。
2023年6月6日からは発熱のため『森本毅郎・スタンバイ!』を欠席。6月8日までは土井敏之、6月9日放送分は火曜日コメンテーターの酒井綱一郎が代理パーソナリティを務めた。その後、6月12日放送分で一度復帰したが[14]、6月13日には夏風邪の影響による肺炎を患ったとして、体調を考慮し、当面の間は休養することを発表した[15]。それと同時に『噂の!東京マガジン』も休演し、『森本毅郎・スタンバイ!』には6月19日放送分、『噂の!東京マガジン』には6月25日放送分で復帰した。2024年は1月8日放送分から『森本毅郎・スタンバイ!』に出演する予定だったが、当日に発熱があったため出演を見送り、検査入院を経て1月17日放送分から出演した[16]。
2023年に「森本毅郎事務所」を閉鎖・清算し、代わりの個人事務所として「合同会社エン」を設立した[5]。この事務所名には、自らの終活を意識した「もう少しで“エンド”」という意味や、「円」「縁」などの意味が込められているという[5]。
報道番組
| 期間 | 番組名 | 役職 | |
|---|---|---|---|
| 時期不明 | ニュースセンター9時(NHK総合) | ナレーター | |
| 1980年4月 | 1984年2月 | NHKニュースワイド(NHK総合) | 月~金曜版メインキャスター |
報道番組以外(教養・紀行・ドラマなど)
報道・情報ワイドショー番組(専属契約解除後も含めて)
| 期間 | 番組名 | 役職 | |
|---|---|---|---|
| 1984年5月 | 1987年9月 | 森本毅郎さわやかワイド→森本ワイド モーニングEye | 総合司会 |
| 1987年10月 | 1988年9月 | JNNニュース22プライムタイム | メインキャスター |
| 1997年9月 | そこが知りたい | 司会 | |
| 1989年10月 | 現在 | 噂の!東京マガジン | 総合司会[23] ※同局専属契約解除後もフリーとして引き続き出演を継続、さらに、番組の放映権を同局の関連会社であるBS-TBSに移行後も引き続き放送を継続 |
| 1990年4月 | 1990年9月 | ぴりっとタケロー | 司会 |
| 1990年10月 | 1991年9月 | 悠々!お昼です | |
| 1993年3月 | 1995年3月 | わいど!ウォッチャー→ウォッチャー | |
バラエティ・特別番組
TBS
フジテレビ
| 期間 | 番組名 | 役職 | 備考 | |
|---|---|---|---|---|
| 1997年10月5日 | 2001年3月25日 | スーパーナイト | 司会 | |
| 2001年4月1日 | 2005年9月25日 | EZ!TV→情報ライブ EZ!TV | ||
テレビ朝日
NHK BS
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| 出演テレビ番組 |
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| 出演ラジオ番組 | |||||
| 関連項目 | |||||
| 関連人物 | |||||
| 第1回 -第10回 | |
|---|---|
| 第11回 -第26回 (帝国劇場開催時) | |
| 第27回 -第35回 (日本武道館開催時) | |
| 第36回 -第45回 (TBS放送センター開催時) | |
| 第46回 - (新国立劇場・中劇場開催時) |
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| 関連項目 | |