| 時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
|---|---|
| 生誕 | 寛保3年1月15日(1743年2月9日) |
| 死没 | 文政7年5月10日(1824年6月6日) |
| 改名 | 勇丸(幼名)→頼勇→頼前 |
| 諡号 | 貞公 |
| 戒名 | 観浄院眞誉貞延理応 |
| 墓所 | 茨城県常陸太田市の瑞龍山 |
| 官位 | 従四位下、右京大夫 |
| 幕府 | 江戸幕府 |
| 主君 | 徳川家治→家斉 |
| 藩 | 常陸府中藩主 |
| 氏族 | 石岡松平家 |
| 父母 | 父:松平頼済、母:以保 養母:賢姫 |
| 兄弟 | 頼前、太田頼陽、頼贇 |
| 妻 | 正室:品姫(徳川宗勝の七女) |
| 子 | 恭丸 養子:頼説、田沼意信正室 |
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松平 頼前(まつだいら よりさき)は、江戸時代中期の大名。常陸国府中藩7代藩主。官位は従四位下・右京大夫。
6代藩主・松平頼済の長男。母は以保(渡邉氏)。幼名は勇丸。諱を頼勇から頼前に改める。
宝暦2年(1752年)11月に世子となる。天明4年(1784年)、父の死去により跡を継いだ。寛政7年(1795年)9月10日、養嗣子の頼説に家督を譲って隠居し、文政7年(1824年)5月10日に82歳で死去した。
教養や蹴鞠に優れていたと言われており、蹴鞠では飛鳥井雅重の門下として紫組の冠懸を許された。
※日付=旧暦