| 基本情報 | |
|---|---|
| 国籍 | |
| 出身地 | 北海道旭川市 |
| 生年月日 | (1966-01-31)1966年1月31日(60歳) |
| 身長 体重 | 183 cm 74 kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 左投左打 |
| ポジション | 投手 |
| プロ入り | 1983年 ドラフト5位 |
| 初出場 | 1985年7月9日 |
| 最終出場 | 2002年10月14日 |
| 経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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コーチ歴 | |
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| 星野伸之 | |
|---|---|
| YouTube | |
| チャンネル | |
| 活動期間 | 2021年6月4日 - |
| ジャンル | 野球 |
| 登録者数 | 1.6万人 |
| 総再生回数 | 2,005,767回 |
| チャンネル登録者数・総再生回数は 000000002025-11-17-00002025年11月17日時点。 | |
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星野 伸之(ほしの のぶゆき、1966年1月31日 - )は、北海道旭川市出身の元プロ野球選手(投手、左投左打)。現在は野球解説者、野球評論家、YouTuberとして活動している。
タイトル獲得は多くないものの、11年連続2桁勝利を記録し通算176勝を挙げるなど、パ・リーグを代表する投手として活躍した。その実績と端正な顔立ち、およそ野球選手らしくない細身な体型から同リーグの、西崎幸広、阿波野秀幸、渡辺久信らと共に「トレンディエース」と呼ばれ[1]、「星の王子さま」の愛称で親しまれた(「トレンディエース」の時代背景などは西崎の項を参照)。
北海道旭川市出身。幼少期から野球が好きで、北海道という土地柄から読売ジャイアンツ(巨人)のファンであった[注 1][3]。阪急との接点はほとんどなかったが、家に山田久志、福本豊、山口高志のポスターが貼ってあり、兄と一緒に日本シリーズで見た山田や山口のフォームを真似していたという[4]。
旭川工業高校では、1年生から野球部のエースとして過ごした[3]。秋の新人戦を前に、遊びたい誘惑に駆られて一度は退部したものの、父親の激怒や野球部の恩師(当時の部長で翌年から監督)による引き戻しもあり、渋々戻って野球を続けた[5]。2年生の秋季北海道大会(1982年)は旭川支部予選の決勝で旭川竜谷高に完封負け、3年生の春季北海道大会(1983年)では1回戦(対北海道日大高)で好投するも敗退するなど、甲子園出場にはほど遠いチーム成績であったが、それでも北海道拓殖銀行の野球部(たくぎん野球部)から内定をもらうことができた[6]。
プロ6球団がマークしていたというが、ドラフト外の評価が殆どであった。本人は巨人への憧れがあったが、監督は「左腕が少ないチーム」への入団を勧めていた[7]。その後、「貴重なサウスポー」「カーブが面白い」「脹脛が太い」などの理由で阪急ブレーブスから声が掛かり[6]、同年のドラフト会議で阪急から5位指名を受けて入団。プロでやっていく自信は全くなかったが「大学に入るつもりで4年間は頑張ってみよう」と思い入団を決意した[4]。背中を押してくれたのは、またも野球部の恩師であった[8]。担当スカウトは当銀秀崇[9]。
プロ1年目の1984年は1年を通して二軍(ウエスタン・リーグ)で過ごした[8]。二軍での練習後、一軍の練習に加わって打撃投手を務めているうちに、その独特のカーブが注目され(福本豊が空振りしていた)、次第に二軍の試合で使われるようになった[10]。
1985年のシーズン途中、駒不足となった二軍で先発・完封すると、そのまま二軍で先発ローテーション入りして4連勝するなど評価され、一軍(パシフィック・リーグ)へ昇格[11]。7月29日の対西武戦で今井雄太郎をリリーフしたプロ初勝利を含め、2勝を記録した。
1986年は5月から先発の一角として起用され9勝、初めて規定投球回(9位、防御率3.88)にも達する。同年オフに更なる飛躍を目指してフォークボールを覚える[12]。
1987年には、パ・リーグ5球団完封を含むリーグ1位の6完封を記録して11勝、以降1997年まで11年連続で2桁勝利を記録し、1995年、1996年のリーグ連覇にエースとして大きく貢献した。1995年のヤクルトスワローズとの日本シリーズでは2試合に登板。第3戦では先発登板し、吉井理人と投げ合うが4回1失点で降板、勝ち負けはつかなかった。1996年の読売ジャイアンツ(巨人)との日本シリーズでは2試合に先発登板。いずれも斎藤雅樹と投げ合うが、第1戦では5回途中、第5戦では4回途中に降板。勝利はならなかったが日本一に貢献している。
1990年には、日米野球では先発して3回無失点。バリー・ボンズ、セシル・フィルダーの全米打線に1安打も許さず好投した。[13]
1989年と1996年には最高勝率のタイトルも獲得した。なお1995年オフにはフリーエージェント (FA)の権利を取得したが[14]、同年の夏まではFA権を行使してセントラル・リーグの阪神タイガースへFA移籍しようという考えに傾いていた[15]。しかし、この時は阪神の球団体質への不信感に加え、高額年俸選手が次々と戦力外になっていた例が多かったため翻意し、11月2日にオリックス球団と2度目の契約交渉を行った上で、FA権を行使して年俸1億2000万円の3年契約+再契約金3000万円でオリックス残留を決めた[15]。星野本人はこの時の交渉で年俸1億5000万円を要求していたが、球団代表の井箟重慶から「年俸は3年間据え置きではなく、成績が良ければアップする」として提示された条件を受け入れ、「現状を見ると、年俸が高くなりすぎるとクビを切られやすくなっている。まだプレーできるのに、その機会を奪われるなんて寂しい。どんどん年俸が上がればいいという気はなくなった。安定も大事と思ったんです。やはり自分がもう無理だと思えるまで投げ続けたい」とコメントした[15]。その3年契約の2年目となる1997年オフには現状維持の年俸1億2000万円で契約更改したが、出来高払いで満額の3000万円を手にしている[16]。
1998年は3年連続開幕投手となったが終始絶不調で再調整の為の二軍落ちも経験し6勝に終わり、12年連続の2桁勝利及び13年連続規定投球回は達成はならなかった。
1999年にチームメイトのイチロー、戎信行と共にMLBのシアトル・マリナーズが開いた春季キャンプに参加した。オープン戦では、対サンディエゴ・パドレス戦で先発するも、1.2回を投げて3本塁打を含む8失点と精彩を欠き、2試合で0勝1敗、防御率27.00の成績が残っている[17]。同年は2年ぶりの2桁勝利となる11勝を記録し、規定投球回もクリアした。
同年オフに再びFA権を行使したが、同年までに通算168勝を挙げており、このころには通算200勝を目標としていたことから、年俸の金額よりも3年から4年の複数年契約にこだわりを見せていた[18]。オリックスからは慰留されたが[19]、同年10月31日にFA権の行使手続きをし[20]、オリックスに加え[21]、1995年のFA権行使時にも移籍を考えた阪神とも交渉した[22]。星野は当初、オリックスに残留する意向であり、同年10月中に3度にわたってオリックスと下交渉を行ったが[23]、その際に契約年数など処遇面について文書で回答するよう求めていたにもかかわらず、文書による回答を得た時期は同年11月18日、台湾遠征に出発した後のことだったことから、「必要とされていない」と感じたという[24]。一方で阪神は初交渉時の同月12日に同様の文書を星野に提示しており[24]、また監督の野村克也自ら同席したこと[23]、その野村から交渉時に受けた話に感銘したことから[24]、当初の残留のつもりから一転して阪神への移籍を決断、同月28日に移籍を表明する[23]。この際にイチローから残留するよう説得を受けたという[23]。同年12月7日、阪神と2000年から2002年までの3年契約(年俸・契約金は最低保証の総額が4億円)を結んだ[25]。
阪神では移籍1年目の2000年と翌2001年に2年連続で開幕投手を務めたが、2000年は5勝10敗、2001年は1勝2敗、2002年は2勝1敗と低迷した[26]。また2001年8月22日の対ヤクルトスワローズ戦前に明治神宮野球場の室内練習場で練習していたところ、体調不良を訴えで救急車で病院に搬送された[26]。2002年はオリックス時代のチームメイトである長谷川滋利からの勧めを受けて筋力トレーニングに取り組んだが、若手の台頭から登板機会が減少し、また開幕から頻脈の症状に悩まされて集中力が落ちていたことから、9月には監督の星野仙一に現役引退の意向を伝えた[26]。監督の星野は翌2003年シーズンも伸之を戦力として計算していたことから慰留したが、本人の決意は固く、本人は「自信がない」と伝えたという[26]最後に挙げた勝利は同年8月9日の対中日ドラゴンズ戦で、相手打線を6回1失点に抑えてのものだった[26]。稲崎航一は、セ・リーグはパ・リーグと違って振り回す打者が少なく、狭い球場が多いこと、また指名打者 (DH) 制度がないことから、星野が長年培ったリズムを維持しづらかったこと、阪神という人気球団の注目の高さへの戸惑い、打線の援護が少ないことなどから成績が低迷した可能性を指摘し、阪神に移籍しなければ通算200勝も達成できたかもしれないと評している[26]。NPBで残した通算成績は427試合登板、176勝140敗、2041奪三振、防御率3.64だった。
2003年から2005年までフジテレビ・関西テレビで野球解説者、サンケイスポーツで野球評論家を務め、プロ野球マスターズリーグの札幌アンビシャスに参加。
2010年から、オリックスの一軍投手コーチへ就任した。6月8日より自律神経失調症の治療のために休養に入った[27]が、6月22日より復帰。
2011年には、体調面などを考慮しながら、二軍投手コーチを務めた。
2012年5月22日に、小林宏と入れ替わる格好で一軍投手コーチに復帰。
2016年から二軍育成コーチに就任したが、同年4月17日には、酒井勉と入れ替わる格好で一軍投手コーチへ再び復帰した。
2017年も引き続き一軍の投手部門を担当していたが、シーズン中に体調不良を訴えたため、6月23日から一時休養。球団ではこの休養を機に、一軍のブルペン担当コーチだった平井正史を星野の代役(ベンチ担当)、二軍投手コーチから小林を一軍のブルペン担当に異動させる措置を暫定的に講じた[28]。星野自身は、体調が回復した同年7月1日から、二軍の練習に同行[29]。7月11日には、星野に二軍、小林に一軍を担当させることが球団から正式に発表された[30]。結局、この年のシーズン終了後にオリックスを退団[31]。
2018年からは、関西テレビ・J SPORTSの野球解説者や、サンケイスポーツ野球評論家としての活動を、13年振りに再開している[32]。
プロ野球選手としては非常に細身な体型で、最高球速130 km/hの速球に70 - 90 km/h台のスローカーブ、120 km/h前後のフォークボールという、先発投手としては非常に少ない球種で勝負する異色の投手だった[33]。球速の遅さにまつわる逸話として、1990年9月20日の対日本ハムファイターズ戦(東京ドーム)で星野のすっぽ抜けたカーブを捕手の中嶋聡がミットを使わずに右手で直接捕球し、星野を超える球速で返球したことで失笑が起こった。ベンチに帰り星野は「素手で取るなよ。ミットが動いてなかったぞ」と機嫌を悪くしていたが、中嶋は「ミットが届かなかったんです」と誤魔化し事態は収まった[34]。ちなみに中嶋は1995年のオールスターゲームで行われたスピードガン競争で146 km/hを記録するなど球界屈指の強肩捕手だった。他にも完封されたチームの打者から「今日の星野は一段と遅かった」と言われるなど球速の遅さにまつわる話題は枚挙にいとまがない。
しかし、しなやかに腕を振る投球フォームから投げる速球は伸びがあり、高校時代はオーソドックスな上手投げであったフォームは1989年頃から徐々にテイクバックが小さくなり、最終的に投げる直前まで左手を体の横に隠し、極限までコンパクトにしたテイクバックから投げ込むフォームへと変化した。これにより打者からは投げる瞬間まで握りが見えず球種が読みにくく、ボールの出所も見えにくくなった。これらに加え40 km/h以上のスローカーブとの緩急差、そして「どの球種でも投球フォームが変わらない」という特徴により打ちづらく、打者には速球が数字以上に速く見えたと言われる。その緩急差に、梨田昌孝は「ストレートが一番速かった投手は?」という雑誌の取材に対し星野の名を挙げて「あまりにも速く感じて金縛りのようになった」と語り、初芝清は「(当時日本最速の球速158 km/hを記録した)伊良部より星野さんのほうが速いと思う」と発言、清原和博は「星野さんのストレートが一番打ちにくい」と評し、桑田真澄も数えるほどしか打者としての対戦経験は無かったが「ストレートがめちゃくちゃ速く感じる」と星野のストレートは強く印象に残ったという[35]。他にも中村紀洋、タフィ・ローズなど複数の打者が星野のボールは速かったと証言している。また、トニー・バナザードは星野のストレートの遅さと、それにもかかわらず打てないことからかなり苛立ち、よく星野に向かって怒っていたという[4]。まだ星野の情報を知らなかった頃のバナザードは、星野のカーブの余りの遅さに「侮辱された」と解釈して激高していた[36]。他にも片岡篤史は現役時代を振り返って一番苦手だった投手として星野の名前を挙げている[37]。
代名詞であるカーブを習得したのは高校時代であり、当時の高校の監督の勧める握りでカーブを投じてみた所、「投げると手首が返る」ほどにしなやかな星野の手首との相乗によって独特の大きな変化をするカーブが生まれた。ただ、この「手首が返る」という現象はカーブを投じる上では大きな武器であったが自分でも制御が利かないものであり、カーブの曲がりを意図して小さくすることも出来なければ、スライダーなどのオーソドックスな球種も習得できないという弊害もあった[38]。
こうした手首の特性から球種のバリエーションに乏しかった星野であったが、第2の武器となるフォークは3年目(1986年)のオフに習得した。当初はスプリットのような浅い握りを試したがしっくり来ず、寮の部屋でボールの持つ場所や握りを試行錯誤していると、「人差し指と中指を開いた状態で両指が縫目にかかる」特殊な握り方をした時に腑に落ちた感覚があり、翌日投げてみた所思い通りの落ち方をしたという[39]。この星野独自の握りのフォークは深い握りでありながら直球と比べてあまり減速せず、直球と同じような軌道から打者の手元で小さく沈み込むというスプリットと似た特性を持っており、直球待ちでタイミングを早く取った打者をこのフォークによって空振りさせることが出来るようになり、投球のバリエーションを増やした星野は翌1987年に初の2桁勝利を達成した。
星野の特徴にいち早く気がついたのが入団時の捕手だった中沢伸二で、星野の新人時代、「球は遅いけど、なかなか打てない面白いピッチャーがいるぞ」と二軍に調整に来ていた山沖之彦に話していた[4]。
クイックモーションの速さも武器であり、構え遅れたバッターに対して極端なクイックモーションでど真ん中に放り込んでカウントを取ることもあった。本人は「そんなせこいことばっかりやってたね」と謙遜したが、古田敦也は「それは超クイックで投げれる人しか無理」と評価している[40]。
奪三振が多く、2015年シーズン終了時点で日本プロ野球歴代21位の通算2041奪三振を記録している[注 2]。また通算与四球率3.13と制球力はあまり良くなく、球速の遅い投手ではあるものの伸びのあるストレートと少ない球種で三振を奪っていた。また129完投を記録している。この完投数は同年代に活躍して「ミスター完投」の異名を取った斎藤雅樹などより多い。
少年時代からプロ入りを目指していたが、180cm台の身長に対して体重65kgが精一杯という華奢な体格にプロの水準には遠く及ばない球速から、プロ入りは無理と酷評されていた。しかし、それをバネにして力任せや球威偏重ではない独自のスタイルを洗練することでプロ入りを果たし、球界を代表する投手の一人にまで上り詰めた。星野と同学年で同じく「球の遅い一流投手」に山本昌・香田勲男・小宮山悟などがいる。山本昌とは、男3人兄弟の次男で、自分だけ背が高く、自分だけ左利きといった共通点もある[41]。
現役当時の星野自身にとって球速は「調子のバロメーター」であり、同じ腕の振りができているかどうかの指標であった[40]。
本人は投手として大成する基礎を作ったトレーニングとしてとにかく走り込みを挙げている[40]。
北海道出身だったことから、当時の阪急の主力投手であった山田久志(秋田県出身)、今井雄太郎(新潟県出身)、佐藤義則(北海道出身)ら北国出身の先輩に可愛がられ、3人の「北の会」にも入れてもらった[4]。佐藤、今井は豪快だったが山田は自己節制も厳しく、星野は山田に「オーラを感じた。一流ってこういうものかと思った」と語っている[4]。
テレビゲームではゲームの仕様やシステムの都合上、実際の球速を忠実に再現すると、現実通りに活躍させることが難しくなることから、ファミリースタジアムシリーズでは1990年版までは138 - 140 km/h、「燃えろ!プロ野球シリーズ」では140 - 149 km/h、実況パワフルプロ野球シリーズでは130 km/h台後半と実際の球速よりもかなり速い設定となっていた。
漫画『ドカベン プロ野球編』では、登場人物である山田太郎をカモにすると描かれていた。水島漫画では『遅球王』とも[要出典]。
阪急時代に親会社の阪急電鉄の1988年初詣CMにて、当時宝塚歌劇団所属だった天海祐希と共演している。
家族については、1989年(平成元年)、前年のミス・ユニバース・ジャパンであり、同年のミス・ユニバース世界大会でも第4位となった坂口美津穂と結婚した。結婚後、坂口は専業主婦となり、娘2人と息子1人を設けた。二女の芽生(めばえ)は女優・タレントとして芸能界にデビューしている。坂口は小川菜摘と交流があり、その夫である浜田雅功一家とは、家族ぐるみの付き合いである。年末年始は共に家族同士で過ごすのが、30年以上の恒例になっているという[42]。浜田がMCを務める『ジャンクSPORTS』にも、自身が浜田と同じく吉本興業に所属していることもあり頻繁に出演している。
| 年 度 | 球 団 | 登 板 | 先 発 | 完 投 | 完 封 | 無 四 球 | 勝 利 | 敗 戦 | セ 丨 ブ | ホ 丨 ル ド | 勝 率 | 打 者 | 投 球 回 | 被 安 打 | 被 本 塁 打 | 与 四 球 | 敬 遠 | 与 死 球 | 奪 三 振 | 暴 投 | ボ 丨 ク | 失 点 | 自 責 点 | 防 御 率 | W H I P |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1985 | 阪急 オリックス | 17 | 3 | 0 | 0 | 0 | 2 | 2 | 1 | -- | .500 | 220 | 46.1 | 43 | 5 | 39 | 2 | 1 | 43 | 1 | 0 | 26 | 23 | 4.47 | 1.77 |
| 1986 | 35 | 20 | 4 | 0 | 0 | 9 | 8 | 0 | -- | .529 | 664 | 153.0 | 145 | 27 | 68 | 2 | 3 | 129 | 5 | 0 | 69 | 66 | 3.88 | 1.39 | |
| 1987 | 29 | 28 | 13 | 6 | 3 | 11 | 12 | 0 | -- | .478 | 738 | 179.0 | 138 | 16 | 67 | 2 | 3 | 170 | 8 | 1 | 81 | 77 | 3.87 | 1.15 | |
| 1988 | 27 | 27 | 16 | 1 | 0 | 13 | 9 | 0 | -- | .591 | 862 | 209.0 | 168 | 29 | 79 | 2 | 1 | 163 | 3 | 0 | 85 | 71 | 3.06 | 1.18 | |
| 1989 | 28 | 27 | 11 | 4 | 2 | 15 | 6 | 0 | -- | .714 | 808 | 194.0 | 173 | 24 | 78 | 0 | 2 | 160 | 11 | 0 | 78 | 75 | 3.48 | 1.29 | |
| 1990 | 27 | 27 | 10 | 1 | 2 | 14 | 9 | 0 | -- | .609 | 810 | 190.1 | 188 | 33 | 60 | 0 | 1 | 163 | 4 | 0 | 100 | 85 | 4.02 | 1.30 | |
| 1991 | 28 | 25 | 9 | 1 | 1 | 16 | 10 | 1 | -- | .615 | 806 | 193.2 | 165 | 17 | 75 | 1 | 0 | 138 | 6 | 0 | 82 | 76 | 3.53 | 1.24 | |
| 1992 | 27 | 25 | 16 | 5 | 2 | 13 | 9 | 0 | -- | .591 | 826 | 196.2 | 188 | 17 | 66 | 1 | 3 | 175 | 9 | 0 | 81 | 79 | 3.62 | 1.29 | |
| 1993 | 25 | 24 | 13 | 2 | 1 | 10 | 12 | 0 | -- | .455 | 760 | 185.1 | 172 | 10 | 52 | 2 | 3 | 153 | 5 | 0 | 73 | 69 | 3.35 | 1.21 | |
| 1994 | 22 | 22 | 8 | 0 | 1 | 10 | 10 | 0 | -- | .500 | 610 | 143.1 | 143 | 14 | 49 | 2 | 3 | 119 | 0 | 0 | 73 | 57 | 3.57 | 1.34 | |
| 1995 | 24 | 24 | 3 | 0 | 0 | 11 | 8 | 0 | -- | .579 | 647 | 156.2 | 133 | 15 | 51 | 1 | 1 | 112 | 4 | 0 | 65 | 59 | 3.39 | 1.17 | |
| 1996 | 22 | 22 | 6 | 3 | 2 | 13 | 5 | 0 | -- | .722 | 594 | 144.2 | 137 | 9 | 38 | 1 | 1 | 85 | 2 | 0 | 54 | 49 | 3.05 | 1.21 | |
| 1997 | 29 | 29 | 9 | 2 | 1 | 14 | 10 | 0 | -- | .583 | 845 | 202.2 | 194 | 16 | 54 | 1 | 2 | 121 | 3 | 0 | 87 | 73 | 3.24 | 1.22 | |
| 1998 | 22 | 22 | 4 | 2 | 1 | 6 | 10 | 0 | -- | .375 | 570 | 128.1 | 152 | 15 | 47 | 2 | 2 | 76 | 6 | 0 | 76 | 73 | 5.12 | 1.55 | |
| 1999 | 26 | 26 | 4 | 1 | 1 | 11 | 7 | 0 | -- | .611 | 669 | 156.2 | 151 | 16 | 62 | 1 | 1 | 96 | 4 | 0 | 77 | 67 | 3.85 | 1.36 | |
| 2000 | 阪神 | 21 | 21 | 3 | 1 | 0 | 5 | 10 | 0 | -- | .333 | 515 | 122.2 | 120 | 14 | 30 | 3 | 5 | 85 | 2 | 0 | 59 | 55 | 4.04 | 1.22 |
| 2001 | 10 | 5 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | 0 | -- | .333 | 126 | 29.1 | 32 | 4 | 5 | 1 | 2 | 28 | 1 | 0 | 15 | 15 | 4.60 | 1.26 | |
| 2002 | 8 | 7 | 0 | 0 | 0 | 2 | 1 | 0 | -- | .667 | 153 | 37.2 | 33 | 1 | 7 | 0 | 2 | 25 | 0 | 0 | 10 | 10 | 2.39 | 1.06 | |
| 通算:18年 | 427 | 384 | 129 | 29 | 17 | 176 | 140 | 2 | -- | .557 | 11223 | 2669.1 | 2475 | 282 | 927 | 24 | 36 | 2041 | 74 | 1 | 1191 | 1079 | 3.64 | 1.27 | |
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