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李逢吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

李 逢吉(り ほうきつ、758年 -835年)は、唐代官僚政治家は虚舟[1][2]本貫隴西郡狄道県

経歴

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明経に挙げられ、進士に及第した。振武軍節度使の范希朝の下で振武軍節度掌書記を初任とした。入朝して左拾遺・左補闕となった。侍御史に転じ、吐蕃冊封副使をつとめた。司封員外郎となり、南詔冊立弔祭副使をつとめた。元和4年(809年)、帰国すると、祠部郎中に任じられ、右司郎中に転じた。元和6年(811年)、給事中となった。元和7年(812年)、皇太子侍読をつとめた。元和9年(814年)、中書舎人に転じた。元和11年(816年)2月、中書舎人のまま、知礼部貢挙・騎都尉となった。4月、朝議大夫・門下侍郎同中書門下平章事(宰相)を加えられた[1][2]

淮西の呉元済が反乱を起こすと、憲宗裴度に兵権を委ねて、これを討伐させた。元和12年(817年)、逢吉は裴度の成功をねたんで、令狐楚と結んで裴度を失脚させようとした。逢吉はかえって憲宗に憎まれ、宰相を退任し、検校兵部尚書梓州刺史・剣南東川節度使として出された[1][2]

元和15年(820年)、穆宗が即位すると、逢吉は襄州刺史・山南東道節度使に転じた。逢吉は侍読だったときに穆宗の恩顧があったため、人を派遣して近臣と結び、長安への召還を求めた。長慶2年(822年)3月、兵部尚書として召還された。ときに裴度と元稹が相次いで宰相となると、逢吉は元稹をそそのかして裴度を抑えさせた。裴度と元稹は宰相を退任し、逢吉は裴度に代わって門下侍郎・同平章事(宰相)となった。裴度や李紳を排斥し、鄭注に賄賂を贈って宦官王守澄と結んだ。張又新・李続之・張権輿・劉栖楚・李虞・程昔範・姜洽・李仲言ら「八関十六子」を部下として朝政を専断した。長慶4年(824年)、敬宗が即位すると、逢吉は涼国公に封じられ、尚書右僕射を兼ねた[3][4]

宝暦元年(825年)、逢吉は鄭国公に進封された[5]。宝暦2年(826年)、再び検校司空・同平章事・襄州刺史・山南東道節度使として出向した[6]大和2年(828年)、汴州刺史・宣武軍節度使に転じた。大和5年(831年)8月、入朝して太子太師・東都留守・東都畿汝州防禦使となり、開府儀同三司を加えられた。大和8年(834年)3月、召還されて尚書左僕射に任じられ、司徒を兼ねた。老齢で足を病み、朝廷に参内できなかったため、司徒として致仕した。大和9年(835年)1月、死去した。享年は78。太尉の位を追贈された。は成といった[7][8]

家族

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  • 曾祖父:李玄道
  • 祖父:李顔
  • 父:李帰期[1]
  • 従弟の子:李植(李逢吉に子がなかったため、後嗣となった)[8]

脚注

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  1. ^abcd旧唐書 1975, p. 4365.
  2. ^abc新唐書 1975, p. 5221.
  3. ^旧唐書 1975, pp. 4365–4366.
  4. ^新唐書 1975, pp. 5221–5222.
  5. ^旧唐書 1975, p. 514.
  6. ^旧唐書 1975, p. 521.
  7. ^旧唐書 1975, pp. 4367–4368.
  8. ^ab新唐書 1975, p. 5223.

伝記資料

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参考文献

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