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服部岩吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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服部 岩吉
はっとり いわきち
服部岩吉顕彰碑兼「滋賀県民の歌」歌碑
生年月日1885年11月20日
出生地滋賀県栗太郡金勝村
没年月日 (1965-11-24)1965年11月24日(80歳没)
死没地滋賀県大津市
所属政党立憲政友会
日本自由党
滋賀県の旗 公選初-2代滋賀県知事
当選回数2回
在任期間1947年4月12日 -1954年11月8日
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服部 岩吉(はっとり いわきち、1885年 <明治18年>11月20日 -1965年 <昭和40年>11月24日)は、大正昭和期の政治家。初名は清太郎。なお、「岩吉」は服部家の世襲の名乗りで、本項の岩吉は2代目にあたる。位階正四位

生涯

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滋賀県栗太郡金勝村(現在の栗東市)の酒造業の家に生まれる。膳所中学校卒業後は家業に従事していたが、28歳の時に金勝村の依頼で同村の助役となり、その後村会議員を経て金勝村村長に就任して5期務める。更に県会議員を2期務めた後に1932年第18回衆議院議員総選挙滋賀県全県区に立憲政友会から立候補して当選、1942年第21回総選挙には立候補しなかったものの、次の第22回総選挙では日本自由党から当選を果たし、通算4期務めた。1947年滋賀県知事が公選となると、服部は厚生政務次官であったが衆議院議員を辞任して立候補して当選を果たした。同年10月23日昭和天皇が北陸方面に行幸する途上、お召し列車の車内で県勢などを奏上する機会を得た[1]

当選後の服部は要職に側近を登用したことで非難を受けたが、その一方で“ガン吉”と呼ばれるほどの一徹ぶりと優れた政治力によって支持を受けた。特に農林省が滋賀県に対して過大な食糧供出を迫っていると主張して独自の統計調査を実施して正確なデータを提示して農林省に方針修正を認めさせた「服部調査」は良く知られている。また、滋賀県立農業短期大学の創立にも尽くした。

だが、服部が3期目を目指していた1954年の県知事選挙において、政権与党であった自由党の分裂によってかつての同僚であった森幸太郎農林大臣日本民主党の支援を受けて立候補、選挙戦の結果、森が当選して服部の3選は阻まれた。その後1960年第29回総選挙に無所属で出馬するが落選。1965年、大津市の自宅で死去。死没日付をもって正四位に叙された[2]

脚注

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  1. ^宮内庁『昭和天皇実録第十』東京書籍、2017年3月30日、508頁。ISBN 978-4-487-74410-7 
  2. ^昭和40年 1965年11月29日付 官報 本紙 第11690号 18頁

参考文献

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公職
先代
新設
滋賀県知事
公選初代 - 第2代:1947年 - 1954年
次代
森幸太郎
官選
犬上県
権令
  • 神山郡廉長浜県権令→犬上県権令
  • ※1872年10月滋賀県と合併し廃止。
滋賀県
県令
知事
公選
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