きむら かほる 木村 かほる | |
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| 生誕 | 木村 かをる (1938-08-27)1938年8月27日(87歳) |
| 失踪 | 1960年失踪(21歳) 失踪から65年9か月と2日 |
| 国籍 | |
| 職業 | 秋田赤十字高等看護学院3年生 |
| 親 | (父)一栄 (母)文子 |
| 家族 | (姉)みどり |
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木村 かほる(きむら かほる、1938年〈昭和13年〉8月27日 - )は、青森県八戸市出身の特定失踪者[1]。特定失踪者問題調査会では「拉致濃厚」(1000番台リスト)としている[2]。1960年(昭和35年)2月、秋田県秋田市で失踪した[1]。失踪当時は21歳であった[1]。
1938年〈昭和13年〉8月27日生まれ[1]。戸籍上は「かをる」だが、日常では「かほる」としていた[1]。
幼少期、大日本帝国陸軍の獣医師だった父の仕事の関係で家族とともに満洲国に渡ったが、母・姉・かほるは第二次世界大戦直後、参戦したソヴィエト連邦軍の侵攻から逃れてたどり着いた平壌で抑留されて収容所生活を送った[3][4]。かほるの姉は病弱な母とまだ幼かった妹の手を引き、8キロメートルの道を歩き続けて北緯38度線を越え、青森県八戸市に引き揚げた。収容所での過酷な体験から、病気がちな母のため看護師をめざすようになった木村かほるは、高校卒業後、秋田市中通6丁目の秋田赤十字高等看護学院(現、日本赤十字東北看護大学)に進学した[3][4][5][注釈 1]。看護学校へは同校の学生寮から通っていた[1][5][注釈 2]。彼女は、身長155センチメートル[9]、中肉中背の色白で、周囲に対しては常に微笑みをたたえ優しい雰囲気を醸し出していたという[1]。
失踪事件があったのは、1960年(昭和35年)2月27日(土曜日)のことであった[1][5][10][11]。彼女は、看護学校の卒業試験を2日後、卒業式を10日後に控えていた[1][5][11][注釈 3]。その日の午後5時半すぎ、寮の同室の友人数人に「ちょっと出かけてくる」と声をかけて外出した[1][5][11]。教則本『基礎看護学』を持って寮を出たという[12]。彼女の足取りが確認できるのは奥羽本線秋田駅構内であって、警察発表やそれに依拠した報道では「『八戸の実家に行ってくる』と言って、同級生に見送られて秋田駅の改札を通過した」[4][9]とあるが、追跡調査では、当日、秋田駅まで同行した同期生とは駅で別れており彼女が改札を通ったところを見ていない[5]。外泊届も出ておらず、当時のダイヤで八戸に帰ることを考えると、3月1日の卒業試験に間に合うよう戻ってくるには実家滞在を1日半に満たない時間で切り上げて来なくてはならないことから、「卒業試験の勉強のため実家に帰省しようとした」という推測は成り立ちにくい[5]。彼女はすでに実家(八戸市一番町)に近い八戸赤十字病院に就職することが決まっており、念願であった看護師になる夢を目前にひかえていた[5]。また、同じ寮に住む学生らに対しても個人的な悩みを相談するということもなかったので、彼女が自分の意志で失踪する理由は見あたらない[5]。何より、戦争直後、母と娘2人で過酷な抑留生活を生き抜き、多くの人の死を見つめて看護師になることを決めた彼女は、命の重みを体で知っているはずであった[4][13]。寮の身の回りのものが片付けられたり、持ち出されたりという形跡も見つからなかった[10][11]。
彼女は結局、2月28日(日曜日)も寮に帰らず、卒業試験の前日で学校休業日としていた2月29日も帰寮せずに、3月1日の卒業試験も無断で欠席した[5]。看護学校から試験欠席の連絡を受けた父と姉は秋田に向かい、3月2日に秋田市に到着、3月3日に秋田警察署に捜索願を提出した[5]。家族もまた、能代市方面、男鹿半島、八郎潟周辺など、考えられる限りの土地をめぐっては鞄や『看護必携』など手掛かりになるものがないか探し回り[3]、青函連絡船の乗船名簿に彼女の名がないか調べ、また、秋田市はじめ、仙台、東京、大阪、福岡など全国各地をまわって「たずね人」のチラシを貼って歩いた[4][10]。「まるで神隠し」という言葉をかける人もあったが、男鹿半島で「見慣れない小型船がときどき来ている。それに連れて行かれたのではないか」と語った若い漁師の言葉を、のちに家族は幾度も思い返すことになった[3][注釈 4]。
1975年5月、娘の消息を待ち続けた母が65歳で亡くなり、父も2000年7月に97歳で亡くなった[3]。
2004年(平成16年)9月29日、木村かほるの姉と特定失踪者問題調査会は青森県警察八戸警察署に告発状を提出した[1]。ただし、かほるは秋田市内で失踪した可能性が高いことから、秋田警察署へ告発状が移され、同年11月6日までに秋田署に受理された[18]。
木村かほるについては、北朝鮮国内で複数の目撃証言がある[19][20]。
大韓航空機爆破事件(1987年)の犯人で元北朝鮮工作員の金賢姫が1979年頃に平壌外国語大学で日本語を学んだ時の日本人教師「崔順(チェ・スン)」が木村かほるによく似ているという[20][21][22]。金賢姫は2009年3月、田口八重子の兄飯塚繁雄に対し、かほるによく似た「崔順」に日本語を学んだ後、「李恩恵(リ・ウネ)」こと田口八重子から日本人になりきるための教育を受けたことを証言している[21][22]。金賢姫は、1991年発行の自著『いま、女として』のなかで、日本語教師「崔順」は「1960年代に在日朝鮮人の夫と北朝鮮に渡った帰国者だった」と記していた[23]。日本語教師が仮に日本人妻あるいは在日帰国者であるならば、韓国誌『週刊朝鮮』(朝鮮日報発行)が公表した「平壌住民名簿」(2005年作成)に「チェ・スン」の名があると考えられる[23]。脱北者によって流出した、この名簿には「日本出身者」が6,500名おり、そのうち86人が「日本国籍」と記載されている[23][24]。ジャーナリスト辺真一の調べでは、86人のなかに「チェ・スン」の名の人物が1人いたという[23]。国籍欄には「日本」とあるが、別名(日本名)の記載がなく、「配偶者死亡」とあり、記載の生年月日によれば、実際の木村かほるより13歳ほど年上であった[23]。
彼女については、「金正日の料理人」として知られる藤本健二の目撃証言もある[5][20]。藤本は、1982年(昭和57年)8月に調理師として北朝鮮に渡り、1983年にいったん帰国したのち、1987年から2001年までの間、最高指導者である金正日の専属料理人などを務めた[5][25][26]。証言は、初めて訪朝した1982年12月中旬、藤本が調理師をしていた平壌中心部にある国際レストラン「安山館」に木村かほるによく似た女性が食事客として訪れ、「目と目が合った」というものであった[5]。さらに、藤本はこののち「安山館」と拉致されてきたタイ人ホステスたちが暮らす寮の間の通路でも同じ人物とすれ違ったと証言した[5]。この目撃証言については、2011年(平成23年)12月18日、かほるの姉と特定失踪者問題調査会代表の荒木和博が藤本本人と東京都内で面会して詳細に話を聞き、そのようすは同月21日のテレビ朝日系のニュース番組『スーパーJチャンネル』でも放送されている[5][注釈 5]。なお、「安山館」は、藤本の著作によれば「寿司と和食とカラオケバー」を兼ねた店であり、藤本が平壌に着いたときにはすでにカラオケバーには日本人のマスターとママ、日本人のホステス2人、タイ人ホステス7人がいたという[25]。
タイ人女性については、1982年7月に北朝鮮に連れて行かれ、後に帰国した彼女たちが北朝鮮で日本語を習った日本人女性が木村かほるに似ているという[5]。北朝鮮によるタイ人拉致に関しては、パーヤップ大学講師で「北朝鮮に拉致された人々を救援する会チェンマイ」の代表でもあった海老原智治によれば、アノーチャ・パンジョイ以外の拉致的な被害案件として、1982年に10人のタイ人女性が日本に連れて行くとだまされて北朝鮮に送られ、1年間、外貨食堂で働かされた上で翌年全員解放された事例があるという[27]。この女性たちは、藤本健二が「安山館」で出会ったタイ人女性たちと考えられ、彼女たちは実際藤本に「日本に行くとだまされて北朝鮮に連れて来られた」と語っている[25]。特定失踪者問題調査会は、その女性たちのうち3人にタイで別々に聞き取り調査を行ったが、3人とも日本語を自分たちに教えた日本人女性が特定失踪者のなかで木村かほるに最も似ていると証言した[5][20]。姉によれば、彼女たちが語るしぐさの特徴なども本人に似ているという[20]。調査会ではこの結果をもとに2007年10月31日、拉致問題対策本部にさらなる調査を要請した[5]。上述の藤本証言は、政府筋から「ちょっと写真を見てもらいたい」と連絡があり、その写真には「1982年当時、安山館のタイの女性に日本語の指導員をしていたらしい?」と書かれていたことから得られたものであった。タイ人女性たちの証言と藤本証言は、整合性が高いと判断できる[5]。
また、2002年(平成14年)12月、脱北者の女性1人(匿名)が「自分の親友の両親が拉致された日本人だった」と証言しており、年齢や失踪の時期から、その「母親」が木村かほるの可能性が高いと考えられた[18][20][注釈 6]。さらに、脱北者のホ・ガンイルが2002年頃の数ヶ月から半年の間、平壌市牡丹峰区域の日本商品を販売している外貨商店で見た女性が木村かほるに似ていると証言した[20]。
木村かほるについては未確認ながらそれ以外にも様々な生存情報があり、このような情報の大量な例は特定失踪者のなかでも稀な部類に属する[5]。こうした情報の多さ自体が拉致の可能性がきわめて濃厚であることを示唆するものである[5]。
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