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杉敏介

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
杉 敏介
人物情報
生誕1872年7月1日
日本の旗日本山口県玖珂郡差川村(現・岩国市
死没 (1960-07-02)1960年7月2日(88歳没)
国籍日本の旗日本
出身校東京帝国大学文科大学
学問
研究分野国文
研究機関第一高等学校
主な指導学生高瀬弥一
小山内薫
川田順
斎藤茂吉
谷崎潤一郎
芥川龍之介
菊池寛
川端康成
主な業績文芸部顧問として多くの俊英を育てた。
脚注
夏目漱石吾輩は猫である』の津木ピン助のモデル。
歌人でもある。(号は烏山)
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杉 敏介(すぎ としすけ、1872年7月1日明治5年5月26日[1] -1960年7月2日)は、日本の教育者第一高等学校、国文教授 -校長。通称は"びんすけ"。夏目漱石吾輩は猫である』の津木ピン助のモデル。歌人としても知られ、号は烏山

経歴

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エピソード

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  • 斗酒を辞せず豪放にて洒脱、全校の輿望を集めた。大きな事件の決断に速なると共に、細かいことにも配慮の行き届く人であった。 (第一高等学校ホームページ)
  • 『 (岸信介が)戦犯容疑者に指名されて田布施を離れるとき、長州出身で一高時代の恩師でもある杉敏介から、「名を惜しむなら命を捨てよ」という意味の「自決」を促す短歌を贈られる。岸はこれを拒否して次のような返歌を杉に届けている。「名にかへてこのみいくさ(聖戦)の正しさを来世までも語り残さむ」。』(岩波新書「岸信介」原彬久著121p)
  • 神奈川県高座郡藤沢町鵠沼居住中に教え子の高瀬弥一としばしば交流し詠んでいたそうです。
  • 「 高瀬彌一君より今も砥上の川袋に鴫あまた降り立つ由を聞きて、西行の跡なめりと思ひて 砥上原いまも鴫立つ澤をおきて いづくに古き跡をたづねむ」 南山歌集より

著作

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  • 『中等教科 日本文典』1898年 文学社
  • 『日本小語典』1900年 内外出版協会
  • 『国語講義』1901年
  • 『本邦文学史講義』1902年 弘文館
  • 『音韻解説仮名遣法』1910年 新潮社
  • 『長井雅楽周旋に関する世論に就いて』

著名な教え子

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一高文芸部新旧役員 1908年5月撮影
後列 杉田直樹・立澤剛・行森昇
中列 田中徹・岸巌・大貫雪之助・佐野秀之助
前列 笠森伝繁・谷崎潤一郎・新渡戸稲造校長・杉敏介教授・和辻哲郎

脚注

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  1. ^末弘清『山口県人物史』山口県人会、1939年、p.585。

参考文献

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この節には参考文献外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注によって参照されておらず、情報源が不明瞭です 脚注を導入して、記事の信頼性向上にご協力ください。2018年2月
  • 守随憲治:『真の教育者 杉敏介先生』1973年 新潮社

関連項目

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ウィキメディア・コモンズには、杉敏介に関連するカテゴリがあります。

外部リンク

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東京帝国大学総長
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