| 東京駅 | |
|---|---|
丸の内口(2023年6月) | |
| とうきょう Tōkyō[注 1] Tokyo[注 2] | |
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| 所在地 | 東京都千代田区丸の内一丁目 |
| 所属事業者 | |
| 電報略号 | トウ(各社とも) |
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東京駅(とうきょうえき)は、東京都千代田区丸の内一丁目にある[1]、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東海旅客鉄道(JR東海)・東京地下鉄(東京メトロ)の駅。JR東日本の在来線と新幹線各路線、JR東海の東海道新幹線、東京メトロの丸ノ内線が発着するターミナル駅[2][3][4]。
1日の乗降人員数は約117万人で(2023年)、日本で5番目に利用者数の多い駅である[5]。プラットホームの数は日本一多く、在来線が地上5面10線と地下4面8線の合計9面18線、新幹線が地上5面10線、地下鉄は地下1面2線を有しており、面積は約46,800平方メートル。
日本最大のビジネス街である丸の内・大手町・有楽町・八重洲・日本橋・京橋の中心に位置しており、地下街を経由し周辺のオフィスビルと直結している。
| 全ての座標を示した地図 -OSM |
|---|
東海道新幹線(直通する山陽新幹線を含む)と東北新幹線(分岐する山形新幹線および秋田新幹線、直通する北海道新幹線、上越新幹線、北陸新幹線を含む)の起点となっており、全国の新幹線網における最大の拠点となっている[注 3]。また、東海道本線や東北本線など主要幹線の起点駅でもある。当駅から乗り換えなしで34都道府県と結ばれており[注 4]、1日当たりの列車発着本数は約3,000本という日本を代表するターミナル駅の一つである。
日本を代表する中央駅であるが、頭端式ホームが主流のヨーロッパの中央駅と異なり、在来線を中心に多くの路線が南北方向に直通運転を行う通過式のターミナル駅である(JRのターミナル駅では一般的な駅構造)[6]。
東北新幹線と在来線はJR東日本、東海道新幹線はJR東海が管轄しており、JR東海が管轄している駅としては新幹線、在来線を含めて最も東に位置している[注 5][注 6]。新幹線は2社とも線路は繋がっておらず、改札も別々となっているため、2社の新幹線が発着する駅で唯一、共同使用駅(境界駅)ではない[注 7]。
1914年(大正3年)に竣工した赤レンガ造りの丸の内口駅舎は辰野金吾らが設計した。2003年(平成15年)に丸の内駅舎は国の重要文化財に指定されており、重要文化財指定の駅建築物は当駅と門司港駅(福岡県北九州市門司区)のみである[注 8]。また、「関東の駅百選」認定駅でもある。
JR東京駅の事務管コードは、▲460101または▲440101である[7]。
当駅にはJRの新幹線と在来線各線(後述)、東京メトロの丸ノ内線が乗り入れている。JR東日本の駅には「 TYO 」のスリーレターコードが、丸ノ内線の駅には「M 17」の駅番号が与えられている。また、当駅を発着するJR線と東京メトロ大手町駅間との連絡運輸は東西線のみ行われている[8]。
JRの駅に乗り入れている路線は、線路名称上は新幹線が東海道新幹線と東北新幹線の2路線、在来線が東海道本線・東北本線・総武本線・京葉線の4路線であり、東海道本線を当駅の在来線における所属線としている[9]。管轄会社は東海道新幹線がJR東海、東北新幹線と在来線がJR東日本となっている。これら各路線は全て当駅を起点としており、当駅構内にはこれら各線の0キロポストが設置されている。ただし、旅客案内では後述の運転系統名が使用される。案内上の「東北(本)線」は中・長距離列車を意味し、それらはかつて上野駅発着であったため、当駅では用いられていなかった。上野東京ラインの開業後、東海道新幹線における車内放送の乗り換え案内においてのみ使われるようになった。
中央本線についても当駅が起点だが(当駅に0キロポストが設置されている)、国鉄からJRへの移行時に運輸省(当時)に提出された事業基本計画および『鉄道要覧』では、当駅 -神田駅間は東北本線とされた。これは先行敷設路線との営業距離の重複計上を行わないためのものであり、線路は独立している。また、マルスのシステム上の経路表示においても、当駅 - 神田駅間は中央本線に含まれている。なお、同線の代々木駅 -新宿駅間も同様の扱いである。
運転系統では、JR東日本の新幹線ホームには、以下の路線の列車が乗り入れている。
また在来線に関しても多岐に渡る運転系統が発着する。これらの在来線各線のうち、宇都宮線・高崎線・常磐線と京葉線・武蔵野線が同一の線路を共有している。それ以外は、各系統ごとに専用の線路が割り当てられている。
JRでは当駅を「中央駅」と位置付けており、前身である日本国有鉄道(国鉄)の時代から列車の進行方向を示す「上り・下り」の基点となっていた。現在、中央本線は当駅 - 神田間は戸籍上は東北本線となっているが、起点であった当駅へ向かう列車が引き続き上りとされている。なお、「中央駅」である当駅は東京都区内および東京山手線内各駅を発着するJR線長距離乗車券の運賃を算出するためのキロ数基準駅ともなっている(前者:201 km以上、後者:101 – 200 km)。
1889年(明治22年)に神戸駅まで全通した官設鉄道の新橋駅と、私鉄・日本鉄道の上野駅を結ぶ高架鉄道の建設が東京市区改正計画によって立案され、1896年(明治29年)の第9回帝国議会でこの新線の途中に中央停車場を建設することが可決された(東京市街高架鉄道構想)。施工は大林組が担当。日露戦争終結後の1908年(明治41年)から建設工事が本格化し、1914年(大正3年)12月20日に開業した。中央停車場は皇居の正面に設定され、東京駅と命名された。

ドイツから招聘されて、日本の鉄道建設を指導していた技術者フランツ・バルツァーにより駅の位置や規模、構内の配置が決められた。駅舎は繁華街のある東側(現在の八重洲側)ではなく、陸軍の練兵場跡地だった西側(現在の丸の内側)と決まった。皇居の正面と対峙することになり、国家の象徴的な位置付けであった。プラットホームはレンガ積の高架式4面8線で、新橋駅まで複々線の高架橋が計画された。東側には貨物ヤードが置かれることになった(のちに車両基地に変更)。バルツァーは日本風の駅舎を提案していたが、日本側に反対意見が多くバルツァーの構想は実現しなかった。
駅舎は辰野金吾と葛西萬司が設計し、そのデザインは「辰野式ルネッサンス」と呼ばれ皇室用玄関である「天皇の駅」としてのシンボリックな意味を持たせる事になった[10][要ページ番号]。品川白煉瓦製の赤煉瓦を外観に使用、構造煉瓦として埼玉県深谷市から鉄道輸送されたレンガ[注 14]と鉄筋造り、3階建て総建坪9,545平方メートル・長さ330メートルの豪壮華麗な洋式建築である。南北にそれぞれドーム状の屋根があり、当時は丸の内南口が乗車口、丸の内北口が降車口と分けて使用されていた。中央の玄関は皇室専用とされ、規模は小さいものの、細かい装飾が各所に施されていた。中央玄関と東西の一般出入り口との間に、各1つ別の出入り口があるが、これは荷物の搬入搬出口として設けられた。開業年の1914年(大正3年)は第一次世界大戦の開戦の年でもあり、青島の戦いを指揮した陸軍司令官神尾光臣中将が凱旋し、皇居に参内するイベントに合わせて開業式を行った。式典では、鉄道の草創期から建設を牽引してきた大隈重信首相が演説した。
アムステルダム中央駅が当駅舎を設計する際のモデルになったという説があるが、1988年(昭和63年)以降に藤森照信らをはじめとする西洋建築研究者により設計者の系譜や建築様式の両面から、否定的な意見も出ている[11]。辰野は英国留学の経験があり、首都ロンドンのターミナル駅を参考にした可能性もある(以降は歴史・年表を参照のこと)。
1919年(大正8年)3月1日に中央本線が、1925年(大正14年)11月1日に東北本線の電車線(現在の京浜東北線)が、1928年(昭和3年)には同じく東北本線の列車線(現在の宇都宮線)が乗り入れ、翌1929年(昭和4年)12月16日には東側に八重洲橋口(現在の八重洲口)が開設する[注 15]など、徐々にターミナル駅としての体裁を整えていった。
1923年(大正12年)には関東大震災で被災したものの大きな被害はなく、1935年(昭和10年)と1940年(昭和15年)の満洲国皇帝の溥儀の来日においては昭和天皇が出迎えに来たほか、チャールズ・チャップリンの東京来訪や、1938年(昭和13年)のヒトラーユーゲントの来日などにおいては東京の玄関口として機能した。
1926年(大正15年)4月25日、東京駅と上野駅で入場券の自動券売機(10銭)が稼働し始めた[12]。
太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)5月25日、アメリカ軍による東京大空襲(山の手大空襲)では丸の内駅舎の降車口に焼夷弾が着弾、大火災を引き起こした。これによりレンガ造の壁やコンクリート製の床など構造体は残ったが、鉄骨造の屋根は焼け落ち、内装も大半が失われた。
同年8月の終戦直後から修復計画を立案し、年末から1947年(昭和22年)にかけて修復工事を行った。3つのドーム部分の外壁は修復したが、安全性に配慮してその他の焼失の著しかった3階部分内外壁は取り除いて2階建てに変更。中央ドームは木造小屋組で元の形に復原し、南北両ドームは丸型から台形に変更。軒蛇腹・パラペットや壁面、柱型、窓枠などは2階建てになっても忠実に復元した。南北ドーム内のホール天井はローマのパンテオンを模したデザインに変更[注 16]、といった内容だった。仮の修復だったが、当時の鉄道省や大林組の努力で日本の中央駅として恥ずかしくないデザインで修復をした逸話が伝えられている[13]。
一方、八重洲口には、1948年(昭和23年)11月16日にモダンデザイン建築の八重洲駅舎が竣工したが、翌1949年(昭和24年)4月29日に失火で焼失。1954年(昭和29年)10月14日に鉄道会館ビルが建てられ大丸が開業した。外堀が埋め立てられて、呉服橋、八重洲橋、鍛冶橋が解体撤去された。
なお、この鉄道会館ビル建設と前後して、丸の内駅舎も更地にして、跡地に24階建ての高層ビルを建設する構想が存在した。ビルのテナントとして外国の領事館や大手商社が入居し、更に丸の内と八重洲の東西を貫通する高速道路を整備するという壮大なプロジェクトであったが、プロジェクトの中心人物であった国鉄総裁の十河信二が1963年(昭和38年)に退任したこともあり、この構想は幻となった[注 17][14]。

1964年(昭和39年)10月1日に東海道新幹線が開業し、1972年(昭和47年)7月15日には総武地下ホーム、1990年(平成2年)3月10日には京葉地下ホームがそれぞれ営業を開始。1991年(平成3年)6月20日には東北新幹線が乗り入れた。
2000年(平成12年)、丸の内駅舎を創建当初の姿に復原する方針がまとめられた。500億円とされた復原工事の費用は、東京駅の容積率を丸の内地区の高層ビルへ移転(売却)することで賄うことになった。復原工事自体は、2007年(平成19年)5月30日に起工[報道 1] され、2012年(平成24年)10月1日に完成した[報道 2]。
2015年(平成27年)、上野東京ラインが開業。東北新幹線の東京駅乗り入れに伴い、1983年(昭和58年)以来分断されていた東京駅 - 上野駅間の東北本線の線路が再接続され、東海道本線との直通運転が実現した。
かつて、現在のJR東日本とJR東海の駅は同じ国鉄の駅であったが、1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化を機に、東海道新幹線はJR東海、それ以外はJR東日本の管轄へと分離された。ここでは会社別に解説する。
| JR東日本 東京駅 | |
|---|---|
東北・上越・北陸新幹線ホーム(2021年9月) | |
| とうきょう Tōkyō TYO | |
| 所在地 | 東京都千代田区丸の内一丁目9-1 |
| 所属事業者 | 東日本旅客鉄道(JR東日本) |
| 駅構造 | |
| ホーム |
|
| 乗車人員 -統計年度- | (新幹線)-2024年- 70,323人/日(降車客含まず) (合計)-2024年- 434,564人/日(降車客含まず) |
| 開業年月日 | 1914年(大正3年)12月20日 |
| 乗入路線 16 路線 | |
| 所属路線 | ■東北新幹線 (■山形新幹線・■秋田新幹線・北海道新幹線・上越新幹線・北陸新幹線直通含む) |
| キロ程 | 0.0 km(東京起点) |
(3.6 km)上野► | |
| 所属路線 | ■東海道線[* 2] (上野東京ライン[* 3]) |
| 駅番号 | JT01[報道 3] |
| キロ程 | 0.0 km(東京起点) |
(1.9 km)新橋 JT 02► | |
| 所属路線 | ■宇都宮線[* 2] (上野東京ライン[* 3]) (高崎線・■常磐線直通含む) |
| 駅番号 | JU01[報道 3] |
| キロ程 | 0.0 km(東京起点) |
(3.6 km) 上野 JU 02・JJ 01► | |
| 所属路線 | ■京浜東北線[* 2] |
| 駅番号 | JK26[報道 3] |
| キロ程 | 0.0 km(東京起点) 大宮から30.3 km |
◄JK 27神田 (1.3 km) (0.8 km)有楽町 JK 25► | |
| 所属路線 | ■山手線[* 2] |
| 駅番号 | JY01[報道 3] |
| キロ程 | 0.0 km(東京起点) |
◄JY 02 神田 (1.3 km) (0.8 km) 有楽町 JY 30► | |
| 所属路線 | ■中央線[* 2] |
| 駅番号 | JC01[報道 3] |
| キロ程 | 神田から1.3 km |
(1.3 km) 神田 JC 02► | |
| 所属路線 | ■横須賀線・総武線(快速)[* 2][* 4] |
| 駅番号 | JO19[報道 3] |
| キロ程 | 0.0 km(東京起点) |
◄JO 18 新橋 (1.9 km) (1.2 km)新日本橋 JO 20► | |
| 所属路線 | ■京葉線 (■武蔵野線直通含む) |
| 駅番号 | JE01[報道 3] |
| キロ程 | 0.0 km(東京起点) |
(1.2 km)八丁堀 JE 02► | |
| 備考 | |
| |
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JR東日本の駅は各路線の線路とホームはほぼ南北方向に伸びているが、成田新幹線計画の名残である地下の京葉線ホームのみ他線と遠く離れ[20] ほぼ東西方向に伸びている(後述)。出入口は東西南北に設けられており、西側を丸の内口、東側を八重洲口、北東側を日本橋口、南側を京葉地下出口と称している。
東西の駅舎を連絡する改札内通路は北・中央・南の3本があり、それぞれの通路に対応して丸の内側・八重洲側それぞれの地上に3か所の改札口がある。丸の内中央口は元は皇室専用だったため北口・南口に比べ小さい(現在は別に皇室用の出入口と貴賓室がある)[21]。丸の内側の地下3か所と八重洲中央口の地下にも改札口があり、丸の内側は東京メトロ丸ノ内線や丸ビル・新丸ビル方面へ、八重洲側は八重洲地下街方面へ通じる。
また、丸の内側と八重洲側を改札外でつなぐ北側自由通路(1階・地下1階)があり、南側自由通路(地下1階)は2029年(令和11年)に開通予定である[報道 4]。日本橋口は唯一改札の外から新幹線乗り場に直接入ることができる。
在来線の構内は非常に広い。1階は改札内(駅ナカ)商業施設が充実している。長年、地下1階はコインロッカーが多く商業施設が少なかったが、2007年(平成19年)10月25日にJR東日本の商業施設「グランスタ」がオープンした[報道 5](2020年〈令和2年〉8月3日に「グランスタ東京」としてリニューアル開業[22][報道 6][報道 7][報道 8])。駅コンコースにはJR東日本の管轄エリアも多く、それらの店舗やレストランなどでは電子マネーとして、Suicaおよびこれと相互利用可能な交通系ICカードが利用できる。対して、新幹線の構内はあまり広くなく、商業施設はホーム上にほぼ限られている。
「グランスタ」開業に合わせて、八重洲地下中央口の改札内にある待ち合わせ場所として有名な「銀の鈴」のリニューアル[注 18]が行われ、1階と地下1階を結ぶエスカレーターが新設された。
駅長(兼・常務執行役員)・助役配置の直営駅で、京葉線の八丁堀駅と越中島駅を管理する。新幹線乗換口(中央・南とも。乗換出札窓口・精算所業務を含む)、八重洲北口(出札窓口含む)、丸の内地下北口、京葉地下丸の内口、日本橋口の業務はJR東日本ステーションサービスに委託している。なお、丸の内中央口、丸の内地下南口、京葉地下八重洲口、グランスタ地下北口は終日無人となっている(このうち、丸の内地下南口と京葉地下八重洲口にはお客さまサポートコールシステムが導入されている)[19]。また、丸の内中央口とグランスタ地下北口はICカード専用となっており、丸の内中央口は日中時間帯のみの営業となっている[19]。
以上のように、高架・地上・地下の全ホームで計11面22線のホームがあり、JR東日本の駅では最多のホーム数である。
| 番線 | 路線 | 方向 | 行先 | 備考 |
|---|---|---|---|---|
| 在来線 地上ホーム | ||||
| 1・2 | 下り | 御茶ノ水・新宿・立川方面[24] □特急「あずさ」・「かいじ」 | ||
| 3 | 北行 | 上野・大宮方面[24] | ||
| 4 | 内回り | 上野・池袋方面[24] | ||
| 5 | 外回り | 品川・渋谷方面[24] | ||
| 6 | 南行 | 蒲田・関内方面[24] | ||
| 7・8 | 下り (北行) | 上野・大宮・宇都宮・高崎・水戸方面[24] □常磐線特急「ひたち」・「ときわ」 | 朝・深夜帯は交互発着 それ以外の時間は主に7番線[注 9] | |
| 9・10 | 下り (南行) | 品川・横浜・小田原・熱海・伊東方面[24] □特急「(サフィール)踊り子」「湘南」 □寝台特急「サンライズ出雲・サンライズ瀬戸」 | 当駅始発の一部列車は8番線から発車 | |
| JR東日本 新幹線ホーム | ||||
| 20 - 23 | 下り | 宇都宮・郡山・福島・仙台・盛岡・新青森・新函館北斗方面[25] | ||
| 角館・大曲・秋田方面[25] | ||||
| 福島・山形・新庄方面[25] | ||||
| 高崎・越後湯沢・新潟方面[25] | ||||
| 軽井沢・長野・金沢・敦賀方面[25] | ||||
| 総武地下ホーム | ||||
| 1・2 | 下り | 横浜・鎌倉方面[25] □特急「しおさい」「成田エクスプレス」 | 特急「しおさい」は2番線から発車 | |
| 3・4 | 市川・千葉方面[25] □特急「成田エクスプレス」 | 当駅始発の一部列車は2番線から発車 | ||
| 京葉地下ホーム | ||||
| 1 - 4 | 下り | 舞浜・海浜幕張・蘇我方面[24] □特急「さざなみ」「わかしお」 | ||
| 舞浜・西船橋方面[24] | ||||
| ← 錦糸町・千葉 ・成田空港・ 蘇我 方面 | → 横浜・大船・ 久里浜 方面 | |
| 凡例 出典: * 以下を参考に作成。 ** 祖田圭介、「特集 旅客ターミナル構内配線図鑑」、電気車研究会、『鉄道ピクトリアル』、第60巻1号(通巻第828号) 2010年1月号「【特集】旅客ターミナル」、20頁、「図1-1 東京駅の配線」。 | ||
2025年7月1日現在、在来線全ホームでJR東日本自社管理の発車メロディが使用されている[26]。
| JR東海 東京駅 | |
|---|---|
東海道新幹線ホーム(2021年9月) | |
| とうきょう Tōkyō | |
(6.8 km)品川► | |
| 所在地 | 東京都千代田区丸の内一丁目9-1 |
| 所属事業者 | 東海旅客鉄道(JR東海) |
| 所属路線 | ■東海道新幹線 |
| キロ程 | 0.0 km(東京起点) |
| 駅構造 | 高架駅 |
| ホーム | 3面6線 |
| 乗車人員 -統計年度- | 97,122人/日(降車客含まず) -2024年- |
| 乗降人員 -統計年度- | 194,244人/日 -2024年- |
| 開業年月日 | 1964年(昭和39年)10月1日 |
| 備考 |
|
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JR東海東海道新幹線はJR東日本の新幹線の隣の東側(八重洲寄り)にあり、その部分は自社管理区域となっていて標識のフォーマット、各種宣伝や広告などもJR東海のものが使用されている。
専用改札口は八重洲改札と、JR東日本の新幹線と並んで設置されている日本橋改札他全部で5か所がある。丸の内側からはJR東日本の在来線改札内経由(中間改札)で改札内に入れる。八重洲口を含めた出口・駅舎はJR東日本の所有のものを共同使用する形となっている。また一部の改札口には自動改札機が設置されていない。東海道新幹線とJR東日本の新幹線とを直接繋ぐ乗換口もあるが、JR他社同士で直通列車がなく、システムが統一されていないためICカード(EX-IC、Suicaなど)は利用できない(在来線乗換口を2度経由すれば利用可能)。
新幹線南乗換口の出改札業務、中央乗換口の出札業務は新幹線メンテナンス東海に委託している。
商業施設はホーム上にほぼ限られているが、2006年(平成18年)2月22日のJR東海社長の定例会見で「新幹線改札口を5か所から6か所に増やす」「内装や外装を全面的にリニューアルする」などの旨を明らかにし、2012年(平成24年)1月に完工、2月25日より「八重洲南口改札」として開設した。また、同時に「八重洲中央口改札」の名称が「八重洲中央北口改札」に変更された[報道 10]。
ホームの中央にエレベーターが1台設置されている。
14番 - 19番の全ホームにおいて、かつて起終点時のみ流れた「のぞみチャイム」を発車メロディとして使用している。
島式3面6線の高架ホーム。このうち14番線は23番線のすぐ東にある。14・15番線は神田寄りが丸の内側へ湾曲しているが、これは後述するホームの変遷表でもわかるように、14・15番線は、かつて東海道本線のホームとして使用されていたためであり、在来線ホーム時代は、一部特急など、東北本線方面への旅客列車も乗り入れていた。前述したが、コンコースでは改良工事が行われている。
東海道新幹線開業にあたり、14・15番線は東海道新幹線ホームに転用されることとなったが、旧来の構造を活かし、将来的には東北新幹線との共用使用や、東北新幹線との直通運転も想定されていたとされる[新聞 4]。
0キロポストの他、記念モニュメントも複数ある。18・19番線の8号車乗車位置付近のホーム中央床面には起点と方位を示すレリーフが、同ホーム南端には十河信二のレリーフと座右の銘「一花開天下春」があしらわれた建設碑が、同ホームの下、中央乗換口(新幹線改札内)の東端壁面には「東海道新幹線 この鉄道は日本国民の叡智と努力によって完成された」と記された銘版がある。
| 番線 | 路線 | 行先 |
|---|---|---|
| 14 - 19 | 新大阪・博多方面[27] |
| 東京メトロ 東京駅 | |
|---|---|
中央改札口(2021年10月) | |
| とうきょう Tokyo | |
◄M 16銀座 (1.1 km) (0.6 km)大手町 M 18► | |
| 所在地 | 東京都千代田区丸の内一丁目6-5 |
| 駅番号 | M17[28] |
| 所属事業者 | 東京地下鉄(東京メトロ) |
| 所属路線 | ●[28]丸ノ内線 |
| キロ程 | 8.7 km(池袋起点) |
| 駅構造 | 地下駅 |
| ホーム | 1面2線 |
| 乗降人員 -統計年度- | [メ 1]199,232人/日 -2024年- |
| 開業年月日 | 1956年(昭和31年)7月20日 |
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丸の内側に位置する島式ホーム1面2線を有する地下駅で、比較的地下浅い所にある。八重洲側へは、JRの北側自由通路を通るのが既存の最短ルートであるが、八重洲南口方面へは同ルートはやや迂回する形の経路となる。1990年(平成2年)12月15日に本格的な自動改札機を導入した[29]。1993年(平成5年)11月には、御茶ノ水駅から定期券売り場が移転したが、2021年(令和3年)2月11日をもって閉鎖された[30]。
2008年(平成20年)春に、ホームの側壁に女子美術大学の非常勤講師2名によるデザインのアートウォール「自由に走る丸ノ内線」が設置された。コンセプトは「歴史と自然とトレンドの融合」で、営団500形電車で使われていた銀色のサインウェーブを下部に再現するとともに自由に飛ぶ鳥を随所に設置した。
当駅は「東京地域」として駅を管理しているが、駅務管区所在駅は当駅ではなく後楽園駅である[31]。
| 番線 | 路線 | 行先 |
|---|---|---|
| 1 | 荻窪・方南町方面[32][33] | |
| 2 | 池袋方面[32][33] |
ワンマン運転開始に伴い、スイッチ制作の発車メロディ(発車サイン音)が導入されている。
曲は1番線が『らくらく乗降』(串田亨作曲)、2番線が『夢心地』(福嶋尚哉作曲)である[34]。
| 節内の全座標を示した地図 -OSM |
|---|
| 出口名称 | 位置 | 接続改札 | 備考 |
|---|---|---|---|
| M1 | 北緯35度40分50.2秒 東経139度45分55.0秒 | 中央改札 | |
| M2 | 北緯35度40分49.8秒 東経139度45分52.2秒 | ||
| M3 | ビル直結 | ||
| M4 | 北緯35度40分53.2秒 東経139度45分51.4秒 | エレベーターあり | |
| M5 | 東京メトロ千代田線二重橋前駅へ | ||
| M6 | |||
| M7 | 北緯35度40分55.2秒 東経139度45分52.0秒 | ||
| M8 | 北緯35度40分57.4秒 東経139度45分54.9秒 | 北改札 | |
| M9 | 新丸ビル直結 | ||
| M10 | 北緯35度40分58.8秒 東経139度45分54.8秒 | エレベーターあり 時間制限あり | |
| M11 | JR東京駅内にある | ||
| M12 | |||
| M13 | |||
| M14 |
以下の表は当駅地上ホームの変遷を記したものである。なお、下表に示す以外に工事等によりホームが一時的に撤去されている場合もある。
| 時期 | 第01ホーム | 第1ホーム | 回送線 | 第2ホーム | 第3ホーム | 第4ホーム | 第5ホーム | 回送線 | 第6ホーム | 第7ホーム | 回送線 | 第8ホーム | 第9ホーム |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1914年 12月20日 - | 未設置 | 1・2番線 ■電車線(山手線) | ■回送線 | 3・4番線 ■電車線(京浜線) | 5・6番線 ■列車線 | 7・8番線 ■列車線 | 未設置 | 未設置 | 未設置 | 未設置 | 未設置 | 未設置 | 未設置 |
| 1919年 3月1日 - | 1・2番線 ■中央本線 ■山手線 | ||||||||||||
| 1925年 4月26日 - | 1・2番線 ■中央本線 | 3・4番線 ■京浜線 ■山手線 | 5・6番線 ■東海道本線到着 ■横須賀線発着 | 7・8番線 ■東海道本線出発 | |||||||||
| 1942年 9月25日 - | 7・8番線 ■東海道本線 | 9・10番線 ■東海道本線 | 11・12番線 ■回送線 | ||||||||||
| 1953年 7月1日 - | 9番線 ■東海道本線 10番線 使用停止 | 11・12番線 使用停止 | 14・15番線 ■東海道本線 | 16番線 ■回送線 | |||||||||
| 1953年 9月1日 - | 5・6番線 ■東海道本線 | 7・8番線 使用停止 | 9番線 使用停止 10番線 ■東海道本線 | 11番線 ■回送線 | 12番線 ■東海道本線 (湘南電車) 13番線 ■横須賀線 | ||||||||
| 1953年 11月1日 - | 5・6番線 使用停止 | 9・10番線 ■東海道本線 | |||||||||||
| 1954年 3月30日 - | 3番線 ■京浜東北線北行 ■山手線内回り 4番線 使用停止 | 5番線 使用停止 6番線 ■京浜東北線南行 ■山手線外回り | |||||||||||
| 1954年 4月15日 - | 7番線 ■常磐線 8番線 使用停止 | ||||||||||||
| 1956年 5月4日 - | 5番線 ■京浜東北線南行 ■山手線外回り 6番線 使用停止 | ||||||||||||
| 1956年 11月19日 - | 3番線 ■京浜東北線北行 4番線 ■山手線内回り | 5番線 ■山手線外回り 6番線 ■京浜東北線南行 | 7番線 ■東海道本線 ■東北・高崎・常磐線 8番線 ■東海道本線 | ||||||||||
| 1957年 7月14日 - | 廃止 | ||||||||||||
| 1961年 10月1日 - | 7番線 ■東海道本線 ■東北・高崎・常磐線 8番線 ■東海道本線 (湘南電車) | 12番線 ■東海道本線 13番線 ■横須賀線 | |||||||||||
| 1964年 10月1日 - | 17番線 ■東海道新幹線 | 18・19番線 ■東海道新幹線 | |||||||||||
| 1965年 10月?日 - | 廃止 | ||||||||||||
| 1967年 3月10日 - | 16・17番線 ■東海道新幹線 | ||||||||||||
| 1972年 3月15日 - | 16・17番線 ■東海道・ 山陽新幹線 | 18・19番線 ■東海道・ 山陽新幹線 | |||||||||||
| 1973年 4月1日 - | 7・8番線 ■東海道本線 (湘南電車) | 9・10番線 ■横須賀線 | 12・13番線 ■東海道本線 | 廃止 | |||||||||
| 1975年 7月18日 - | 15番線 ■東海道・ 山陽新幹線 | ||||||||||||
| 1979年 12月1日 - | 14・15番線 ■東海道・ 山陽新幹線 | ||||||||||||
| 1980年 10月1日 - | 7・8番線 ■東海道本線 | 9・10番線 ■東海道本線 | 12番線■東海道本線 13番線 廃止 | ||||||||||
| 1988年 3月13日 - | 廃止 | 廃止 | |||||||||||
| 1991年 6月20日 - | 12・13番線 ■東北・上越新幹線 | ||||||||||||
| 1992年 7月1日 - | 12・13番線 ■東北・山形・ 上越新幹線 | ||||||||||||
| 1992年 10月4日 - | 7番線 ■東海道本線 8番線 使用停止 | ||||||||||||
| 1993年 7月4日 - | 7番線 ■東海道本線 8番線(仮設) ■東海道本線 | 9番線 使用停止 10番線 ■東海道本線 | |||||||||||
| 1994年 4月10日 - | 9番線(仮設) ■東海道本線 10番線 廃止 | ||||||||||||
| 1995年 7月2日 - | 1・2番線 ■中央本線 | 旧1・2番線 使用停止 | |||||||||||
| 1995年 10月29日 - | 3番線 ■京浜東北線北行 旧2番線 使用停止 | 旧3番線 使用停止 4番線 ■山手線内回り | |||||||||||
| 1995年 11月5日 - | 3番線 ■京浜東北線北行 4番線 ■山手線内回り | 旧3・4番線 使用停止 | |||||||||||
| 1995年 12月17日 - | 5番線 ■山手線外回り 旧4番線 使用停止 | 旧5番線 使用停止 6番線 ■京浜東北線南行 | |||||||||||
| 1995年 12月24日 - | 5番線 ■山手線外回り 6番線 ■京浜東北線南行 | 旧5・6番線 使用停止 | |||||||||||
| 1996年 6月23日 - | 7・8番線 ■東海道本線 | 9番線 ■東海道本線 10番線(仮設) 使用停止 | 廃止 | ||||||||||
| 1997年 3月1日 - | 9番線 使用停止 10番線 ■東海道本線 | ||||||||||||
| 1997年 9月7日 - | 9・10番線 ■東海道本線 | ||||||||||||
| 1997年 10月1日 - | 20・21番線 ■上越・長野新幹線 | 22・23番線 ■東北・山形・秋田新幹線 | |||||||||||
| 2005年 12月10日 - | 20・21番線 ■東北・山形・秋田・ 上越・長野新幹線 | 22・23番線 ■東北・山形・秋田・ 上越・長野新幹線 | |||||||||||
| 2015年 3月14日 - | 7・8番線 ■上野東京ライン (■宇都宮・■高崎・■■常磐線) ■東海道本線 (一部列車) | 20・21番線 ■東北・山形・秋田・ 上越・北陸(長野経由)新幹線 | 22・23番線 ■東北・山形・秋田・ 上越・北陸(長野経由)新幹線 | ||||||||||
| 2016年 3月26日 - | 20・21番線 ■東北・山形・秋田・北海道 上越・北陸新幹線 | 22・23番線 ■東北・山形・秋田・北海道 上越・北陸新幹線 |
なお、現在のJRのホーム数合計は14面28線となり、単一の駅としてのホーム数では日本一である。
この節に雑多な内容が羅列されています。 事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文として組み入れるか、または整理・除去する必要があります。(2011年11月) |
当駅は元々海に近いこともあり地下水位が相対的に高く、地下水上昇によるホームの浮上問題にさらされている。特に地下総武線ホームは、丸の内側ロータリー直下にあり、上に建物などの構造物がない(地下水浮力による地下駅部分の浮き上がりを押さえ付けるおもりがない)という構造上の条件から、特に浮上の影響が顕著である。かつての相次ぐ地盤沈下により地下水の汲み上げが条例により禁止されており、このことも地下水位上昇の理由となっている。地下総武ホームではホームが地下5階なのに対し、地下水は地下3階付近まで達している。1999年(平成11年)9月には、浮上防止策として、ホーム階に鉄製おもりを置いたり、アンカーを打ち込む工事が行われた。その後2002年(平成14年)7月より、当駅から品川区の立会川まで全長12 kmに及ぶ導水管が敷設されている。湧出地下水をそのまま下水に流すと下水道料金が課金されるため、支払料金を軽減したいJR東日本と、典型的都市型中小河川で通常は水量が少なく悪臭などを発生する立会川の問題を解決したい東京都の思惑が一致した[新聞 5]。東京駅から立会川上流部までの導水管建設費用をJRが負担する代わりに、湧出地下水を立会川に放水することで下水道料金負担がなくなり、結果として水量の増加と悪臭の発生防止が図れるという仕組みであり[注 19][35]、副次的効果として2003年(平成15年)、海で孵化したボラの稚魚の大群が立会川に現れている[36]。

JR東日本などが主体となって赤レンガ駅舎の復原[注 20]などを内容とした当駅周辺と駅ナカの大規模な再開発事業が行われている。
この第1弾として2007年(平成19年)3月8日に日本橋口に超高層ビル「サピアタワー」が竣工した[報道 12]。これと同時に一連の再開発地区が「Tokyo Station City(東京ステーションシティ)」と命名[報道 13][報道 14] され、キャッチフレーズは「東京駅が、街になる。」に決まった。同年4月には丸の内口の行幸通り地下に「行幸地下通路」が整備され、10月25日には東京駅改札内地下1階に株式会社鉄道会館(現JR東日本クロスステーション)が運営する改札内商業施設「グランスタ」がオープンした[報道 5][報道 15]。さらに、同年10月31日には、八重洲口にある大丸などが入居していた1954年(昭和29年)竣工の鉄道会館ビルが閉鎖され、11月6日に超高層ツインタワービル「グラントウキョウ」が竣工した[報道 16]。グラントウキョウノースタワー(国際観光会館ビルの跡地に建設)に大丸が移転し、グラントウキョウサウスタワーの地下に飲食店街「グランアージュ」が整備された[報道 16][報道 17]。また、八重洲地下街からグラントウキョウサウスタワーとパシフィック・センチュリー・プレイスの地下を経由して京葉線地下改札に至る連続した地下連絡通路が整備された。その後「グランスタ」は2012年(平成24年)6月28日に丸の内側[報道 18]、同年7月に弁当・惣菜エリア[報道 19]、2019年(平成31年)4月にスイーツ・雑貨エリア[報道 20] のリニューアルが行われた。さらに、2014年(平成26年)3月19日には、八重洲北口にある「グラングルメ」に併設されている飲食店ゾーン「北町ほろよい通り」が「北町ダイニング」へと名称変更した上でリニューアルされた[報道 21]。
2010年(平成22年)3月28日には、駅改札内1階にあった改札内商業施設の「Dila東京メディアコート」の跡地が「South Court(サウスコート)」としてリニューアルされ[報道 22]、JR東日本ステーションリテイリングが運営する「エキュート東京」がオープン し[報道 23]、同年4月12日には赤レンガ駅舎から皇居まで一直線に続く行幸通りが再整備された上で開通した。さらに同年12月4日には、駅改札内1階にあった改札内商業施設の「Dila東京ダイニングコート」の跡地が「North Court(ノースコート)」としてリニューアルされ[報道 24]、鉄道会館が運営する「グランスタ ダイニング」がオープンした[報道 25]。
鉄道会館ビルが解体された後の2012年(平成24年)8月にグラントウキョウノースタワー第2期工事が竣工、2013年(平成25年)9月20日にグラントウキョウの2棟を結ぶペデストリアンデッキ「グランルーフ」が竣工[報道 26][報道 27][報道 28]、同年12月11日に八重洲口駅前広場のバスターミナルが竣工、2014年(平成26年)秋に八重洲口駅前広場の全体工事が竣工した[報道 26]。八重洲通りの突き当たりに、壁になる形で存在していた鉄道会館ビルが解体されたことにより、東京湾側から皇居側へ向かう海風が通り抜けやすくなり、ヒートアイランド現象の改善が期待されている。なお、「グランルーフ」の開業に併せて、八重洲地下1階より「グランルーフ」へと接続する「キラピカ通り」も2013年(平成25年)10月1日にリニューアルされ、名称も「グランルーフ フロント」へと変更された[報道 27][報道 28]。
丸の内口側においては、2007年(平成19年)から2012年(平成24年)まで赤レンガ駅舎の復原工事が行われた(#赤レンガ駅舎の復原)。この復原工事の完了に伴って、赤レンガ駅舎前にガードレールによる仮設の交通広場が設けられたが、2015年(平成27年)冬までに丸の内南口前の交通広場の再整備を行い[報道 29]、2017年(平成29年)5月末に丸の内中央口前の「丸の内中央広場」を完成させ、同年12月7日に丸の内北口前の交通広場を含めた丸の内駅前広場全体の再整備を完了させ供用を開始した[報道 30][新聞 6]。また、2014年2月までに駅前広場にある横須賀・総武線地下ホーム用の換気塔を高さ13 mから4 mまで切り下げると同時にデザインを変更し、駅前景観を改善させた[報道 31]。
さらに、2014年(平成26年)末までに丸の内地下エリアに地下南口待合広場を整備した[報道 32]。これと並行して改札外商業施設「グランスタ丸の内」の開業および「グランスタ」の増床に関する事業が行われ[報道 33]、2016年(平成28年)7月27日に第1期[報道 34]、2017年(平成29年)4月27日に第2期[報道 35][報道 36]、同年6月28日に第3期が開業[報道 37][報道 38] し、同年8月30日にグランドオープンした[報道 39][報道 40] ことで、丸の内地下エリアの全体的な再開発を完了させた。この再整備により、丸の内地下エリアの内装デザインが「格調高く賑わいのある」ものへ一新され、地下中央口から東京メトロ丸ノ内線に繋がるコンコースが拡幅され、店舗や飲食店、トイレや改札、コインロッカーが再配置された。
また、2012年(平成24年)から、丸の内北口と八重洲北口を繋ぐ駅構内1階の北通路の拡幅工事と周辺の商業施設の再整備と、その直下の地下1階に開業する新たな商業施設と待合広場の再整備と、両階を吹き抜け空間で接続する工事を行っている[報道 41]。2020年(令和2年)8月3日に待合広場の名称を「スクエア ゼロ」、旧グランスタと旧グランスタダイニングを含めた改札内商業施設の名称を「グランスタ東京」とし、北通路の拡幅および北地下自由通路に直結する「グランスタ地下北口」改札(ICカード専用[報道 7])が供用開始されている[注 21][報道 6][報道 7][報道 8]。なお、先行して、2018年(平成30年)1月18日と2月6日にかけて3店舗[報道 44][報道 45]、2019年(令和元年)7月10日に3店舗[報道 46]が開業している。
2022年(令和4年)4月から、八重洲北口改札外に飲食店街「グランスタ八重北(ヤエキタ)」が順次開業している。ヤエキタは2005年(平成17年)に開業した「グラングルメ」が改装されたものであり、地下1階「黒塀横丁」、1階「八重北食堂」、2階「北町酒場」の45店から成る[報道 47]。
2022年(令和4年)3月に、八重洲側と丸の内側の地下1階を結ぶ全長290メートル、幅8メートルの「東京駅南部東西自由通路」の工事に着手した。完成は2029年(令和11年)ごろである[報道 4]。
かつての丸の内側の赤レンガ本駅舎は1945年(昭和20年)5月25日のアメリカ軍による空襲(東京大空襲)により炎上、内装と屋根を焼失した。戦災復興工事によって、失われたドーム屋根にかわって木造8角形の屋根が載せられ、内部は3階の窓の開口部は保持されたが、残存したアーチなどのレリーフは新設されたローマのパンテオン風の意匠によるジュラルミン製のドームによって隠された。終戦後の1947年(昭和22年)、開業当初の状態より一回り規模を縮小して修復された。GHQの体制下応急処置的に工事が行われ、屋根の小屋組については復員してきた海軍の技師が5年もてばよいということで、薄い木材のトラス造りで応急的に工事をしたという[37]。一方、実際に工事にあたった関係者は、あくまで国鉄内部の技術者が修理したのであって旧海軍の技術者が関わったという説は何の根拠もないと主張している[38]。この復旧された駅舎は、応急復旧のままで60年余りが過ぎることになった。旧・日本国有鉄道(国鉄)は戦後度々赤レンガ駅舎の建て替え構想[14]を出しては延期しており、1987年(昭和62年)4月1日の分割民営化の時には当駅全体の土地の3分割を伴った再開発構想が提案され、赤レンガ駅舎の建て替え高層化か保全をするかが本格的に課題となった。これに対して、「赤レンガの東京駅を愛する市民の会」などによる赤レンガ駅舎保存の市民運動が起こった。
1988年(昭和63年)、政府は学識者の委員会による東京駅周辺地区再開発構想を取りまとめ、赤レンガ駅舎の現在地での形態保全の方針を決定し、JR東日本などの検討により1999年(平成11年)、本来の形態に復原することとなった[注 22]。また、2003年(平成15年)4月18日には国指定の重要文化財に指定された。
復原工事に先立って2006年(平成18年)3月17日 -31日に丸の内駅舎内で「東京駅ルネッサンス」が開催され[報道 48]、2007年(平成19年)5月30日より、鹿島・清水・鉄建 建設共同企業体が担当となって、駅舎を本来の姿に近い形態に復原する[注 20]工事が開始された[報道 1]。この工事では、鉄骨鉄筋コンクリート壁で躯体を増築して建築当初の3階建てに戻した上で、外壁、尖塔、南北両ドームの内外の意匠も再現し、新たに地下1・2階を増築し免震装置を設置した。免震装置には地上部分と地下部分との間に免震ゴムとオイルダンパーを設置した。
3階の外壁は、創建当初と同じ仕様の厚さ15 mmの化粧煉瓦を貼った外壁に復原した。戦後の修復で2階に移されていたイオニア式柱頭も当初の3階に移設し、支柱の形状も創建時のものに戻した。失われていた花崗岩の柱頭飾り、銅の高欄はモックアップを用いてディテールや施行方法を検証し、創建当時の意匠に復原した。2階以下は既存の構造煉瓦と同じ厚さ15 mmと45 mmの化粧煉瓦を貼った(下駄っ歯積み)。線路側はコンコース側の壁を撤去し、トップライトから採り入れる自然光で復原された丸の内駅舎を見ることが出来るようにした。
ドーム内部の保存と復原の基本方針は部位によって異なり、3階以上の壁面と天井面は、干支や2メートルを超える大きさのワシの彫刻やレリーフが存在した創建時の意匠を忠実に再現し、1階と2階は、3階以上の部分と調和を図りながらも機能性に優れた新しいデザインとした。3階張出部を支えていた装飾付きの鉄骨支柱は、RCで補強され円柱にかわったために、全体としては機能的な装飾のない意匠となった。ドームに施されたレリーフは南北のドームで全く同じである。
工事による一時解体に伴い、それまで使用していた雄勝石の屋根材65,000枚は産地でもある宮城県石巻市雄勝町の業者に送られて、選別・清掃・補修した上で倉庫に保管されていた[新聞 8] が、東日本大震災による津波で塩害を蒙った[新聞 9][41]。このため、使用可能と判断された45,000枚のみが復原駅舎でも再利用され、不足した2万枚はスペイン産のスレートで補われた。なお、工事全体では約457,000枚のスレートが必要とされていたため、再利用分を除いた残りのうち15,000枚は石巻市の業者が製作したものを使用し、残りはスペイン産で補う計画であったが[42]、この業者の工場も津波によって壊滅し、出荷前の天然石スレートも津波に流された。震災後、流されたスレートは回収・洗浄・検品され、使用可能な7000枚が東京に送られた。
ドーム部分の屋根は、建設当時の銅板葺きに戻され、0.4 mmの銅板が合計1トン使用された。時計下の外壁レリーフは2メートル四方の銅板3枚を使って叩き出されたものを使用した。線路側の中央部の屋根はガラス化して、屋根裏をホテルのゲストラウンジにした。外観はどうなっていたかはわかるにしても裏側がどうなっていたかがなかなかわからなかったが、幸いにも写真が見つかり、細部はコンピューター処理で解析をした。復原に際しては屋根裏に残されていたものを一部再利用している(長らく屋根裏に高熱で曲がった鉄骨まで残されていた)。
外壁の花崗岩は、中央部御車寄せ周りと1階腰石が北木産花崗岩(北木石)で、その他は全て稲田産花崗岩である。保存・復原工事に際しては、広場側復原部には稲田産花崗岩、線路側は中国産花崗岩をそれぞれ使用したが、国内では職人の数も減り、丸の内駅舎の全ての花崗岩を加工することは難しいことから、中国での加工とした。稲田産花崗岩は日本で切り出し、中国へ運び、中国で加工のうえ、日本へ戻し丸の内駅舎へ取り付けた[43]。タイルレンガの目地には覆輪目地が施工されているが、既に失われた施工方法となっており、職人が3か月間の試行錯誤で、技術と道具を復活させて再現している。
窓枠には全て三協立山製のサッシが採用された。新しい窓枠はアルミニウムにフッ素樹脂塗装されたものであるが、大正時代には木製建具が主流であったことから、過去の文献の調査だけでなく辰野金吾が設計した岩手銀行中ノ橋支店を視察するなど試行錯誤の末、色合いを木の風合いにできる限り近づけた「東京駅専用ビル用サッシ」を新たに開発した。また窓の装飾に使われるアルミ製鋳物も三協立山が手掛けた[44]。
2012年(平成24年)6月10日に、復原された駅舎の一部(1階部分)が再開業し、同年10月1日に全面再開業した[報道 2]。また、復原工事に伴って2006年(平成18年)4月から営業を休止していた駅舎内の「東京ステーションギャラリー」(東日本鉄道文化財団運営)も全面再開業と同日に拡大再開業し、翌々日の3日には「東京ステーションホテル」も規模を拡大して再開業した[報道 2]。地下には新規にレストランが開業した。
さらに、丸の内駅舎の復原工事に併せて、改札内1階に商業施設「Central Street(セントラルストリート)」を開業する工事が行われた[報道 49]。同年8月9日に2店舗が先行開業[報道 50] し、同年10月1日にグランドオープンした[報道 51]。
復原工事費用(約500億円と新聞などで伝えられている)はJR東日本などが「空中権の売買」を行って捻出した(詳細は「特例容積率適用区域制度」参照)。

| 免許人 | 局名 | 識別信号 | 物理チャンネル | 周波数 | 空中線電力 | ERP | 業務区域 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 東日本旅客鉄道株式会社 | JR東日本東京駅エリア放送 | JOXZ3BJ-AREA | 35ch | 623.142857 MHz | 760 μW | 750 μW | 地下一階グランスタエリア 京葉線地下一階コンコース |

当駅では多数の駅弁が販売されている。主な駅弁は下記の通り[48]。
このほか、JR東日本クロスステーション(旧NRE)が運営する売店「駅弁屋 踊」「駅弁屋 祭」ではJR東日本管内の主な駅弁も当駅で購入できる。また、JR東海管轄の八重洲口や東海道新幹線ホームではJR東海パッセンジャーズの駅弁売店があり、同社独自の駅弁が販売されている。
2024年度(令和5年度)の1日平均乗車人員は434,564人である[JRE 1]。
各年度の推移は以下のとおりである。
| 1日平均乗車人員推移(国鉄) (1910年代 - 1930年代)[府 1] | ||
|---|---|---|
| 年度 | 乗車人員 | 出典 (東京府) |
| 1914年(大正03年) | [※ 1]5,423 | [府 2] |
| 1915年(大正04年) | 5,707 | [府 3] |
| 1916年(大正05年) | 6,561 | [府 4] |
| 1919年(大正08年) | 13,367 | [府 5] |
| 1920年(大正09年) | 17,620 | [府 6] |
| 1922年(大正11年) | 25,976 | [府 7] |
| 1923年(大正12年) | 35,440 | [府 8] |
| 1924年(大正13年) | 43,709 | [府 9] |
| 1925年(大正14年) | 45,399 | [府 10] |
| 1926年(昭和元年) | 50,432 | [府 11] |
| 1927年(昭和02年) | 55,707 | [府 12] |
| 1928年(昭和03年) | 64,321 | [府 13] |
| 1929年(昭和04年) | 68,292 | [府 14] |
| 1930年(昭和05年) | 69,034 | [府 15] |
| 1931年(昭和06年) | 65,572 | [府 16] |
| 1932年(昭和07年) | 63,282 | [府 17] |
| 1933年(昭和08年) | 64,315 | [府 18] |
| 1934年(昭和09年) | 66,082 | [府 19] |
| 1935年(昭和10年) | 68,950 | [府 20] |
| 1日平均乗車人員推移(国鉄/JR東日本)(1953年 - 2000年)[都 1][※ 2] | ||||
|---|---|---|---|---|
| 年度 | 乗車人員 | 順位 | 出典 | |
| JR東日本 | 東京都 | |||
| 1953年(昭和28年) | 207,922 | [都 2] | ||
| 1954年(昭和29年) | 224,318 | [都 3] | ||
| 1955年(昭和30年) | 258,159 | [都 4] | ||
| 1956年(昭和31年) | 275,133 | [都 5] | ||
| 1957年(昭和32年) | 289,150 | [都 6] | ||
| 1958年(昭和33年) | 296,571 | [都 7] | ||
| 1959年(昭和34年) | 307,724 | [都 8] | ||
| 1960年(昭和35年) | 333,563 | [都 9] | ||
| 1961年(昭和36年) | 356,030 | [都 10] | ||
| 1962年(昭和37年) | 377,652 | [都 11] | ||
| 1963年(昭和38年) | 387,634 | [都 12] | ||
| 1964年(昭和39年) | 393,219 | [都 13] | ||
| 1965年(昭和40年) | 396,330 | [都 14] | ||
| 1966年(昭和41年) | 402,597 | [都 15] | ||
| 1967年(昭和42年) | 410,881 | [都 16] | ||
| 1968年(昭和43年) | 401,261 | [都 17] | ||
| 1969年(昭和44年) | 337,051 | [都 18] | ||
| 1970年(昭和45年) | 342,619 | [都 19] | ||
| 1971年(昭和46年) | 352,109 | [都 20] | ||
| 1972年(昭和47年) | 369,134 | [都 21] | ||
| 1973年(昭和48年) | 388,567 | [都 22] | ||
| 1974年(昭和49年) | 395,863 | [都 23] | ||
| 1975年(昭和50年) | 379,623 | [都 24] | ||
| 1976年(昭和51年) | 379,540 | [都 25] | ||
| 1977年(昭和52年) | 365,830 | [都 26] | ||
| 1978年(昭和53年) | 358,871 | [都 27] | ||
| 1979年(昭和54年) | 350,866 | [都 28] | ||
| 1980年(昭和55年) | 341,655 | [都 29] | ||
| 1981年(昭和56年) | 332,575 | [都 30] | ||
| 1982年(昭和57年) | 328,789 | [都 31] | ||
| 1983年(昭和58年) | 329,910 | [都 32] | ||
| 1984年(昭和59年) | 338,282 | [都 33] | ||
| 1985年(昭和60年) | 329,677 | [都 34] | ||
| 1986年(昭和61年) | 337,219 | [都 35] | ||
| 1987年(昭和62年) | 328,423 | [都 36] | ||
| 1988年(昭和63年) | 352,416 | [都 37] | ||
| 1989年(平成元年) | 367,611 | [都 38] | ||
| 1990年(平成02年) | 394,055 | [都 39] | ||
| 1991年(平成03年) | 418,858 | [都 40] | ||
| 1992年(平成04年) | 423,052 | [都 41] | ||
| 1993年(平成05年) | 420,852 | [都 42] | ||
| 1994年(平成06年) | 406,841 | [都 43] | ||
| 1995年(平成07年) | 399,609 | [都 44] | ||
| 1996年(平成08年) | 394,115 | [都 45] | ||
| 1997年(平成09年) | 386,534 | [都 46] | ||
| 1998年(平成10年) | 382,129 | [都 47] | ||
| 1999年(平成11年) | 376,960 | 5位 | [JRE 2] | [都 48] |
| 2000年(平成12年) | 372,611 | 5位 | [JRE 3] | [都 49] |
| 1日平均乗車人員推移(JR東日本)(2001年度以降)[※ 2] | |||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 年度 | 計 | 新幹線 | 出典 | ||||||||
| 定期外 | 定期 | 合計 | 前年度比 | 順位 | 定期外 | 定期 | 合計 | 前年度比 | JR東日本 | 東京都 | |
| 2001年(平成13年) | 368,967 | 5位 | 非公表 | [JRE 4] | [都 50] | ||||||
| 2002年(平成14年) | 374,922 | 5位 | [JRE 5] | [都 51] | |||||||
| 2003年(平成15年) | 369,025 | 5位 | [JRE 6] | [都 52] | |||||||
| 2004年(平成16年) | 371,113 | 5位 | [JRE 7] | [都 53] | |||||||
| 2005年(平成17年) | 379,350 | 5位 | [JRE 8] | [都 54] | |||||||
| 2006年(平成18年) | 382,242 | 5位 | [JRE 9] | [都 55] | |||||||
| 2007年(平成19年) | 396,152 | 5位 | [JRE 10] | [都 56] | |||||||
| 2008年(平成20年) | 175,420 | 218,714 | 394,135 | 5位 | [JRE 11] | [都 57] | |||||
| 2009年(平成21年) | 169,277 | 214,746 | 384,024 | 5位 | [JRE 12] | [都 58] | |||||
| 2010年(平成22年) | 167,975 | 213,729 | 381,704 | 5位 | [JRE 13] | [都 59] | |||||
| 2011年(平成23年) | 169,363 | 211,634 | 380,997 | 5位 | [JRE 14] | [都 60] | |||||
| 2012年(平成24年) | 189,621 | 212,655 | 402,277 | 4位 | 61,325 | 9,349 | 70,675 | [JRE 15][JRE-S 2] | [都 61] | ||
| 2013年(平成25年) | 196,897 | 219,011 | 415,908 | 3位 | 63,959 | 9,693 | 73,652 | [JRE 16][JRE-S 3] | [都 62] | ||
| 2014年(平成26年) | 198,079 | 219,742 | 417,822 | 3位 | 63,448 | 9,325 | 72,774 | [JRE 17][JRE-S 4] | [都 63] | ||
| 2015年(平成27年) | 207,248 | 227,385 | 434,633 | 3位 | 68,171 | 9,505 | 77,677 | [JRE 18][JRE-S 5] | [都 64] | ||
| 2016年(平成28年) | 209,286 | 230,268 | 439,554 | 1.1% | 3位 | 68,130 | 9,568 | 77,699 | [JRE 19][JRE-S 6] | [都 65] | |
| 2017年(平成29年) | 216,373 | 236,176 | 452,549 | 3.0% | 3位 | 68,980 | 9,637 | 78,618 | [JRE 20][JRE-S 7] | [都 66] | |
| 2018年(平成30年) | 224,973 | 242,191 | 467,165 | 3.2% | 3位 | 70,152 | 9,838 | 79,991 | [JRE 21][JRE-S 8] | [都 67] | |
| 2019年(令和元年) | 214,154 | 248,434 | 462,589 | −1.0% | 3位 | 65,053 | 9,950 | 75,004 | [JRE 22][JRE-S 9] | [都 68] | |
| 2020年(令和02年) | 91,879 | 179,228 | 271,108 | −41.4% | 4位 | 18,849 | 6,124 | 24,973 | −66.7% | [JRE 23][JRE-S 10] | [都 69] |
| 2021年(令和03年) | 124,888 | 157,750 | 282,638 | 4.3% | 4位 | 27,050 | 5,029 | 32,080 | 28.5% | [JRE 24][JRE-S 11] | [都 70] |
| 2022年(令和04年) | 182,209 | 164,449 | 346,658 | 22.7% | 3位 | 45,869 | 5,422 | 51,292 | 59.9% | [JRE 25][JRE-S 12] | [都 71] |
| 2023年(令和05年) | 224,151 | 179,679 | 403,831 | 116.5% | 3位 | 59,040 | 6,016 | 65,056 | 127.2% | [JRE 26][JRE-S 13] | |
| 2024年(令和06年) | 245,908 | 188,655 | 434,564 | 107.6% | 3位 | 63,856 | 6,467 | 70,323 | 107.8% | [JRE 1][JRE-S 1] | |
2023年度(令和5年度)の1日平均乗車人員は95,000人である[JRC 1]。同社の駅では第2位(1位は名古屋駅、3位は新大阪駅)だが、東海道新幹線の単独駅の中では第1位である。最繁忙期には、上記JR東日本ともども当駅を利用する客で混雑する。
2003年度(平成15年度)以降の推移は以下のとおりである。
| 1日平均乗車人員推移(JR東海)[# 1] | |||
|---|---|---|---|
| 年度 | 乗車人員 | 出典 | |
| JR東海 | JR西日本 | ||
| 2003年(平成15年) | 98,227 | [JRC 2] | |
| 2004年(平成16年) | 107,479 | [JRC 3] | |
| 2005年(平成17年) | 92,220 | [JRC 4] | |
| 2006年(平成18年) | 92,205 | [JRC 5] | |
| 2007年(平成19年) | |||
| 2008年(平成20年) | |||
| 2009年(平成21年) | |||
| 2010年(平成22年) | 83,000 | ||
| 2011年(平成23年) | 84,000 | ||
| 2012年(平成24年) | 89,000 | ||
| 2013年(平成25年) | 93,354 | [JRW 1] | |
| 2014年(平成26年) | 93,000 | [JRW 2] | |
| 2015年(平成27年) | 97,000 | [JRW 3] | |
| 2016年(平成28年) | 98,000 | [JRW 4] | |
| 2017年(平成29年) | 101,138 | [JRW 5] | |
| 2018年(平成30年) | 104,451 | [JRW 6] | |
| 2019年(令和元年) | 98,120 | [JRW 7] | |
| 2020年(令和02年) | 33,805 | [JRW 8] | |
| 2021年(令和03年) | 46,858 | [JRC 1] | [JRW 9] |
| 2022年(令和04年) | 78,000 | [JRW 10] | |
| 2023年(令和05年) | 95,000 | ||
2024年度(令和6年度)の1日平均乗降人員は199,232人である[メ 1]。同社の駅の中では新宿駅に次ぐ第8位であり(1位は池袋駅)[メ 2]、丸ノ内線の駅としては銀座駅に次いで5番目に多い。1965年度(昭和40年度)にピークを迎えた後は一度減少するものの、1979年度(昭和54年度)から1992年度(平成4年度)にかけて再び増加した。その後は減少傾向であったが、2001年度(平成13年度)から再度増加傾向にあり、2013年度(平成25年度)の乗降人員は過去最高を記録し、さらに2016年度(平成28年度)には乗降人員が20万人を超えた。
各年度の推移は以下のとおりである。
| 1日平均乗車人員推移(営団)(1956年 - 2000年)[都 1] | ||
|---|---|---|
| 年度 | 乗車人員 | 出典 (東京都) |
| 1956年(昭和31年) | [† 1]22,393 | [都 5] |
| 1957年(昭和32年) | 26,979 | [都 6] |
| 1958年(昭和33年) | 29,656 | [都 7] |
| 1959年(昭和34年) | 39,799 | [都 8] |
| 1960年(昭和35年) | 42,160 | [都 9] |
| 1961年(昭和36年) | 54,301 | [都 10] |
| 1962年(昭和37年) | 64,689 | [都 11] |
| 1963年(昭和38年) | 69,753 | [都 72] |
| 1964年(昭和39年) | 73,563 | [都 13] |
| 1965年(昭和40年) | 74,104 | [都 73] |
| 1966年(昭和41年) | 72,997 | [都 15] |
| 1967年(昭和42年) | 72,813 | [都 74] |
| 1968年(昭和43年) | 70,570 | [都 75] |
| 1969年(昭和44年) | 69,635 | [都 18] |
| 1970年(昭和45年) | 69,132 | [都 19] |
| 1971年(昭和46年) | 67,932 | [都 20] |
| 1972年(昭和47年) | 65,770 | [都 76] |
| 1973年(昭和48年) | 67,523 | [都 77] |
| 1974年(昭和49年) | 66,430 | [都 78] |
| 1975年(昭和50年) | 63,699 | [都 79] |
| 1976年(昭和51年) | 61,792 | [都 80] |
| 1977年(昭和52年) | 62,923 | [都 81] |
| 1978年(昭和53年) | 60,088 | [都 82] |
| 1979年(昭和54年) | 59,956 | [都 83] |
| 1980年(昭和55年) | 60,586 | [都 84] |
| 1981年(昭和56年) | 61,863 | [都 85] |
| 1982年(昭和57年) | 62,104 | [都 86] |
| 1983年(昭和58年) | 63,224 | [都 87] |
| 1984年(昭和59年) | 65,027 | [都 88] |
| 1985年(昭和60年) | 64,244 | [都 89] |
| 1986年(昭和61年) | 65,408 | [都 90] |
| 1987年(昭和62年) | 66,872 | [都 91] |
| 1988年(昭和63年) | 68,742 | [都 92] |
| 1989年(平成元年) | 68,912 | [都 93] |
| 1990年(平成02年) | 73,288 | [都 94] |
| 1991年(平成03年) | 76,041 | [都 95] |
| 1992年(平成04年) | 76,356 | [都 41] |
| 1993年(平成05年) | 76,332 | [都 42] |
| 1994年(平成06年) | 75,227 | [都 43] |
| 1995年(平成07年) | 74,336 | [都 44] |
| 1996年(平成08年) | 73,630 | [都 45] |
| 1997年(平成09年) | 72,107 | [都 96] |
| 1998年(平成10年) | 71,989 | [都 47] |
| 1999年(平成11年) | 69,055 | [都 48] |
| 2000年(平成12年) | 67,351 | [都 97] |
| 1日平均乗車人員・乗降人員推移(営団/東京メトロ) | |||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 年度 | 乗車人員 | 乗降人員 | 出典 | ||||||
| 定期外 | 定期 | 合計 | 増加率 | 順位 | 営団/メトロ | 関東広告 | 東京都 | ||
| 2001年(平成13年) | 66,940 | 136,345 | −3.3% | 13位 | [メ 3] | [都 98] | |||
| 2002年(平成14年) | 67,526 | [49]139,034 | 2.0% | 13位 | [メ 4] | [都 99] | |||
| 2003年(平成15年) | 67,557 | 76,515 | 62,734 | [49]139,249 | 0.2% | 13位 | [メ 5] | [関広 1] | [都 100] |
| 2004年(平成16年) | 67,397 | 73,148 | 63,728 | 136,876 | −1.7% | 13位 | [メ 6] | [関広 2] | [都 101] |
| 2005年(平成17年) | 68,019 | 73,514 | 64,932 | 138,446 | 1.1% | 12位 | [メ 7] | [関広 3] | [都 102] |
| 2006年(平成18年) | 68,677 | 74,698 | 65,788 | 140,486 | 1.5% | 13位 | [メ 8] | [関広 4] | [都 103] |
| 2007年(平成19年) | 74,279 | 80,889 | 69,976 | 150,865 | 7.4% | 14位 | [メ 9] | [関広 5] | [都 104] |
| 2008年(平成20年) | 75,627 | 82,884 | 73,038 | 155,922 | 3.4% | 13位 | [メ 10] | [関広 6] | [都 105] |
| 2009年(平成21年) | 75,307 | 80,640 | 74,686 | 155,326 | −0.4% | 13位 | [メ 11] | [関広 7] | [都 106] |
| 2010年(平成22年) | 75,992 | 80,018 | 75,990 | 156,008 | 0.4% | 13位 | [メ 12] | [関広 8] | [都 107] |
| 2011年(平成23年) | 76,175 | 79,334 | 77,402 | 156,736 | 0.5% | 12位 | [メ 13] | [関広 9] | [都 108] |
| 2012年(平成24年) | 82,233 | 87,466 | 81,686 | 169,152 | 7.9% | 11位 | [メ 14] | [関広 10] | [都 109] |
| 2013年(平成25年) | 87,871 | 93,992 | 87,216 | 181,208 | 7.1% | 10位 | [メ 15] | [関広 11] | [都 110] |
| 2014年(平成26年) | 90,608 | 96,317 | 90,142 | 186,459 | 2.9% | 10位 | [メ 16] | [関広 12] | [都 111] |
| 2015年(平成27年) | 95,970 | 102,027 | 94,660 | 196,687 | 5.5% | 10位 | [メ 17] | [関広 13] | [都 112] |
| 2016年(平成28年) | 99,707 | 104,525 | 99,762 | 204,287 | 3.9% | 10位 | [メ 18] | [関広 14] | [都 113] |
| 2017年(平成29年) | 103,156 | 108,624 | 102,934 | 211,558 | 3.6% | 10位 | [メ 19] | [関広 15] | [都 114] |
| 2018年(平成30年) | 106,463 | 112,221 | 106,054 | 218,275 | 3.2% | 9位 | [メ 20] | [関広 16] | [都 115] |
| 2019年(令和元年) | 105,536 | 109,013 | 107,736 | 216,749 | −0.7% | 9位 | [メ 21] | [関広 17] | [都 116] |
| 2020年(令和02年) | 19,137 | 47,987 | 76,772 | 124,759 | −42.4% | 11位 | [メ 22] | [関広 18] | [都 117] |
| 2021年(令和03年) | 20,252 | 62,035 | 69,002 | 131,037 | 5.0% | 12位 | [メ 23] | [関広 19] | [都 118] |
| 2022年(令和04年) | 23,937 | 87,826 | 74,782 | 162,608 | 24.1% | 9位 | [メ 24] | [関広 20] | [都 119] |
| 2023年(令和05年) | 104,239 | 82,014 | 186,253 | 14.5% | 8位 | [メ 2] | [関広 21] | ||
| 2024年(令和06年) | 199,232 | 7.0% | 8位 | [メ 1] | |||||
丸の内や大手町など当駅周辺は日本最大のビジネス街、中心業務地区(CBD)を形成している。日本屈指の大企業や主要新聞社の本社、メガバンクの本店などが集積している。昼間はサラリーマンで人通りが多いが、夜間は少ないため昼夜間人口比率が非常に高い。東京ステーションシティなどの駅ナカ商業施設は充実しているが、基本的にオフィス街であるため、新宿や渋谷・池袋・銀座などの大規模繁華街に比べると商業施設やアパレル店、飲食店などは少ない。東京駅には地下鉄は東京メトロ丸ノ内線1路線のみであるが、当駅の北西には地下鉄5路線が乗り入れる大手町駅も至近距離に位置しており、利便性が高い。JRの駅を中心とする以下の地下鉄各駅は概ね半径1キロメートル範囲内にあるので、状況によっては徒歩での移動の方が早く到達する場合もある。日本橋や銀座・有楽町(日比谷)などの街も徒歩圏内にある。
八重洲口を中心に複数の高速バスターミナルが点在しており、東京では新宿駅のバスタ新宿に次ぐ高速バスの拠点地域となっている。これらのバスのりばは将来的にバスターミナル東京八重洲へ集約される計画がある。
東京駅改札外の地下街(上記の「再開発事業」参照)は、大手町や銀座などに繋がっており、地上に出ず行き来できる。日経MJ紙によると総延長は約20キロメートルで、1,000軒を超える店舗があり、年間売上高は総計1000億円規模と推計されている[新聞 14]。

東京駅の表玄関である。駅西側の丸の内地区には、丸の内北口(旧称・降車口)、丸の内中央口(同・中央口)、丸の内南口(同・乗車口)がある。これらに面して、歩行者エリアや植栽などの景観を整備する「丸の内駅前広場」建設をJR東日本と東京都が2014年(平成26年)から進めており[報道 29]、2017年(平成29年)12月7日に全面供用開始[報道 30]された。丸の内側は日本を代表する歴史的なビジネス街である。三菱財閥が丸の内を開発してきた歴史を持ち、現在でも主要な三菱グループ企業の本社ビルが多数立地している。2000年代には丸の内ビルディング(丸ビル)、新丸の内ビルディング(新丸ビル)などの複合商業施設のオープンが相次ぎ、観光スポットともなっている。
駅南口に向き合う東京中央郵便局は、日本を代表する郵便局。再開発で一時移転しており、元の敷地に建てられたJPタワー低層階に、旧郵便局の外観を再現する形で再開している。鉄道郵便輸送が日本の郵便を支えていた時代には当駅と同局の間に建設された地下通路を使って多くの郵便物が輸送された。この扱いは1978年(昭和53年)に終了したが、その後も駅構内部分の地下通路は車椅子利用者などのために利用されている。
かつては日本国有鉄道本社ビル(1997年〈平成9年〉までは東日本旅客鉄道株式会社本社ビル)もあり、全国に鉄道網を張り巡らせた国鉄(建造当時は鉄道省)のシンボルとなっていた。国鉄分割民営化に伴う長期債務返済のために売却された後、交通公社ビルヂングなどの敷地と合わせて一体的に整備され、オフィスビルおよび複合商業施設の丸の内オアゾが開業している[50]。
丸の内中央口から皇居に向かって行幸通りと行幸地下通路が伸びていて、丸の内中央口からも皇居が見える。
クリスマスから元日までのシーズンには「東京ミレナリオ」のイルミネーションが有楽町駅方面まで点灯されていたが、丸の内口工事のため2005年(平成17年)末の点灯をもって終了し、現在はこれに類似したイベント「東京ミチテラス」が開催されている。また、クリスマスシーズンには丸の内仲通りでは大手町から有楽町方面にかけてシャンパンゴールドのライトアップが開催される。
京葉地下丸の内口からJR有楽町駅、千代田線二重橋前駅、有楽町線有楽町駅(東京国際フォーラム経由)、都営三田線・日比谷線日比谷駅(東京国際フォーラム・地下鉄有楽町駅経由)は比較的近接しており、大手町から丸の内を経て有楽町に至る一帯は「大丸有」と総称されることもある。

主要企業が軒を連ねる京橋・日本橋の玄関口で、外堀通りに面する八重洲口から一直線に伸びる八重洲通りは1964年(昭和39年)の東京オリンピックを機とする建設ラッシュにより有数のオフィス街が形成されている[51]。東京駅東側に隣接するエリアの住所は千代田区丸の内であるが、一般的に東京駅八重洲口・日本橋口に隣接するエリア全体を「八重洲」と呼ぶことが多い。2007年(平成19年)11月の大丸東京店の全面リニューアル[報道 16]、2008年(平成20年)3月の東京キャラクターストリート開業[報道 62]などにより商業スポットとしても注目されるようになった。
駅に隣接して東京キャラクターストリートや東京ラーメンストリートなどの区画を有する東京駅一番街、キッチンストリートなどの区画を有する「グラングルメ」(北口)、大丸東京店(北口、グラントウキョウノースタワー内)などの駅ナカまたは駅直結の商業施設がある。その外側に、グラントウキョウの2棟のタワーの間にペデストリアンデッキや商業施設などの機能を持つ「グランルーフ」と駅前広場がある[報道 26]。八重洲口エリアは地下街が発達しており、駅に隣接する商業施設の地下部分から外堀通り・八重洲通りの地下に八重洲地下街が広がっている。
八重洲口には、南口の駅前広場内に併設されたJRバスのハイウェイバスのりばをはじめとして、周辺に複数の高速バスの発着拠点が存在する(「東京駅のバス乗り場」を参照)。八重洲南口には、東京ステーションインターナショナルクリニック(Tokyo Station International Clinic)もあり、トラベル外来、ワクチンセンター、クイック検診などを行っている[52]。
JRの駅の北側にあり、丸の内中央ビルの1階部分がゲートになっている。永代通りに面している。正面ロータリーは長距離路線バスの降車場となっており、その先、永代通りの地下は東京メトロ東西線の大手町駅となっている。日本橋口には東京ステーションシティの開発第1弾としてサピアタワー(地上35階・地下4階)が2007年(平成19年)3月8日に竣工した[報道 12]。
駅の南側、鍛冶橋通りの道路両側にあり、京葉線が近く、JR有楽町駅(京橋口など)から専用の案内書で乗換えも可能。
蒸気機関車の時代から、当駅の駅長は毎朝9時に発車する特急列車を見送る慣例があった。東海道新幹線の開業後は同じく9時発の「ひかり」を見送っていたが、国鉄分割民営化後は在来線、東北・上越・北陸新幹線がJR東日本、東海道新幹線がJR東海の管轄となったため、JR東日本の駅長は在来線の「踊り子」(2010年〈平成22年〉12月4日改正のダイヤでは伊豆急下田・修善寺行「踊り子105号」)の発車を見送っている。
2022年(令和4年)10月時点、JR東日本の東京駅長は常務執行役員である[新聞 15]。以前は取締役であり、現場職としては唯一の取締役であった。「東京駅長」と言えば、国鉄時代には「現場の最高職」と言われ、駅員や運転士、機関士達の憧れの地位だった。民営化されJRとなり、当駅はJR東日本とJR東海の2人の駅長が置かれることになった[注 38]。前者に関しては「現場の最高職」という慣習が残っており、後者も慣習は関係ないが、2008年(平成20年)7月時点の駅長は執行役員であった。2018年(平成30年)時点ではJR東海の東京駅長は役員ではない。
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| 注1:現在の対象駅は羽田空港第1・第2ターミナル及び羽田空港第1ターミナル 注2:現在廃止 | |
土木学会デザイン賞 | |||||||||
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