| ひがしやま ちえこ 東山 千栄子 | |
|---|---|
1952年撮影 | |
| 本名 | 河野 せん(旧姓:渡辺・寺尾) |
| 生年月日 | (1890-09-30)1890年9月30日 |
| 没年月日 | (1980-05-08)1980年5月8日(89歳没) |
| 出生地 | |
| 死没地 | |
| 職業 | 女優 |
| ジャンル | 映画、テレビドラマ、舞台 |
| 活動期間 | 1925年 -1980年 |
| 配偶者 | 河野通久郎 |
| 著名な家族 | 渡辺暢(父) 中江百合(妹) |
| 主な作品 | |
| 映画 『東京物語』(1953年) 舞台 『桜の園』 | |
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東山 千栄子(ひがしやま ちえこ、旧字体:千榮子、1890年9月30日 -1980年5月8日)は、日本の女優。日本新劇俳優協会初代会長。本名:河野 せん(旧姓:渡辺・寺尾)。
築地小劇場を経て俳優座の結成に参加した新劇出身者である。舞台では翻訳劇の貴婦人役を多く演じ、『桜の園』のラネーフスカヤ夫人役が当たり役となった。テレビドラマや映画では老婦人役を多く演じ、特に『東京物語』の老母役で知られる。主な栄典・称号・褒章に紫綬褒章、文化功労者。著書に自伝『新劇女優』などがある。
妹に料理研究家の中江百合、弟にベース奏者の渡辺良[1]がいる。
千葉県千葉市に生まれる。司法官で後に貴族院議員を務めた渡辺暢の次女で、10人兄妹の3番目である[2]。生家は代々佐倉藩の城代家老を務めていた[3]。1899年(明治32年)、母方の伯父である法学者の寺尾亨の養女となり、東京市麹町区富士見町に転居する[2][4]。
富士見高等小学校高等科2年を終えて華族女学校に入学[4] し、1907年(明治40年)の卒業後は仏英和女学校(現在の白百合学園高等学校)でフランス語を学ぶ。
「外交官夫人になってほしい」と言う養父母の希望で数え年15歳で外交官補と婚約するが、3年後に婚約破棄[5]。1909年(明治42年)、実父母のキリスト教での知人の息子であり、養父の教え子でもあった、輸入業者のモスクワ支店長だった河野通久郎(とおくろう)と結婚し、河野の任地のモスクワへ向かった[6]。フランス語の能力不足のため、リヨンへ語学留学したが、買い物で滞在費を浪費したため、モスクワへ連れ戻されている。また、夫に連れられて見た、モスクワ芸術座の舞台『桜の園』を見るうち、その魅力の虜となった。1912年、モスクワ芸術座の視察に訪れた小山内薫に面会する[7]。
1917年(大正6年)、ロシア革命(十月革命)の3ケ月前に夫と共に一旦日本に帰国したが、革命発生のためモスクワの自宅に戻れなくなった[8]。夫はすぐに海外勤務に就いたが、東山は海外生活に嫌気がさしており、一人日本に留まった[9]。
1925年(大正14年)、35歳で築地小劇場に第2期研究生として入団した[2][10]。同期には岸輝子、村瀬幸子、薄田研二らがいた。ユージン・オニール作『皇帝ジョーンズ』の貴婦人役で初舞台を踏んだ[2][3]。翌1925年(大正15年)、メーテルリンク作『タンタジールの死』が初主演作となり[2]、1927年(昭和2年)に『マクベス』のマクベス夫人を演じて注目を浴びた。同年、チェーホフ作『桜の園』でラネーフスカヤ夫人を演じ、以降東山の当たり役として1963年(昭和33年)の俳優座公演までに約310回も演じた。
1928年(昭和3年)、築地小劇場創立者の小山内薫が死去し、その影響で劇団が分裂した。多くの劇団員が脱退していった中、東山は青山杉作、北村喜八らと同劇場に残留し、北村らと劇団築地小劇場を名乗って活動した。しかし、1930年(昭和5年)には青山らと劇団新東京(後に劇団東京、劇団自由舞台と改称)を結成した。解散後は新築地劇団や文学座などの劇団に客演し、映画やラジオにも出演した。
1944年(昭和19年)、千田是也、東野英治郎、小沢栄太郎らと俳優座を結成する。終戦まで移動演劇隊・芙蓉隊を組織して地方を巡演した。戦後も東山は劇団の中核として数多くの舞台に出演し、『フィガロの結婚』の伯爵夫人役、『女の平和』のリューシストラテー役、森本薫脚色の『陳夫人』などが代表作である[2]。
1951年、夫の河野が75歳で死去した[11]。1952年(昭和27年)には『桜の園』の演技で芸術選奨文部大臣賞を受賞した。
戦中から映画にも意欲的に出演している。溝口健二監督『女優須磨子の恋』、吉村公三郎監督『源氏物語』、今井正監督『喜劇 にっぽんのお婆あちゃん』等に出演したが、特に小津安二郎監督の『東京物語』では、笠智衆と共に老夫婦を演じて映画出演の代表作とした。また東山は木下惠介監督作品の常連出演者であり、木下監督のデビュー作『花咲く港』から『歌え若人達』まで計13本に出演している。
1956年(昭和31年)、女優として初の紫綬褒章を受章する。1958年(昭和33年)、日本新劇俳優協会の初代会長に就任し、亡くなるまで務めた。1966年(昭和41年)には文化功労者に選出された。
1967年(昭和42年)4月に行われた東京都知事選挙では、社共推薦の美濃部亮吉の支援団体「明るい革新都政をつくる会」の代表委員に名を連ねた[12]。
1969年(昭和44年)、体力的な衰えから舞台活動を引退し、その後はテレビなどに活動の場を移した。
1971年(昭和46年)4月に行われた東京都知事選挙でも、美濃部を応援。選挙公報に記された支持者一覧に名を連ねた[13]。
1980年(昭和55年)5月8日、静岡県御殿場市の自宅で老衰のため89歳で没した。葬儀は劇団俳優座・日本新劇俳優協会合同葬という形で行われた。
2004年(平成16年)に公開されたアニメーション映画『ハウルの動く城』では、監督の宮崎駿からソフィー役の第一希望に挙げられている[14]。



太字の題名はキネマ旬報ベストテンにランクインした作品

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