Movatterモバイル変換


[0]ホーム

URL:


コンテンツにスキップ
Wikipedia
検索

林田藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。 記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。2023年2月

林田藩(はやしだはん)は、江戸時代播磨国揖東郡にあった。藩庁として林田(現・兵庫県姫路市林田町聖岡)に林田陣屋北緯34度54分21秒東経134度34分48.5秒 / 北緯34.90583度 東経134.580139度 /34.90583; 134.580139)が置かれた。表高は1万石。

略史

[編集]

豊臣政権下で尼崎郡代700石であった建部光重の子・政長を藩祖とする。政長は池田輝政の養女(下間頼龍の娘)を母とする池田家一族であった。池田利隆忠継兄弟の幕下の大坂の陣で戦功を挙げ、元和元年(1615年)に伯父の池田重利とともに摂津川辺郡西成郡尼崎藩1万石を与えられ大名に取り立てられた。元和3年(1617年)、宗主である姫路藩主池田家の転封により林田に移り、林田藩が成立した。

建部家外様大名でありながら、明治維新まで10代政世まで250年余りに亘り林田藩を治めた。また3名の藩主が大番頭となっている。中でも、3代・政宇伏見奉行になり、後に寺社奉行にもなっている。

7代・政賢寛政6年(1794年藩校敬業館を開いた。9代政和は大番頭として京都、二条城守護に就き、藩校敬業館振興のため、藩校の講師に河野鉄兜を迎えた。この敬業館の講堂は文久3年(1863年)に焼失ののち復興。講堂は現存しており平成4年(1992年)姫路市指定文化財に指定されている。

藩主家は明治2年(1869年)の版籍奉還後に華族に列した。林田藩は明治4年(1871年)の廃藩置県により林田県となり、その後姫路県飾磨県を経て兵庫県に編入された。その後藩主家は明治17年(1884年)の華族令子爵に叙された。

歴代藩主

[編集]
建部家

外様 1万石 (1617年 - 1871年)

  1. 政長
  2. 政明
  3. 政宇
  4. 政周
  5. 政民
  6. 長教
  7. 政賢
  8. 政醇
  9. 政和
  10. 政世

幕末の領地

[編集]
幕末の林田藩領分
郡名村名石高M22市制町村制施行現在
揖東郡紀美村[1]437.966705大津村姫路市大津区
矢田辺村690.187195太田村揖保郡太子町
東南村578.504028
中太田村[2]1624.205811
東保出屋敷村224.317993
東保村591.226990
平方村[3]70.679001龍田村
柳村[3]286.575012
野部村291.645294神岡村たつの市(旧龍野市)神岡町
田中村466.634308
寄井村558.398193
沢田村973.760071
入野村618.599792
宿村[4]473.514893
横落村[5]1807.033569
筒井村212.427002
奥村118.490700
構村1085.124878林田村姫路市林田町
六九谷村902.320801
奥佐見村638.442505
大提村213.481995
松山村653.634705
下野村402.971008新宮村たつの市(旧揖保郡新宮町
北村291.467712越部村
橋崎村[6]678.061707

脚注

[編集]
  1. ^吉美村
  2. ^太田村
  3. ^ab佐用岡村
  4. ^東觜崎村に併合
  5. ^横内村
  6. ^觜崎村

関連項目

[編集]

参考文献

[編集]
先代
播磨国
行政区の変遷
1617年 -1871年(林田藩→林田県)
次代
姫路県
大政奉還から廃藩置県までの間に存在した
慶応3年(1867年)旧暦10月 -明治4年(1871年)旧暦7月
北海道地方
日本地図
東北地方
関東地方
北陸・甲信地方
中部地方
近畿地方
中国地方
四国地方
九州地方
関連項目
藩庁の置かれた地域を基準に分類しているが、他の地方に移転している藩もある。順番は『三百藩戊辰戦争事典』による。
明治期の変更: ★=新設、●=廃止、○=移転・改称、▲=任知藩事前に本藩に併合。()内は移転・改称・併合後の藩名。()のないものは県に編入。
https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=林田藩&oldid=107073954」から取得
カテゴリ:
隠しカテゴリ:

[8]ページ先頭

©2009-2025 Movatter.jp