| 時代 | 江戸時代中期 |
|---|---|
| 生誕 | 享保元年12月26日(1717年2月7日) |
| 死没 | 安永8年7月25日(1779年9月5日) |
| 改名 | 源之進→武真[1]→武元 |
| 戒名 | 大超院勇山 |
| 墓所 | 東京都荒川区東日暮里の関妙山善性寺 |
| 官位 | 従四位下・侍従、右近衛将監 |
| 幕府 | 江戸幕府寺社奉行、老中 |
| 主君 | 徳川吉宗→家重→家治 |
| 藩 | 上野国館林藩藩主→陸奥国棚倉藩藩主 |
| 氏族 | 石岡松平家→越智松平家 |
| 父母 | 父:松平頼明 母:留與(久野氏)[2]または婉(林氏)[3] 養父:松平武雅 |
| 兄弟 | 頼永、左膳、武元、遠山友明、頼幸、亀井茲胤、織田信右正室、松平信友正室 |
| 妻 | 正室:松平忠雅の娘 側室:石井氏、種村氏 |
| 子 | 武寛、戸田氏教、松平忠泰正室、房姫、 安藤信成正室、松平忠済正室、森忠興正室、泰、侶姫ら |
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松平 武元(まつだいら たけもと/たけちか)は、江戸時代中期の大名。上野国館林藩主、陸奥国棚倉藩主。官位は従四位下・侍従、右近衛将監。越智松平家3代。親藩(御家門)ながら江戸幕府の寺社奉行、老中を務めた。
享保元年(1717年)12月26日、常陸国府中藩の第3代藩主・松平頼明の三男として誕生した。母は留與(久野氏)または婉(林氏)。幼名は源之進。
享保13年(1728年)、上野国館林藩2代藩主・松平武雅の養嗣子となり家督を相続、幕府には正徳3年(1713年)に生まれた次男と偽って届け出た。
家督相続後に陸奥棚倉に移封された。稲葉迂齋(稲葉正義、稲葉正誼とも)に師事する。延享3年(1746年)に西丸老中に就任し、上野館林に再封される。延享4年(1747年)に老中、明和元年(1764年)に老中首座に就いた。のちに将軍家世嗣徳川家基を憚って諱の読みを「たけもと」から「たけちか」に改める。
徳川吉宗、家重、家治と3代の将軍に仕え、家治からは「西丸下の爺」と呼ばれ信頼された。老中在任時後半期は田沼意次と協力関係にあった。老中首座は安永8年(1779年)死去までの15年間務めた。武元死後は、四男武寛が家督を継いだ。法名は大超院勇山。墓所は東京都荒川区東日暮里の関妙山善性寺。
武元は吉宗から信任されており、吉宗が病弱で能力的にも疑問がある家重を輔弼する役目を武元に託したという。『徳川実紀』では武元も吉宗のその命令によく答え、「(家重の)御病重りし時も、明くれ西城に伺候して、御薬の事なと専に沙汰しける(家重の病気が重くなった時でも、早くから江戸城西の丸に赴き、家重の薬や治療について命令をした)」とある[4]。
家治からの信任が厚く、家治が徳川宗家を継承する際に行われた儀式では先導役を任された。また家治から「まだ若年で国政に慣れていないので、今後気が付いたことは何でも教えてほしい。また過ちがあれば、すぐに戒めてほしい」と頼まれるほどだった[5][6]。
家治の下で権勢を振るった田沼意次も、武元には一目を置かざるを得なかった。意次が思いのままの政治を展開するようになるのは武元の死後であった[6]。
越智松平家館林藩藩主 (1728年、1746年 - 1779年) | |
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| 榊原家 | |
| 大給松平家 | |
| 館林徳川家 | |
1683年から1707年まで公儀御料 | |
| 越智松平家 | |
| 太田家 | |
1734年から1740年まで公儀御料 | |
| 太田家 | |
| 越智松平家 | |
| 井上家 | |
| 秋元家 | |
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