| きむら だいさく 木村 大作 | |||||||||||||||
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![]() 文化功労者顕彰に際して 公表された肖像写真 | |||||||||||||||
| 本名 | 木村 大作 (きむら だいさく) | ||||||||||||||
| 生年月日 | (1939-07-13)1939年7月13日(86歳) | ||||||||||||||
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| 職業 | 撮影技師、映画監督 | ||||||||||||||
| ジャンル | 映画 | ||||||||||||||
| 主な作品 | |||||||||||||||
映画 テレビ
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| 備考 | |||||||||||||||
→「木村大作#賞歴」も参照 | |||||||||||||||
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木村 大作(きむら だいさく、1939年〈昭和14年〉7月13日[1] - )は、日本の撮影技師[1]、映画監督[1]。文化功労者。
1939年生まれ。東京府出身。1958年、東京都立蔵前工業高等学校を卒業後、東宝撮影部にカメラ助手として入社し、黒澤明監督の組に配属される。1973年に『野獣狩り』でカメラマンデビュー。

自分の師匠は撮影助手として付いていた宮川一夫や斉藤孝雄ではなく黒澤明だとしており、その影響を強く受けたことを自認している。黒澤からも、そのピント合わせのうまさから一目置かれており、本人から「撮影助手で名前を憶えているのは大ちゃんくらいだ」と言われた事もあるという。黒澤は『用心棒』で犬が人の手首をくわえて歩いて来るカットをビデオで見るたびに、周りの人間に必ず「これ、ピント合わせてるの、大ちゃんだよ。うまいね」と言っていたというエピソードもある。このカットは特になんでもない場面のように見えるが、ピントの合う範囲が狭い望遠レンズを使用しているにも拘らず、カメラの方に向かって歩いて来る犬をぼけることなく完璧に撮影している。
また黒澤は、木村が一本立ちして東宝を離れてからも、自分の現場でピント合わせで手こずるような事があると「木村大作を呼んで来い。こんなのあいつなら、一発だよ」と冗談交じりに言ったともいう。『用心棒』で助手として付いていた宮川一夫からも「日本一のフォーカスマン(撮影助手)」と激賞されていることからもわかるように、ピント合わせにおいては、木村は超一流である。
特に東宝は、口径の大きなアナモフィクレンズ(シネマスコープに変換するレンズ)とスタンダードな(写真用35 mmレンズと同等)口径のレンズを両手で自分の目でピン送りしていたので、熟達した技能者を必要としていた。特に対象が、キャメラに向かい(騎馬など)、キャメラがドリーなどで対象に向かっている場合のそれをドンピシャに合わせられたのが木村だった。ただし当然ジャジャボケの時もあり、「泣きの大作」の所以でもあった。なお、黒澤作品にはすべて撮影助手としての参加である。
1973年(昭和48年)に須川栄三監督の『野獣狩り』でカメラマンとして一本立ちするが、この作品では木村の発案で三脚などを使わず、オールシーンを手持ちカメラで撮影している。また、撮影用の照明を使わず全て自然光で撮影することを監督に提案し、撮影中、仕事を奪われた形になった照明技師(黒澤作品などにも携わったベテランの森弘充)がこっそりライトを当てた時は、木村よりもかなりの年長である森を怒鳴りつけたとも語っている。この作品の撮影中に片腕を骨折するが、もう片方の腕だけでカメラを担いで撮影を続行したり、藤岡弘がビルの屋上から隣のビルにジャンプして飛び移る非常に危険なシーンでは、戸惑う藤岡を前に木村が実際にやって見せて、「俺ができるんだからお前もできるだろう」と発破をかけたエピソードもある。
その後は、主に森谷司郎監督や岡本喜八監督とのコンビで名を高めていった。しかし森谷は若くして世を去り、岡本に対しては人柄や才能に最大限の敬意を払いながらも、そのコンテ主義のためにカメラマンの裁量が少なすぎるとして仕事を断るようになる。折しも東宝が実質的に製作撤退しつつあった時期でもあり、同社の専属を離れて深作欣二、降旗康男ら他社出身監督の仕事もふくめ、幅広い活動を行うようになっていく。2009年(平成21年)、初監督作品『劒岳 点の記』が公開された。

一時期、テレビ出演を積極的に行ったことがある。
『平成日本のよふけ』への出演がきっかけで南原清隆との交流が始まり、『笑う犬の冒険』にてコントのキャラクターの素材とされ、本人もコントに出演することとなった。しかし、ただコントに出演するだけではなく、木村のコーナーとも言える「ラスト・シーン」では本業のキャメラマンとして35ミリキャメラを回している。
また、『新春かくし芸大会』に2000年・2001年と2年連続で審査員を勤め、過激なまでの毒舌批評で嵐を巻き起こした。2002年には演者としてアダルトチーム「おじさまメルヘンワールド2002・世界はひとつ!みんな仲良く!」に出演した。
木村の毒舌ぶりは業界内では知る人ぞ知る事柄であったが、一般視聴者の不評という結果となり、以降は地上波テレビのレギュラー出演は行っていない。ただし、衛星劇場では冠のトーク番組『木村大作の春夏秋冬』を持っていて、当時の映画産業や黒澤明をはじめとする映画人の裏話などを披露している。
地上波でも映画の宣伝などのインタビューには現在も出演しており、テレビ出演が一般認知度を上げるきっかけにはなった。
『情熱大陸』(毎日放送)にも取り上げられ、2008年9月21日に放送された。
2018年10月26日には『芸能界麻雀最強位決定戦 THEわれめDEポン 生スペシャル』(CS放送フジテレビONE)に初出演。番組歴代最年長となる79歳での出場だったが、深夜0時~朝6時の生放送にもかかわらず堺正章、萩原聖人、新井浩文を相手に優勝を果たした。
「撮影者」を自称している。映画には監督は一人だけという認識から、撮影監督という名前は嫌っている。
日本アカデミー賞の撮影賞は史上最多の21回入賞。最優秀賞も史上最多の5回の入賞を果たす。
2020年には映画の撮影者として初の文化功労者に選出される。(実写映画での文化功労者は 現在、山田洋次と木村の2名のみ)
『八甲田山』以来、高倉健の指名を受け続け『駅 STATION』『鉄道員』など全9本の撮影を担当。公私に渡る付き合いがあった。
この節の加筆が望まれています。 |
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キネマ旬報ベスト・テン 日本映画監督賞 | |
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ブルーリボン賞 新人賞 | |
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括弧内は作品年度を示す、授賞式の年は翌年(2月) | |
毎日映画コンクール 撮影賞 | |
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