| まつやま えいたろう 松山 英太郎 | |
|---|---|
| 本名 | 松山 英太郎 (まつやま ひでたろう) |
| 生年月日 | (1942-07-09)1942年7月9日 |
| 没年月日 | (1991-01-11)1991年1月11日(48歳没) |
| 出生地 | 東京都武蔵野市吉祥寺 |
| 出身地 | 東京都三鷹市大沢 |
| 死没地 | 東京都三鷹市新川 |
| 国籍 | |
| 職業 | 俳優 |
| ジャンル | テレビドラマ・映画 |
| 活動期間 | 1960年 -1991年 |
| 配偶者 | なし(離婚歴あり) |
| 著名な家族 | 松山省三(祖父) 5代目河原崎國太郎(父) 松山政路(弟) |
| 主な作品 | |
| テレビドラマ 『七人の孫』 『肝っ玉かあさん』 『時間ですよ』 『大岡越前』 『江戸を斬る』 『非情のライセンス』(第2シリーズ) | |
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松山 英太郎(まつやま えいたろう、1942年7月9日 -1991年1月11日)は、日本の俳優。本名の表記は同じだが「まつやま ひでたろう」と読む。東京都武蔵野市吉祥寺出身。
祖母の英子と父の太郎(本名)から1文字ずつ取って英太郎(ひでたろう)と名づけられた。
1947年、5歳で前進座の『弁天小僧』で初舞台を踏む。
中学校を卒業するまでに『ひろしま』など数本の映画に出演する。
1960年、大成高等学校を中退し、俳優座養成所に12期生で(同期には中村敦夫、成田三樹夫、樫山文枝などがいた)入所。1963年に卒業。
『時間ですよ』『肝っ玉かあさん』など、ホームドラマには欠かせぬ顔として大活躍。
ひょうひょうとした外見ながらも下品さやくどさがなく、上品ささえ感じられた役作り(時代劇・現代劇共通で)ができる俳優だった。
また、1960年代後半の若者向け朝のテレビ番組『ヤング720』(TBS)では初代司会者として、由美かおると組み、2年間担当したことがある。
1977年にプロデューサーに転身を図るが、翌年に俳優に復帰。
TBSの月曜20時からの時代劇枠『ナショナル劇場』では『大岡越前』第2部で初出演して以来、生前最後の放送となった1990年放送の同第11部まで、『水戸黄門』以外のすべての作品にレギュラー出演した。この中には『江戸を斬る』の第7部まで、および『翔んでる!平賀源内』も含まれる。唯一出演がなかったのは後述の通り『大岡越前』第5部だった。
なかでも、『大岡越前』の猿の三次、『江戸を斬る』(西郷輝彦主演の第2~6部)の鼠小僧・次郎吉、第1部の『梓右近隠密帖』の葵小僧など、主人公をサポートする密偵役には定評があり、はまり役であった。『江戸を斬る』第7部でのみ、密偵役は鮎川いずみに譲り、同心役を演じていた。『水戸黄門』にもたびたびゲスト出演しており、同第18部では『大岡越前』で組んでいた森マリアとともに忍び役で出演した。
森繁久彌主演の『おやじのヒゲ』シリーズにも出演しており、森繁とは息の合ったところをみせた。
私生活では芦田伸介の一人娘・亜子との結婚・離婚を経験。芸能関係者を中心に浮名が絶えなかったが、死去するまで独身だった。
1990年9月の東京宝塚劇場の公演中に体調不良を訴え、杏林大学医学部付属病院に入院し、食道がんと診断され闘病生活を送る。入院中の10月に父・河原崎國太郎が亡くなり葬儀には列席できず、入院闘病の告知と欠席のお詫びを伝える録音テープが葬儀場で公開された。翌1991年1月11日16時40分、死去[2]。48歳没。
その突然の死は時代劇ファンや芸能関係者を愁嘆させた。特に親友の竹脇無我はこれがもとでうつ病を患う一因になったとされる。英太郎を息子のようにかわいがっていた森繁は、葬儀場で号泣し、その死を惜しんだ。闘病中の病室でファンに向け録音したテープがマスコミに公開された。
没後まもなく、母・松山重子が『ごめんね、英ちゃん - 食道癌で死んだわが子・松山英太郎追想』(新日本出版社、1991年8月)を出版した。
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