| ほんごう こうじろう 本郷 功次郎 | |
|---|---|
| 生年月日 | (1938-02-15)1938年2月15日 |
| 没年月日 | (2013-02-14)2013年2月14日(74歳没) |
| 出身地 | |
| 身長 | 172cm |
| 職業 | 俳優 |
| ジャンル | 映画・テレビドラマ |
| 活動期間 | 1958年 -2004年 |
| 配偶者 | 古城都 |
| 著名な家族 | 本郷壮二郎(次男) |
| 主な作品 | |
| 映画 『講道館に陽は上る』 『大菩薩峠』 『釈迦』 『大怪獣決闘 ガメラ対バルゴン』 『大魔神怒る』 『空手バカ一代』 テレビドラマ 『細うで繁盛記』 『特捜最前線』 『武田信玄』 『炎立つ』 | |
| テンプレートを表示 | |
本郷 功次郎(ほんごう こうじろう、1938年2月15日 -2013年2月14日[1])は、日本の俳優。
大映で、柔道のできる二枚目俳優として1959年の『講道館に陽は上る』の準主役でデビューし、同年、続けて『海軍兵学校物語 あゝ江田島』『濡れ髪三度笠』に出演し、1959年の製作者協会新人賞を受賞[2]。現代劇も時代劇も演じられる俳優と認められ、1961年には日本初の70mm映画『釈迦』で釈迦を演じ、大映の主演級映画スターとなり、『情熱の詩人啄木』(1962年)でも石川啄木を演じた。デビュー作だけでなく『日本名勝負物語 講道館の鷲』(1964年)でも姿三四郎を演じるなど、いくつもの柔道映画に柔道家役で出演。他の主な出演作としては『大菩薩峠』(1960年)、『大菩薩峠・完結編』(1961年)、『空手バカ一代』(1970年)など。1960年代には『大怪獣決闘 ガメラ対バルゴン』など怪獣映画3作や大魔神シリーズの『大魔神怒る』にも出演し、当時の子供らにはその出演で記憶されることになった。1970年代からは当時勢いを増しつつあったテレビドラマの世界にも活躍の場を広げ、1977年放送開始の刑事ドラマ『特捜最前線』に
出演の詳細は#出演で解説。
岡山県岡山市表町(現在の岡山市北区表町)[3]の金物屋の次男として生まれる。岡山県立岡山朝日高等学校、立教大学文学部英米文学科を卒業。大学では柔道部に所属。叔母が黒帯を締めた本郷の写真をいつも持ち歩いていて、たまたま叔父の友人だった大映の重役・松山英夫の目に留まる。大映では藤田進や菅原謙二に続く柔道スターを探していたため、松山がその写真を叔母から借りて、社長の永田雅一に見せたところ「すぐに連れてこい」となった。本郷は冗談めかしてその時のことを「拉致された」と笑っている。大映本社で松山と監督・市川崑に面接されたが、市川を知らず俳優になるつもりもなかったので、「日本映画はつまらないから観ません」とはっきり断ったが「どうしてもやってくれ」と説得され、最終的に「柔道映画なら仕方がない」と引き受けたという。大映演技研究所に入所し、第12期大映ニューフェイスとして1958年に入社、『講道館に陽は上る』(1959年)で菅原謙二に次ぐ準主役として映画デビュー。柔道家の役は、このほかにも千葉真一主演映画『空手バカ一代』(1977年)で演じており、作中ではプロレスラーのエディ・サリバンや鶴見五郎を相手に柔道技を披露した。
永田の声がかりに加え、当時の大映は若手男性スターが不足していたこともあり、その後立て続けに映画出演をこなし、時代劇も現代劇もこなせる若手スターとして売り出される。同じ大映の先輩・市川雷蔵には弟のようにかわいがられ、給料の低い入社当初は居候さえさせていた。共演も多く時代劇の所作を教わった。
1961年には日本初の70mm映画『釈迦』の主演に選ばれるまでになる。まだキャリアの浅いうちに主演が決まり、どうしようかと悩んでいると、市川崑には「まず台本を覚えてしまえ」と助言を受け、勝新太郎には「台本なんて覚えなくていい。まず役に入ること」と正反対の助言を受けて混乱したという。「大映時代は目が回るような忙しさで、撮影が押してくるとスタッフとともに楽屋でザコ寝、翌早朝にロケ、終わるとその足で即、次の撮影現場へ向かうことも珍しくなかった」と当時を振り返る。
1969年まで大映の主演スターとして活躍した後は、他社の映画やテレビドラマに活動の場を広げる。テレビ朝日で1977年放送開始の『特捜最前線』の橘警部役(特命捜査課の "ナンバー2" の役。神代(二谷英明)の補佐役)は9年間にわたりレギュラー出演し、代表作の1つとなった。またNHKの大河ドラマにも出演し、1988年放送の『武田信玄』では甘利虎泰を、1992年放送の『信長 KING OF ZIPANGU』では佐久間盛重を、1993年放送の『炎立つ』では北条時政を演じた。
2004年、突然の脳梗塞で倒れ意識不明の重体となったが、リハビリを継続し奇跡的に回復。しかし、これ以降表舞台から退き、事実上引退状態だった。2013年2月14日、心不全のため死去。74歳没[4]。