| 木村邸 | |
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| 情報 | |
| 構造形式 | 木造 | 
| 階数 | 2階建(一部3階建) | 
| 竣工 | 江戸時代 | 
| 所在地 | 〒509-7403 岐阜県恵那市岩村町本町329-1 | 
| 座標 | 北緯35度21分54.3秒東経137度26分32.2秒 / 北緯35.365083度 東経137.442278度 /35.365083; 137.442278 | 
| 文化財 | 恵那市指定文化財 | 
| 指定・登録等日 | 2001年 | 
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木村邸(きむらてい)は、岐阜県恵那市岩村町にある歴史的建造物。1998年(平成10年)4月17日に重要伝統的建造物群保存地区に選定された岩村町本通りに存在する。木村家住宅(きむらけじゅうたく)として恵那市指定文化財に指定されている。
木村家は江戸時代中期から末期に栄えた問屋で、岩村藩の財政困窮のたびに御用金を調達してその危機を救った。藩主自身が幾度となくこの木村邸を訪れたといわれている。 藩主出入りの玄関・表通りに面した武者窓・上段の間・欄間・茶室は、江戸時代の町家としての様式を至る所に留めている[1]。
木村家の先祖は、三州挙母藩の武士の出で、元和・寛永年間(1615年~1644年)頃に岩村に定住した。第5代木村守正の時代には、問屋職に加えて御用達職に任ぜられ、苗字帯刀も許され、士分の待遇を受けた。また、第6代木村知英は、儒学者佐藤一斎の門下に学んだ[2][3]。
岩村城下町は江戸時代を通じて、城主が三度交代した。初めは松平氏、次いで丹羽氏5代、そして再び松平氏7代が治めた。しかし、この間、城下町の規模や人口には大きな変化がみられなかった。これは、町人が町人町に限定され、商業活動に一定の制約を受けていたこと、また山間部に人為的に築かれた城下町であったため、自然的な発展力を欠いていたことが要因と考えられる。交通も不便で、生産的な工業を持たない岩村城下町は、結局のところ士民の消費を支える市場にとどまっていた[4]。
こうした環境のなかで、城下の経営を支えたのが問屋職に任じられた商人たちである。その多くは三河方面から招かれた有能な商人で、松田氏、山田氏、森氏、木村氏などがその代表であった[4]。
木村家の祖先は三州挙母藩(現・愛知県豊田市)の出身で、太郎助という人物がもと挙母藩の武士であったと伝えられる。木村家が岩村において頭角を現したのは、第4代木村弥五八重矩の頃からである。先祖代々の蓄財により、次第に町内有力者としての地位を築いた。安永3年(1774年)、藩の財政が逼迫した際に御用金を調達した功績が藩主に認められ、褒美を賜ったことが、木村家の名を高める契機となった[5]。
その後、第5代木村弥五八正は藩の御用達に任ぜられ、苗字帯刀を許された。これは、度重なる御用金の調達に加え、領内駿州の水害救済、西見地方の凶作や江戸藩邸の災害など、藩政に尽力した功績によるものであった[5][6]。
第6代木村弥五八知英、第7代木村弥五八知行の代においても、問屋役および御用達職として藩政に貢献した。しかし、文政・天保年間(1818年~1845年)に藩老丹羽瀬清右衛門による改革が行われ、木村家は岩村国産所の取扱を命ぜられた結果、多額の負債を負い、事業が一時中断する事態に陥った。さらに、清右衛門の命により帯刀と産物取扱の職を一時剥奪されたが、彼の免職後に再び職を回復している[5][6]。
8代木村弥五八知周の代には明治維新を迎え、岩村藩庁から岩邑井・中通村の取締役を命じられた[5][6]。
このように木村家は、代々岩村城下の問屋および藩御用達として、地域経済と藩政に大きな貢献を果たした家であった[6]。

現主屋の建築年代は明確ではないが、浅見家蔵『珍事記』によれば、木村家一帯は明和2年(1765年)10月2日の大火により類焼し、その後再建されたとされる。明和5年(1768年)頃に作成されたと推定される『屋敷町屋分間図』では、木村家の間口は現存の7間半よりも狭く描かれている。一方、天保12年(1841年)の『町方家並帳』では、間口7間半と明記され、西側5間1尺分も同家の所有となっていることから、現主屋は明和5年以降から天保12年の間、すなわち1800年前後に西隣地を取得して建てられたものと考えられている[7][8]。
木村邸は、岩村の伝統的な町家建築の典型例のひとつである。主屋は通り庭をもつ二列八間型厨子二階建てを基本とする[8]。通り庭は他の家の倍ほどの広さがある[9]。通り庭は、土間が表の道路から奥庭まで一直線に貫く構造を指す。この通り庭は、風や光を通すとともに、作業・運搬の動線としても機能しており、夏季には引き戸を開け放つことで通風を確保する設計となっている。このように、表通りから裏庭まで見通せる構造は、当時の商家としては比較的贅沢な造りとされる[10][11]。
現主屋は、ナカノマ南側に書院棟へ通じる廊下を備える。ミセニワにはシモミセを、ウチニワ奥には風呂や物置を配している。 痕跡調査によって、当初は二列七間型で、ナカノマが一室の大広間、ミセニワには二室のシモミセがあったことが判明している。 西側の書院棟は主屋ナカノマ西壁を貫通して増築されたもので、幕末期の増設と考えられている。奥座敷の天袋には、文人画家・宋紫石(1712年–1786年)による彩色小襖がはめ込まれているが、建築年代とは一致しない[8]。
主屋正面の一階は、入口の大戸を除いて蔀戸の痕跡が残る。当初は表側のみに2階があり、二室に分けられていたとされる。大正年間に棟高を上げ、屋根を板葺石置から桟瓦葺に改めたが、棟木母屋や下部の小屋組は旧来のまま残されている[8]。新たに設けた3階は煎茶席としている[9]。出格子・平格子を備えた表構えは現在も当初の姿をよく伝えており、岩村町における有力町人住宅の典型例と評価されている[8]。
主屋ナカノマ南側の廊下から通じる書院棟(離れ)は、文化8年(1811年)に増築したもので、表通りから直接入る通路と式台を備えている[9]。
主屋背後の敷地内には、江戸時代に建てられた四戸前土蔵および酒造蔵が残る。文久3年(1863年)の棟木墨書から、これらが城山の材木を拝領して建てられたことが確認されている[8][9]。
寿庵(ことぶきあん)は、文久3年(1863年)に城山の材木を拝領して建築された酒造蔵を木村けいの隠居所として改造したものである。改造には、坂倉準三(木村けいの弟)が嫁いだ姉のために設計したと言われている。また、1980年(昭和55年)前後に80歳を過ぎた木村けい本人が設計したとも言われており、おそらく坂倉準三が生前に全面的な改造を行い、1980年(昭和55年)頃に木村けいが部分的に改造を行ったと考えられている。
構成としては北側中央に入り口があり、そこから中に入ると3畳大の踏込み土間他で、その東に1畳大、西に2畳大の物入れがある。これらの北には、床と地袋付の飾棚、平書院のある16畳半大の部屋で、現在は化粧合板の板の間となっている。二階は、西面北側の外階段から上がることができ、西側にモルタル塗の廊下と板敷のベランダが南北に並び、それらの東側には、床と床脇、物入れ付の7畳の主座敷と、9畳半大の板の間が南北に並ぶ[12]。
