| 松尾 鶴太郎 | |
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| 生誕 | (1864-09-23)1864年9月23日 佐賀県 |
| 死没 | 1945年??月??日 |
| 所属組織 | |
| 軍歴 | 1886年 -1909年 |
| 最終階級 | 海軍造船総監 |
| 出身校 | 工部大学校 |
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松尾 鶴太郎(まつお つるたろう、元治元年8月23日(1864年9月23日)[1] -1945年(昭和20年)[2])は、日本の海軍軍人、造船技術者、実業家。最終階級は海軍造船総監。
佐賀藩士、松尾清慎の長男として現在の佐賀県に生まれる[3][4]。1872年(明治5年)、家督相続[5]。1885年(明治18年)4月、工部大学校造船学科卒業(後の東京帝国大学造船学科[1][6])、工学士となり、工部省に入り、兵庫造船所所属、初の国産鉄船吉野川丸の建造に携わる[7][8]。1886年(明治19年)、海軍省に入り同顧問のルイ=エミール・ベルタンを補佐して軍艦設計に関わり、八重山、松島、厳島、橋立の設計はこのとき行われた[7]。海軍造船大技士から同年、造船少艦となり、海軍省軍務局第三課課僚兼海軍大学校教官[8]。1888年(明治21年)2月7日、帝国大学造船学科助教授、1891年(明治24年)10月21日、海軍大学校教官兼助教授を免兼官[9]。この他には海軍大学校中監、海軍省造船課課僚、海軍技術会議議員、海軍軍医学校教官も務めた[7][8]。同年にはイギリス出張や吉野、龍田の建造監督を行う[7]。1900年(明治33年)、再度イギリス出張、三笠、初瀬の建造監督をした[7]。1903年(明治36年)、日露戦争開戦を前にしてイタリアに渡り、春日及び日進の購入折衝にあたり、同戦争に貢献[7]。1904年(明治37年)、横須賀海軍工廠部長として初の国産戦闘艦建造を始め、薩摩の建造、対馬の設計及び建造[7][10]。1907年(明治40年)、海軍造船総監となる[7]。1909年(明治42年)予備役編入、三井物産技術顧問、芝浦製作所取締役となる[7]。海軍から現役を退いたのは横須賀時代の薩摩建造をしていたときの頭の健康問題からであった[11]。他には新高の設計、鞍馬の建造を行った[7]。1910年(明治43年)、工学博士を授与される[1][12]。1911年(明治44年)、三井物産を辞め、経営者の道を歩む[7]。三井物産では機械部長代理も務めた[13]。日之出商会を設立、社長として輸出入業を行う[14]。
1914年(大正3年)7月18日、交流のあった松本和が三井物産の技術顧問時代の松尾を通じて戦艦金剛の発注工作を行ったシーメンス事件(ヴィッカース事件)で東京地方裁判所は松尾に懲役2年の実刑判決[15][16][17]。1915年(大正4年)4月30日の東京控訴院では一審判決を破棄して有価証券偽造行使、詐欺、贈賄、文書偽造行使により懲役2年執行猶予4年の有罪判決[18]。判決確定で予備役海軍造船総監を失官、従四位返上を命じられ、勲三等旭日中綬章、功四級金鵄勲章及び明治二十七八年従軍記章、明治三十三年従軍記章、明治三十七八年従軍記章を褫奪された[19][20][21][22]。1916年(大正5年)3月13日、大正天皇即位の大典により特赦[23]。事件で検察は松本が軍法会議で裁かれ三井物産側と一緒に裁判ができないため、松本を収賄罪で有罪にするために、予備役で通常の裁判になる松尾を詐欺取得罪で逮捕起訴、取り調べでは担当検事が松尾は破廉恥罪である詐欺財取罪で起訴されたが海軍(元)将官として不名誉極まりないことから三井から渡された40万は謝礼ではなく松本への贈賄だと認めるなら贈賄罪で問うことにすると誘導され破廉恥罪を避けるために検事の言うとおりに陳述した[24][25]。これはあるところが賄賂によって作ってそのせいで欠陥があるとすれば批判されて当然だが金剛はそうではなく海軍の技術発展に有益で、欠陥もなく、松本は受け取った金を使わないでおいたため金剛購入は間違っておらず私利私欲でもないとすることが可能だった[26]。一方で松尾は詐欺取得罪では三井を欺いて金をせしめたという私利私欲のためとなってしまうため違法ではあるが目指すところは間違っていない、海軍にも迷惑かけず国のためにもなったと思い込んだのである[27]。こうして事件は汚職として首相の山本権兵衛の責任が問われることになる[27]。
松尾地所社長、太平金具取締役、太陽製帽役員、大東鉱業社長、日本漁業取締役、谷口製鎖所監査役、東興実業社長、日本洋瓦社長及び相談役、松尾鉄工所代表社員、日本築造会社役員を務めた[1][7][28][29][30][31]。
宗教は浄土宗[1]。妻は丹羽藤吉郎の姪[1]。妹は丹羽の妻[32]。次男の妻は海軍中将北古賀竹一郎の三女、次女の夫は弁護士の菅原裕[1][32]。