称号:上皇 敬称 陛下 His Majesty the Emperor Emeritus [ 4]
束帯姿の明仁。袍は黄櫨染御袍、冠は立纓御冠。 即位礼正殿の儀にて高御座に立つ明仁。1990年(平成2年)11月12日。 明仁 (あきひと、1933年 〈昭和 8年〉12月23日 - )は、日本 の第125代天皇 (在位:1989年 〈昭和 64年〉1月7日 -2019年 〈平成 31年〉4月30日 )[ 注釈 2] 、上皇 (在位:2019年 〈令和 元年〉5月1日 - )。
御称号 は繼宮 [ 5] /継宮 [ 6] (つぐのみや)、お印 は榮 ( えい ) [ 7] 。敬称 は陛下 [ 8] [ 注釈 3] 。勲等 は大勲位 。また、ハゼ を専門 とする魚類学 者および研究者 。昭和天皇 と香淳皇后 の第1皇子[ 注釈 4] 。妻の上皇后美智子 との間に3人の皇子女がおり、長男は第126代天皇徳仁 。次男に秋篠宮文仁親王 (皇嗣 )、長女に黒田清子 (清子内親王 )がいる(誕生順)。
1989年1月7日の父・昭和天皇の崩御 に伴い日本国憲法 および現皇室典範 下で初めて皇位を継承 する。翌8日 に元号法 と政令 に基づき「平成 」へ改元 が行われた[ 9] 。2019年4月30日、皇室典範特例法 に基づき憲政史上初めて退位 した[ 注釈 5] [ 10] [ 11] 。2024年11月15日の崇仁親王妃百合子 の薨去以降、皇室 構成員16名の中で最高齢者である。現在の住居は、東京都 港区 元赤坂 の赤坂御用地 にある仙洞御所 。
燕尾服姿の明仁 皇居宮殿表御座所で公務を行う 2003年(平成15年)2月 撮影 1933年 (昭和8年)12月23日 午前6時39分、東京府 東京市 麹町区 (現・東京都千代田区 )宮城(現・皇居 )内の産殿にて、昭和天皇 ・香淳皇后 の第5子かつ第1皇男子として誕生[ 12] 。
姉に東久邇成子 (照宮成子内親王)、久宮祐子内親王 、鷹司和子 (孝宮和子内親王)、池田厚子 (順宮厚子内親王)、弟に常陸宮正仁親王 (義宮正仁親王)、妹に島津貴子 (清宮貴子内親王)がいる。
1952年(昭和27年)に皇室典範 に基づき18歳で成年 [ 13] 。1959年(昭和34年)に正田美智子 と成婚し、浩宮徳仁親王 (第1子/長男、第126代天皇)、礼宮文仁親王 (第2子/次男、現:秋篠宮 家当主、皇嗣)、紀宮清子内親王 (第3子/長女、結婚により皇籍離脱。現:黒田清子)の二男一女の3人の子女をもうける。
1989年(昭和64年)1月7日に実父である昭和天皇 の崩御 [ 14] に伴い皇位を継承 し、第125代天皇 に即位[ 15] [ 16] 。
天皇在位中は、高齢となっても年間約1000件の書類に目を通して署名・捺印し、各種行事に約200回出席し(いずれも平成23年/2011年度[ 17] )、20件近くの宮中祭祀 や祭儀を執り行うなど精力的に活動し[ 18] 、2015年(平成27年)に施設訪問の一部を皇太子徳仁親王・同妃雅子(当時)および秋篠宮文仁親王・同妃紀子に引き継いだ[ 19] [ 20] 。
天皇の退位等に関する皇室典範特例法 の施行により、2019年 (平成 31年)4月30日 で退位 、5月1日 に皇太子徳仁親王が第126代天皇に即位し上皇 となった。退位(譲位)に伴う皇位継承 が行われたのは、光格天皇 から仁孝天皇 への譲位以来202年ぶりである。歴代天皇で最初に譲位した皇極天皇(斉明天皇として重祚) [ 注釈 6] より数えて59人目である。
天皇や皇族とともに皇室を構成している[ 21] 。存命中の皇室構成員として最年長であり、今上天皇以外の皇位継承権 を有しない唯一の男性皇室構成員となった。
魚類学者 としても知られ、ハゼ の分類を研究対象とする研究者である[ 22] [ 23] 。日本魚類学会 に所属し、自ら研究して書いた論文 28編(2018年時点)を同学会誌に発表[ 24] 。1992年(平成4年)には『Science 』誌に「"Early cultivators of science in Japan"(邦訳例:日本における科学の早期開拓者たち)」という題で寄稿した[ 25] 。また2000年(平成12年)、2008年(平成20年)、2016年(平成28年)には、日本国外の雑誌『Gene 』に第一著者として論文が掲載されている[ 26] [ 27] [ 28] 。
2012年撮影 また長年のハゼの分類学的研究に対する貢献を称え、新種のハゼの一種の命名に、1992年(平成4年)にはPlatygobiopsis akihito と[ 29] 、2005年(平成17年)にはExyrias akihito [ 30] 、2007年(平成19年)にはハゼの新属にアキヒト属 (Akihito )と[ 31] 、自身の名を織り込んだ献名 がなされた。
2020年 には、南日本 に生息するオキナワハゼ属 の新種を発見した。新種発見は2003年 以来17年ぶりであり、退位後初めての研究成果でもある[ 32] 。
皇族および天皇としての国際親善のほかに、魚類研究での外国との交流もあり、皇太子時代に問い合わせに応答した中国 の魚類学者に年賀状 を毎年送っている[ 33] 。
民族学者 である梅棹忠夫 は、1971年(昭和46年)8月26日の仲間内の食事会にて「この前、皇太子殿下(=明仁親王)にご進講 に行った。皇太子殿下の植物学 に対する造詣はたいしたもの。立派に東大 、京大 教授 が務まる。学者 としては一流だ。」と述べている[ 34] 。
キマダラハゼ :Astrabe flavimaculata Akihito et Meguro[ 35] シマシロクラハゼ :Astrabe fasciata Akihito et Meguroヒメトサカハゼ :Cristatogobius aurimaculatus Akihito et Meguroコンジキハゼ :Glossogobius aureus Akihito et Meguroクロオビハゼ :Myersina nigrivirgata Akihito et Meguroミツボシゴマハゼ :Pandaka trimaculata Akihito et Meguroアワユキフタスジハゼ :Callogobius albipunctatus Akihito and Ikedaセボシフタスジハゼ :Callogobius dorsomaculatus Akihito and Ikeda昭和天皇 、香淳皇后 夫妻は、結婚に際し、主体的な意思で一夫一妻制 を推進した。しかし、4人連続で皇女(内親王 )が誕生し、天皇に側室 を求める意見や、当時の皇嗣である皇弟秩父宮雍仁親王 を推す動き等、皇位継承を巡る様々な動向があった。
1933年 (昭和8年)12月23日 午前6時39分、宮城(現・皇居 )明治宮殿 内の産殿にて誕生[ 12] 。昭和天皇 、香淳皇后 の第5子にして初の皇子(第一皇男子、親王 )であった。
御七夜の12月29日 午前9時、浴湯の儀 (及び鳴弦の儀 )が執り行われた[ 36] 。読書役は市村瓚次郎 (同控:辻善之助 )、鳴弦役は有馬良橘 海軍大将と大給近孝 子爵(同控:松浦靖 子爵、細川立興 子爵)が務めた[ 37] 。同日午前11時、命名の儀が執り行われ[ 36] 、称号「繼宮 」(つぐのみや)、「明仁 」(あきひと)と命名された[ 38] 。
父である昭和天皇による命名で、いずれも明治 3年1月3日 (1870年2月3日)の明治天皇 の即位に際して発せられた詔勅 『大教宣布 』より「…立極垂統、列皇相承、継 之述之…宜明 治教以宣揚惟神之大道也…(「極〈皇位〉」を立て「統〈皇統〉」を垂れ、列皇〈歴代天皇〉は相承し、之を継ぎ之を述べ…よろしく治教を明らかにし以て「惟神〈かんながら〉」の大道を宣揚すべき也)」に出典を求め、命名されたものである。
お印の「榮 (えい)」は文字であり、「草花が盛んに茂る様子」を意味する[ 7] 。
待望の皇位継承者誕生とあり、国内の沸き立ち方は並々ならぬものがあった。民間では、北原白秋 作詞、中山晋平 作曲で奉祝歌『皇太子さまお生まれなつた 』が作られた。
香淳皇后 に抱かれる継宮明仁親王(1934年撮影、満1歳頃)
誕生した際、昭和8年皇室令第11号が制定され、東宮に関する事務は、当面皇后宮職に置くとされた[ 12] 。
1936年(昭和11年)3月29日、将来の天皇になるべくして明仁親王は満2歳で両親の元を離れ、赤坂離宮 構内の東宮仮御所 で東宮傅育官によって養育される。当初は週に一度の日曜日には宮中に参内して両親と面会する機会もあったが、1か月を過ぎる頃から日曜日も東宮仮御所で過ごすようになった[ 39] 。
1940年(昭和15年)に学習院初等科 に入学。学習院 就学時代は山梨勝之進 院長の下で教育を受け、内舎人 信国鉄蔵を師として剣道 を練成。同級生に藤島泰輔 や安西邦夫 がいた。
1941年(昭和16年)12月8日、自身の学習院初等科2年次在学時に、日米開戦 。学習院初等科5年次の1944年(昭和19年)、第二次世界大戦 の戦火の拡大により、5月より約40名の学友らとともに沼津御用邸 に疎開 。サイパン陥落により本土上陸の懸念から、7月9日に沼津を出て栃木県 日光市 の日光田母澤御用邸 に移動した(弟の義宮 は山内御用邸 へ、学友は金谷ホテル へ入った)。本来なら皇太子は御用邸附属邸に滞在となるが、すでに内親王達が疎開していたので、本邸の皇后御座所などを使用した。1945年(昭和20年)に入り、東京で撃墜したB-29の乗員が御用邸近くの古河電工を爆撃目標とする地図を持っていたという知らせが届いたうえ、7月12日に近隣の宇都宮市も空襲にあったため、7月20日にさらに奥地となる奥日光 湯元温泉の南間ホテルに再疎開 。湯元での滞在は隠密裏となるので食糧難のため学友とともに魚釣りや野草摘み、イナゴ捕獲などにも励んだ。8月15日、他の疎開児らとは別室にてラジオでの父帝による玉音放送 を聴き、終戦 を迎えた。8月17日には終戦を受け入れない参謀中佐2名が湯元まで訪れ、「皇太子を即位させて本土決戦を行う」と皇太子の身柄を要求されたが、近衛師団長より皇太子を守ると密命を受けて、疎開に同行していた少佐が「負けたら、皇太子は天皇に弓を引いた逆賊の長となり天皇に即位できなくなる」と諭した。東京空襲で東宮仮御所が焼失していたこともあり、しばらく湯元での滞在を続け11月7日に帰京した[ 40] 。
終戦翌年の1946年(昭和21年)4月より、学習院大学英文科教授のイギリス人であるレジナルド・ブライス を、英語の家庭教師として迎える。また、同年10月から1950年(昭和25年)12月まで、父・昭和天皇の「西洋 の思想と習慣を学ばせる」という新しい皇太子への教育方針に従い、アメリカ合衆国 の著名な女性の児童文学 者にしてクエーカー 教徒のエリザベス・ヴァイニング (日本では「ヴァイニング夫人」として知られている)が家庭教師 として就き、その薫陶を受ける[ 41] 。ちなみに、ヴァイニングから与えられた英語名は「ジミー」だった[ 42] 。1949年(昭和22年)6月27日には、ヴァイニングとともにGHQ の設置された第一生命館 を訪問して連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー と面会した。このときマッカーサーは「殿下は落ち着いて、まことに魅力的なお方だった」と好印象を持ったといわれる[ 43] 。また、西洋で流行していたボードゲーム のリバーシ(現在のオセロ )を嗜み、昭和天皇とたびたび対戦して知恵を磨いた[ 44] 。
1950年(昭和25年)、学習院高等科 2年の際に馬術部の主将となる[ 45] 。
1951年(昭和26年)10月、学習院高等科の修学旅行 に参加。学友とは前半別行程で、20日夜に青森行きの夜行準急 列車で出発。青森県内を回った後の26日、岩手県平泉 で修学旅行に合流、29日に帰京した[ 46] 。
1952年 (昭和27年)11月10日 、皇居仮宮殿表北ノ間で立太子の礼 と皇太子明仁親王の成年式が挙行された。同日、大勲位 に叙され、菊花大綬章 を授けられる。
1953年 (昭和28年)3月30日 から同年10月12日 までの半年余りにわたり、人生初の外遊。ヨーロッパ 12か国およびアメリカ合衆国 、カナダ を歴訪。同年6月2日 、エリザベス2世 英国女王 (1952年2月6日に父のジョージ6世 国王の崩御により即位)の戴冠式 へ父・昭和天皇 の名代 として各国王族らと共に参列。当時の地位は皇太子 であったが、昭和天皇名代の格式が加わっていたため、応接する諸国では天皇としての応対を行った。後年、2007年(平成19年)の訪欧前の会見においては、このことを回想して名代の立場の重さを思い、相手国を慮る趣旨の発言を行っている。しかしこの外遊の結果(皇太子という身分とはいえ特別待遇されることはなく)、学習院大学 の単位が不足して進級できずやむを得ず中途退学したものの、長年の学友たちと学年が異なることを回避するため、以後は聴講生として学業を継続する[ 47] 。
欧米訪問からの帰国直後の同年12月に、結核 の感染を診断される。この時、ストレプトマイシン などの特効薬が発見されており、それの投与による治療を受け、1957年(昭和32年)までにほぼ治癒した。このことは長らく公にされていなかったが、2009年(平成21年)3月に行われた、第60回結核予防全国大会の挨拶にて、自ら明かした[ 48] [ 49] 。
1957年(昭和32年)8月19日、避暑で訪れていた長野県 北佐久郡 軽井沢町 の軽井沢会テニスコート でのテニス トーナメントで日清製粉グループ 会長(当時)であった正田英三郎 の長女、正田美智子 と出会い、テニスを通して交際を深めた。宮内庁 職員の作品展に『女ともだち』と題した彼女の写真 を出品した。しかし、「皇太子が積極的に正田美智子との結婚を考えている」ということが分かると、皇室内外からの反対もあった。昭和天皇の侍従長 を務めた入江相政 の著作『入江相政日記 』には、「『東宮様 のご縁談について平民 からとは怪しからん』と母・香淳皇后 が秩父宮妃勢津子 、高松宮妃喜久子 の両親王妃と共に昭和天皇に訴えた」という内容の記述がある。
1959年(昭和34年)1月14日に納采の儀 が、同年4月10日に皇太子明仁親王と正田美智子の結婚の儀 が執り行われた。明治 以降では初の皇族、華族以外からの皇太子妃(将来の皇后 )であり、また成婚に至る過程が報道されたこともあって、市民からは熱烈に歓迎され、国民的な「ミッチー・ブーム 」が起る。成婚のパレード は盛大に行われ、多数の国民から祝福を受けた。2人の成婚の様子を生中継放送で視聴するために、当時高価であったテレビ も一般家庭に普及し始めた。また婚礼を祝して『祝典行進曲 』が作曲された。同年7月15日に、皇太子妃美智子の第一子懐妊が発表された。
1960年(昭和35年)2月23日に第1子、第一男子浩宮徳仁親王 (ひろのみや なるひと)が誕生。3月には妹、清宮貴子内親王 が、明仁親王の学友だった島津久永 と結婚した。
同年8月6日、広島平和記念式典 に参列する。皇族として初の参加だった[ 50] 。
同年9月22日から同年10月7日にかけて、妃美智子を伴って夫妻で日米修好100周年記念のためアメリカ合衆国 を16日間にわたり訪問した。
1965年(昭和40年)11月30日、第2子、第二男子礼宮文仁親王 (あやのみや ふみひと)が誕生。1969年(昭和44年)4月18日、第3子、第一女子紀宮清子内親王 (のりのみや さやこ)が誕生。
沖縄県 の祖国復帰 (沖縄返還 )が実現してから、3年後の1975年(昭和50年)の沖縄国際海洋博覧会 に際して、父・昭和天皇が大正 期の皇太子時代に行啓した沖縄県へ、立太子後、初めて訪問した。海洋博覧会の写真を収めた書籍『海 その望ましい未来』や、記録映画『公式長編記録映画 沖縄海洋博』にも開会式・閉会式に親覧した皇太子および同妃の姿が収録されている[ 注釈 7] 。
この訪問中には複数の事件があった。同年7月17日、皇太子妃美智子を伴い夫妻でひめゆりの塔 に献花のため訪問したところ、その場に潜んでいた過激派2人(沖縄解放同盟準備会メンバーの知念功と共産主義者同盟 のメンバー)から火炎瓶 1本を投げつけられた(ひめゆりの塔事件 )。なお、沖縄入りした皇太子および同妃の自動車に空き瓶などを投げつけるなどのテロ(犯人は公務執行妨害 で逮捕)も発生した[ 51] 。皇太子および同妃に怪我はなく、つつがなく日程を終了した。
皇太子は「沖縄戦 における県民の傷跡を深く省み、平和への願いを未来へつなぐ。」と県民の心情を思う談話を発表している。また当時より、沖縄に関心をよせて琉歌 を研究し、琉歌8首を発表している[ 52] 。
1976年(昭和51年)1月18日の海洋博閉会式にも、揃って出席した。
1987年(昭和62年)にも、沖縄海邦国体 の前に病臥した父・昭和天皇(昭和天皇が在位中の天皇として、史上初めて沖縄を訪問する予定だった)の名代として沖縄を訪問し、同年10月24日、南部戦跡の平和祈念堂で「先の大戦で戦場となった沖縄が、島々の姿をも変える甚大な被害を被り、一般住民を含むあまたの尊い犠牲者を出したことに加え、戦後も長らく多大の苦労を余儀なくされてきたことを思う時、深い悲しみと痛みを覚えます」との天皇のことばを代読した。当時の西銘順治 沖縄県知事 は「お言葉に接し、感動胸に迫るものがあります。これで、ようやく沖縄の戦後は終わりを告げたと思う。」と談話を発表した。
1989年(昭和64年)1月7日、父・昭和天皇の崩御を受け、直ちに歴代3位の年長となる55歳で第125代天皇に即位[ 注釈 8] (現行の皇室典範により、「践祚〈せんそ〉」と「即位〈そくい〉」が統合されたため、従前の「践祚」に相当)。同日、皇位継承 の儀式(剣璽等承継の儀 )を執り行い[ 53] 、翌8日 、元号法に基づき「平成」に改元された。9日 に執り行われた即位後朝見の儀 では「皆さんとともに日本国憲法を守り、これに従って責務を果たすことを誓い、国運の一層の進展と世界の平和、人類福祉の増進を切に希望してやみません」との「おことば 」を発した[ 54] [ 53] 。
諒闇 が明けた1990年(平成2年)の即位の礼 に際して、京都御所 (京都府 京都市 上京区 )から皇居 (東京都 千代田区 )へ高御座 が運ばれるなど大掛かりな準備が行われ、同年11月12日に中心儀式である即位礼正殿の儀 が執り行われた[ 53] 。祖父の大正天皇 及び父の昭和天皇 とも即位の礼を京都御所 で挙行しており(即位礼紫宸殿の儀)、関東 (東京都 )の地で即位した初めての天皇となる。同日、即位の礼「祝賀御列の儀」としてオープンカー でのパレードが行われ、皇居から赤坂御所 までの4.7km の道のりを、約12万人の市民が埋め尽くし新しい天皇と皇后の即位を祝福した。同年11月22日・23日、皇居内で大嘗祭 が執り行われた。
1992年(平成4年)10月、中華人民共和国 政府の招待で同国を訪問する(天皇訪中 )[ 55] 。日中関係史 からみても、歴代の天皇のうち中国大陸 を訪問したのは初の出来事であり[ 56] 、生前の昭和天皇が希望していながら果たせなかったことでもあり[ 57] 、当時の中国の外務大臣に相当する外交部長 だった銭其琛 は当時を回顧して「天皇訪中は六四天安門事件 での西側諸国 の対中制裁の突破口という側面もあった」と明かしている[ 58] 。
1998年 (平成10年)2月7日 に長野オリンピックスタジアム で行われた1998年長野オリンピックの開会式 に皇后美智子同伴で臨席し、開催国の国家元首として「ここに、長野における第18回オリンピック冬季競技大会の開会を宣言します。」と開会宣言をした。天皇による近代オリンピック 開会式での開会宣言は、1964年東京オリンピック ・1972年札幌オリンピック での父・昭和天皇 に続いて3回目となった。
1999年(平成11年)に即位10周年を迎え、同年11月20日に「御即位十年をお祝いする国民祭典 」が開催され、同日夜には二重橋 で祝賀の声に応えた。この折に、宮内庁 は即位10年記録集『道』を刊行している。
1993年(平成5年)には、父の昭和天皇が実現できなかった沖縄県 行幸を自身の在位中で果たした。この折には皇后美智子(当時)とともに、予定になかったひめゆり学徒隊 の慰霊碑への訪問を行った。2003年(平成15年)までに、47都道府県 の日本全国の巡幸を達成した。
2009年(平成21年)11月12日、政府 主催の「御在位二十年記念式典 」・民間主催の「御即位二十年をお祝いする国民祭典 」が執り行われた。
2009年(平成21年)12月15日、習近平 中華人民共和国副主席 (後の中国最高指導者 )と会見。この会見の申請が、慣例の1か月前を切って行われたことから騒動となり、羽毛田信吾 ・宮内庁長官 が記者会見で政府・民主党 政権・鳩山由紀夫内閣 を批判する発言を行った(天皇特例会見 )。
2011年(平成23年)3月16日、東北地方太平洋沖地震 (東日本大震災 )の発生とそれに伴う被害に鑑み、国民および被災者に対し異例のビデオメッセージ を放送した[ 59] 。
剣璽等承継の儀 1989年(昭和64年)1月7日
平成の大嘗宮(再現模型)
祝賀御列の儀
饗宴の儀
2005年(平成17年)6月28日、米国自治領・
サイパン島 訪問時、皇后美智子と共に。
2016年(平成28年)1月2日、一般参賀 2016年(平成28年)7月13日、NHK や『毎日新聞 』が、天皇の位を生前に皇太子 (次期皇位継承者)に譲る「生前退位 (譲位 )」の意向を、宮内庁関係者に示したと一斉に報道[ 60] [ 61] [ 62] 。諸報道によれば、天皇として「憲法 に定められた象徴としての務めを十分に果たせる者が天皇の位にあるべきだ」と考えており、「数年内の譲位を望んでいる」とされ[ 61] [ 62] 、「天皇自身が広く内外に『お気持ち』を表わす方向で、調整が進められている」とされた[ 61] [ 62] 。しかし、宮内庁の山本信一郎 次長(当時、現・宮内庁長官)は、報道を受け、各社の取材に対して「そうした事実は一切ない。陛下は憲法上のお立場から、皇室典範や皇室の制度に関する発言は差し控えてこられた。」と報道内容を否定した[ 63] 。8月8日、約11分間のビデオを通じて、自ら個人の「お気持ち」を『象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば 』として表明。自身が即位後、日々、天皇として望ましい在り方を模索して今日に至ったが、高齢になったため、全身全霊で象徴としての務めを果たしていくことが難しくなってきたと案じていることへの国民の理解を求めた[ 64] [ 65] 。
2017年(平成29年)12月1日開催の皇室会議 において、天皇退位の日が2019年(平成31年)4月30日に決定した。同8日、政府は同日付での退位を閣議決定 した(第4次安倍内閣 )[ 66] [ 67] 。
2019年(平成31年)2月24日、政府 主催の「天皇陛下御在位三十年記念式典 」が、皇后美智子との成婚60周年を迎えた同年4月10日には「天皇陛下御即位三十年奉祝感謝の集い 」が開催された。
在位中の2019年(平成31年)4月1日、元号法 に基づき新元号「令和」が公表され、元号を改める政令 に署名し、公布 した[ 68] 。なお、新元号が政府より事前発表されるにあたり、この影響で日本の情報システム 業界では新規案件で元号を使用した機能の受注については、新規元号発表までは見合わせるか、西暦 のみか、2018年(平成30年)までとするかで動きが分かれた。カレンダー業界は印刷発行と販売に多大なる影響が出ることを危惧していた[ 69] [ 70] 。
退位の日である2019年(平成31年)4月30日の午後5時から、国事行為 として退位礼正殿の儀 が皇居宮殿正殿松の間で行われ、これが天皇としての最後の公務となった。
天皇の退位等に関する皇室典範特例法 の規定により、明仁はこの日をもって退位し、翌5月1日午前0時に上皇 となり、自身の第1皇男子である皇太子徳仁親王が第126代天皇に即位した。同時に元号法 の規定により、「平成」から「令和」に改元 された。これにより2019年は、「平成31年(1月1日 - 4月30日)」と「令和元年(5月1日 - 12月31日)」という2つの元号が存在することとなった。
天皇の退位等に関する皇室典範特例法 第三条前条の規定により退位した天皇 は、上皇 (読み:じょうこう)とする。 上皇 の敬称 は、陛下 とする。上皇 の身分 に関する事項の登録、喪儀 及び陵墓 については、天皇の例による。上皇 に関しては、前二項に規定する事項を除き、皇室典範 (第2条、第28条第2項及び第3項並びに第30条第2項を除く。)に定める事項については、皇族 の例による。2017年(平成29年)6月9日の国会 参議院 本会議での議決により『天皇の退位等に関する皇室典範特例法 』が成立し、7日後の16日に公布された。2019年(平成31年)4月30日に同法が完全に施行され、翌日の令和元年5月1日午前0時を以って天皇の地位と職務は全て皇太子徳仁親王へと引き継がれた。明仁は、1868年(慶応 4年/明治元年 )の一世一元の制 制定後、かつ憲政史上初めて譲位した天皇となった[ 注釈 9] 。
天皇退位特例法施行にともない、宮内庁には上皇と上皇后 の家政機関 として「上皇職」が設置された。
上皇は公的な場に姿を見せることはなく、上皇后の美智子とともに私的な日本各地への訪問や芸術鑑賞などで日々を過ごす。その中でも週一回は、皇居内の生物学研究所へ通い、魚類の研究を続けている[ 71] 。
86歳となった同年12月23日 は、前年まで天皇誕生日 (祝日)であったが、退位後は平日となり、翌年2020年 (令和2年)より第126代天皇・徳仁の誕生日である2月23日 が新たな天皇誕生日となった。
2020年 (令和2年)1月2日 、上皇后美智子、天皇徳仁と皇后雅子および他の皇族らと共に、皇居での新年一般参賀に参加。退位後に初めて公の場で姿を見せた。
宮内庁 は同年1月30日 、上皇が29日午後6時半ごろ、私的外出ののち吹上仙洞御所に戻って約1時間後に倒れたと発表した。意識はしばらくして戻り、翌30日に宮内庁病院で頭部MRI 検査と専門医による診察を受けたが、症状の原因となる所見は見られず、当面は経過観察を続けるとした。また同庁によると、上皇が倒れた際に上皇后が非常ブザーで侍医を呼んだ。上皇はいびきのような息づかいだったが、侍医の診察開始から間もなく意識を回復したという。夕食を取らずにそのまま就寝した。30日朝は通常通り朝食をとったという。2019年(令和元年)7月には脳貧血 のため立っていられず、かがみ込む症状があった。宮内庁は、上皇の最近の体調に問題はなかったとし、仙洞仮御所(旧:高輪皇族邸)への引越準備に加え、ハゼ科魚類の研究や上皇后との日課の散策、読書などをして静かに過ごしているという[ 72] 。
同年3月31日 に、上皇后と共に仮住居である仙洞仮御所(高輪皇族邸 )に引っ越す。
2021年 (令和3年)9月2日 、在位中に崩御した父・昭和天皇 (宝算87)の生涯日数3万2031日と並び、明確な記録が残る歴代天皇 の中で最長寿となる[ 73] 。
2022年 (令和4年)4月26日 、妻の上皇后美智子とともに静養先の葉山御用邸を出発し、赤坂の仙洞御所(旧赤坂御所)に引っ越した[ 74] 。
上皇の喪儀 及び陵墓 の格式については、皇室典範特例法第3条において、天皇と同様としている。従って、崩御 に当たっては大喪の礼 が挙行され、武蔵陵墓地 の大正天皇多摩陵西側に明仁の陵墓 が造営される。また、埋葬については従前の天皇・皇后は土葬 で行われていたが、明仁および美智子の意向により火葬 により執り行われることが、天皇・皇后在位中であった2013年11月14日、宮内庁により発表されている。火葬方法については、皇族が火葬に付される落合斎場 ではなく、武蔵陵墓地に設置される専用施設において実施される[ 75] 。
1938年(昭和13年)10月、三輪車を漕ぐ幼少期の皇太子明仁親王(当時) 1933年(昭和8年)12月23日午前6時39分、宮城(現・皇居)内産殿にて誕生。昭和天皇 、香淳皇后 第5子にして初の皇子(第1皇男子)。 1940年(昭和15年)に学習院 初等科に入学。 1944年(昭和19年)、第二次世界大戦 の戦火の拡大により疎開。 1952年(昭和27年)11月10日、皇居仮宮殿表北ノ間にて立太子の礼 並びに成年式。同日、大勲位 に叙され、菊花大綬章 を授与される。 1953年(昭和28年)3月30日から同年10月12日までイギリス へ初の外国渡航・外遊。道中、14か国にお立ち寄り[ 注釈 10] 。同年6月2日、名代としてエリザベス2世 英国女王戴冠式へ台臨。 同年6月6日、エプソム競馬場にてエリザベス2世女王の隣席でダービー観戦。 1959年(昭和34年)1月14日、正田美智子 との納采の儀(婚約)。 4月10日、皇太子明仁親王と正田美智子の結婚の儀。 1960年(昭和35年)2月23日に第1子、第1皇男子浩宮徳仁親王 誕生。 1965年(昭和40年)11月30日、第2子、第2皇男子礼宮文仁親王 誕生。 1969年(昭和44年)4月18日、第3子、第1皇女子紀宮清子内親王 誕生。 1975年(昭和50年)、沖縄県 訪問。沖縄国際海洋博覧会に出席。ひめゆりの塔事件 起こる。 1989年(昭和64年/平成元年)1月7日午前6時33分、父・昭和天皇 崩御。直ちに第125代天皇に即位。即位の礼 最初の儀式・剣璽等承継の儀 に臨む。「昭和 」最後の日。 1月8日、「平成 」に改元。 1月9日、即位後朝見の儀。即位後初めて「おことば」を発する。 2月24日、昭和天皇斂葬の儀 。新宿御苑において国葬・大喪の礼 に臨む。 1990年(平成2年)11月12日、皇居宮殿正殿にて即位の礼の中心的儀式・即位礼正殿の儀 挙行。祝賀御列の儀。 11月22日・23日、大嘗祭 の中心的儀式・大嘗宮の儀斎行。 1991年(平成3年)2月23日、長男・皇太子徳仁親王の立太子の礼挙行。 1992年(平成4年)10月、中華人民共和国 訪問。 1999年(平成11年)、在位10年を迎える。11月20日、「御即位十年をお祝いする国民祭典」開催。 2000年(平成12年)6月16日、母・香淳皇后 (皇太后良子)崩御。 7月25日、香淳皇后斂葬の儀。 2005年(平成17年)11月12日、長女・紀宮清子内親王と黒田慶樹 が結婚。内親王皇籍離脱 (黒田清子)。 2009年(平成21年)、在位20年を迎える。11月12日、政府主催の「御在位二十年記念式典」・民間主催の「御即位二十年をお祝いする国民祭典」開催。 2011年(平成23年)3月16日、東日本大震災 に関し、ビデオメッセージを放送。 2016年(平成28年) 2017年(平成29年) 2019年(平成31年/令和元年)在位30年を迎える。2月24日、政府主催の「天皇陛下御在位三十年記念式典」が、美智子との成婚60周年を迎えた同年4月10日には「天皇陛下御即位三十年奉祝感謝の集い」が開催された。 4月1日、新元号「令和 」公表。元号を改める政令公布。 4月30日、皇居宮殿正殿にて退位の礼 挙行。天皇の退位等に関する皇室典範特例法が施行され、この日限り退位。「平成」最後の日。 5月1日午前0時、長男・皇太子徳仁親王が第126代天皇に即位。「令和 」に改元。明仁は上皇 となる(光格天皇 以来、約200年ぶり)。 2020年(令和2年)1月2日、妻・上皇后美智子と共に退位後初めて新年一般参賀に姿を見せる。 皇太子時代のMGM 撮影所見学、1953年(昭和28年) 1955年4月7日から13日にかけて、イタリア大使館とウニタリア・フィルム主催の「第1回イタリア映画祭」が東京都と大阪府で開かれた。皇太子明仁は初日に上映された『ナポリの饗宴』をシルヴァーナ・パンパニーニ とともに東京宝塚劇場 で観劇した[ 77] [ 78] 。 皇太子時代「第38回毎日庭球選手権大会」にて、1959年(昭和34年)9月 1953年(昭和28年)6月2日のエリザベス2世 英国女王戴冠式への台臨のために同年3月30日から同年10月12日まで外遊、人生初の外国渡航。 半年にわたって外遊した結果、単位不足で進級できず留年を回避するため、学習院大学政治学科をやむなく中途退学し、その後は聴講生として大学に在籍し続けた。聴講生となって以降は例外なく皇族としての特権なども許容されず、クラブ活動にも原則として参加できなかった[ 82] 。宮内庁は、学歴を「学習院大学教育ご修了 」としている。なお学習院高等科出身者以外の政治学科同級生に両国高校 から現役進学した後の日本会議国会議員懇談会 初代会長島村宜伸 がいる。島村は1956年(昭和31年)3月に政治学士 となり、39年5か月後の1995年(平成7年)8月に村山改造内閣 で初入閣して文部大臣 の認証を受けている。 1959年(昭和34年)4月10日の結婚の儀の記念切手では、4種のうち10円と30円で皇太子妃と一緒の肖像[ 注釈 13] が発行された。また切手は郵政省 から皇室と正田家に「皇太子御成婚記念切手帖」が献上されている[ 注釈 14] 。 皇太子時代の1960年(昭和35年)に日米修好100年祭記念でアメリカ合衆国 を訪問[ 83] 。イリノイ州 のシカゴ 市長により寄贈されたミシシッピ川 水系原産のブルーギル を日本に持ち帰り、水産庁 の研究所に寄贈した。これは当時の貧しい食糧事情を思ってのことであったが、国内で異常繁殖したブルーギルは在来種 の水生昆虫や魚卵・仔稚魚を捕食して日本固有の生態系 を破壊する結果となった。2007年(平成19年)、滋賀県 大津市 で開かれた全国豊かな海づくり大会 で「外来魚 の中のブルーギルは50年近く前、私が米国より持ち帰り、水産庁の研究所に寄贈したものであり、当初、食用魚としての期待が大きく、養殖が開始されましたが、今、このような結果になったことに心を痛めています[ 84] 」と異例の(自己批判 を意味する)発言を行い、会場では驚きの声が上がった。この発言は本人の意向によりなされたもので、当初の原稿はより謝罪の色合いの強いものであったが、「ここまで謝罪する必要はないのでは」との地元からの意見もあり、式典前に改められていた[ 85] 。 父の昭和天皇崩御にあたり、相続税 4億2800万円を納めた[ 86] 。また、皇居のある千代田区には住民税 を納めている[ 86] 。 1991年(平成 3年)に雲仙普賢岳噴火 の際には、被災地を見舞う。 2008年(平成20年)9月8日、新潟県中越地震 の被災地を見舞うための行幸 の折、被害が甚大であった被災当時の山古志村 (現・長岡市 山古志)を視察。その後、山古志の被災者と懇談し、励ましの言葉をかけた。また、中越地震発生4日後に救出された男児(当時2歳)が無事に成長していることを知り、その成長を喜んだ[ 87] 。 2002年(平成14年)2月20日、チェロ の師・清水勝雄 が死去。その夜、皇后美智子のピアノ 伴奏に合わせて演奏を行い、故人を偲んだ[ 88] 。 2003年(平成15年)3月19日、「日本化学会 創立125周年記念式典」に皇后美智子、常陸宮正仁親王 と共に出席した[ 89] 。 2005年(平成17年)6月28日、サイパン島 訪問の際には当初の予定に含まれていなかった「韓国・朝鮮人慰霊碑(追悼平和塔)」に皇后美智子を同伴で立ち寄った。これは天皇の配慮だったとされている[ 90] 。 2008年(平成20年)11月8日、先代の昭和天皇 同様、「慶應義塾大学 創立150周年記念式典」に皇后美智子と共に夫妻で出席し「おことば 」を述べた[ 91] 。 2011年(平成23年)3月11日発生の東北地方太平洋沖地震 (東日本大震災 )については前述のように、異例の「ビデオメッセージ」を全日本国民向けに送ったほか、各地の避難所を皇后美智子と共に巡幸啓している[ 92] 。後年、震災発生時の菅直人政権 が、当時天皇在位中であった明仁(上皇)らに「京都 か京都以西に避難するよう」非公式に打診していたと、元政権幹部が2020年(令和2年)12月29日までに証言した。宮内庁側は上皇の意向として「国民が避難していないのに、あり得ない」と伝え、菅直人政権側は断念したと伝えられた[ 93] 。 2013年(平成25年)4月15日、即位後初めて定例の静養や公的行事ではない1泊2日の私的旅行として皇后美智子と共に長野県 千曲市 にある「あんずの里 」に行幸啓した[ 94] 。同年7月には福島県 に行幸した。その後、年2回程度私的旅行が行われている。2014年(平成26年)5月には栃木県 渡良瀬遊水地 など、同年9月には青森県 八戸市 、2015年(平成27年)6月には宮城県 刈田郡 蔵王町 の北原尾[ 95] 、同年7月には福島県の復興公営住宅、2016年(平成28年)11月には愛知県 入鹿池 [ 96] [ 97] 、2017年(平成29年)9月には埼玉県 日高市 の高麗神社 、渋沢栄一 生地などを巡幸している[ 98] 。 高校生時代のエピソードとして、銀ブラ事件 が有名である。学習院高等科 3年の試験が終わった日、学友の橋本明 、千家崇彦 と3人で周囲の目を盗んで、東京・銀座 の町をぶらついた。高級喫茶店 「花馬車」で橋本の交際関係であった女性と合流し、皆で所持金を出し合い、一杯99円のコーヒー を飲み、洋菓子屋「コロンバン 」でアップルパイ と紅茶 を楽しんだが、ほどなく発見される。連れ出した学友は、警察と皇室関係者に叱責されたという。 上述の銀ブラ をはじめとする高等科時代のエピソードを基に、同級生だった藤島泰輔 が皇太子に捧げて書いた[ 99] 小説が『孤獨の人 』(1956年)である。同作は発売前からマスコミに取り上げられ、映画化もされた。一方、戦後の日本において、若く清新な「新生日本」にふさわしいともてはやされた皇太子の実像が、学友たちの権力争いの道具となり宮内庁職員らの窮屈な支配に諦めを抱く存在として描かれたことで、その人気は結婚によるミッチー・ブームが起こるまで陰りを見せた。背景には逆コース と呼ばれた民主化に逆行する風潮への批判があり、日本社会党 は国会でこの小説を取り上げ、宮内庁への批判を展開した[ 100] 。 経済学者の関根友彦 元ヨーク大学 教授は学習院初等科からの同級生で、特に中等科時代に親しく交流したという[ 101] [ 102] 。 靖国神社 には皇太子時代に5回参拝しているが、即位後は親拝していない。一方で靖国神社の元宮司 である南部利昭 には、宮司就任前に「靖国のこと、頼みます」と声をかけている[ 注釈 15] 。即位後の園遊会 で水木しげる に「『ゲゲゲの女房 』を見ましたが、絵をかくのは大変そうですね」と声をかけた[ 103] 。 ドナルド・キーン は、桃山時代 に日本に来た宣教師が「世界でもっともおいしいパン は、江戸で焼かれたものだ」と記録に残しているという話をしたときに、明仁から「それは、ヨーロッパにはない麦で焼いたから、おいしく感じたのではないですか」と予想外の答えを受け驚いたと語る。対談相手の工藤美代子 は、日清製粉創業家の正田家出身の美智子のおかげではないかとしている[ 104] 。天皇即位式で、「ニホンコク憲法」と読み上げた(竹下登 首相は「ニッポンコク憲法」と発音した)[ 105] 。 皇居がある千代田区は、2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)に伴う計画停電 の対象外地域であったが、「国民と困難を分かち合いたい」とする天皇の意向により、皇居は停電時間に合わせ電源を落とした[ 106] 。計画停電の実施が終了した後も計画停電発表終了までこの「自主停電」を続けたという[ 107] 。 2011年7月29日から8月10日、アメリカの調査会社GfKとAP通信 が、日本全国の成人1000人を対象に電話で行った世論調査では、各国の元首や首脳についての設問で、天皇は「好き」を70%獲得し、オバマ 米大統領(同41%)などを大きく抑えて1位であった[ 108] 。 1949年(昭和24年)、祖母・皇太后節子(後の
貞明皇后 )と共に
1952年(昭和27年)、父・昭和天皇と共に
2016年現在使用していたものと同型の2代目インテグラ 1953年(昭和28年)、皇太子は葉山 において学友の所有するアルファロメオ・1900 を運転している。この車は、当時最先端の高性能車 であった。このドライブでは、車の所有者の学友が助手席に座り、護衛または侍従が後部座席に収まり、皇太子が実際に運転している[ 109] 。 2018年(平成30年)時点、プライベートで運転するのは1991年(平成3年)製のグレーメタリックのホンダ・インテグラ (DA7・4ドアハードトップRX前期型・MT )[ 110] 。皇居内を移動する際に運転しており、現在は一般公道を走行することはないという[ 111] 。法令に基づき、2007年(平成19年)以降3年ごとに高齢者講習を受講の上運転免許を更新していたが、2016年(平成28年)の更新を最後にした[ 112] 。 カナダ空軍 のビクトリア 基地において軍用機 のコクピットに座ったこともあり、写真が残されている。またビクトリアからバンクーバー まではこの空軍機で移動した。同機の機長だったデーブ・アダムソン中佐とは2009年(平成21年)のカナダ訪問の際に再会し、「あなたのことはよく覚えています」と旧交を温めていた[ 113] 。 日産自動車(主に旧プリンス自動車)とのかかわり[ 編集 ] 1954年(昭和29年)、妹・清宮貴子内親王 (右)と、皇太子のプリンス・セダン の前にて 成婚前にはしばしば、成婚後もしばらくの間、愛車でドライブを楽しんでおり、国産車では1954年に献上されたプリンス自動車 (現:日産自動車 )のプリンス・セダン (後年、日産自動車に返還され現存)以降、天皇即位後にホンダ ・インテグラ に乗り換えるまで、通算9台のプリンス車を用いた。その中にはプリンスの試作1900cc エンジンを先行搭載した初代スカイライン や、高級車 「グランド・グロリア 」の後席スペースを100mm 延長した特注車も含まれていた。なおこのグロリアのストレッチ仕様車は、標準車のスペースでは「私はよいのですが美智子が…」という皇太子妃への気配りにより特別生産された[ 114] 。
その他、プリンスが納入した公用車については、同様に妃への気配りから「サイドシル(車体側面・ドア部分の敷居)をもっと低くできないか」(乗り降りをしやすくするため)という質問も出している。プリンス側では、後席シート座面を低く下げ、天井内張りの厚みを薄くすることで乗り降りのしやすさを改善した[ 114] 。 1952年(昭和27年)、弟・正仁親王 と共に軽井沢で乗馬を楽しむ明仁親王(手前) 長野県軽井沢にある軽井沢会テニスコート 。1957年(昭和32年)夏、明仁はこの場所で美智子と初めて出逢った 皇室には、皇居以外の長期滞在場所として各地に御用邸 が存在するが、皇太子時代の明仁は御用邸ばかりを利用していなかった点で、父・昭和天皇と大きく異なっている[ 115] 。それは、1949年夏、英語を教えていたエリザベス・ヴァイニング が滞在していた避暑地・長野県 軽井沢 を訪れたのが縁で、翌50年から毎年夏に軽井沢に滞在するようになったためである[ 115] 。
1949年の初滞在時には三井財閥 の別荘に滞在したが、翌年からは「千ヶ滝プリンスホテル 」(朝香宮鳩彦王 の元別荘)を定宿とし[ 116] 、1964年以降同ホテルは一般客の宿泊を受け入れず皇室専用としたため、事実上の「軽井沢御用邸」となった[ 115] 。しかし天皇即位後の1990年以降はこのホテルを利用しておらず、滞在先は非公開となった[ 115] 。
后妃・美智子と軽井沢のテニスコート で初めて出逢ったのも両者が同地にそれぞれ避暑滞在していたためであり、成婚後は徳仁ら皇子女を連れて家族としての思い出を育むなど、夫妻にとって特別な場所となった軽井沢には、上皇に即位した現在に至ってもなお毎年夏になると夫妻で滞在するのが恒例となっている[ 116] 。
なお、義娘である雅子 も美智子と同様に軽井沢に実家の別荘があり幼少期から滞在しているなど、軽井沢と皇室のゆかりは深い[ 116] 。
「さきに、日本国憲法 及び皇室典範 の定めるところによって皇位を継承 しましたが、ここに「即位礼正殿の儀 」を行い、即位 を内外に宣明いたします。このときに当たり、改めて、御父昭和天皇 の六十余年にわたる御在位の間 、いかなるときも、国民と苦楽を共にされた御心を心として、常に国民の幸福を願いつつ、日本国憲法を遵守し、日本国及び日本国民統合の象徴 としてのつとめを果たすことを誓い、国民の叡智とたゆみない努力によって、我が国が一層の発展を遂げ、国際社会の友好と平和、人類の福祉と繁栄に寄与することを切に希望いたします」 「日本国憲法 で、天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴である と規定されています。この規定と、国民の幸せを常に願っていた天皇 の歴史に思いを致し、国と国民のために尽くすことが天皇の務めであると思っています。天皇の活動の在り方は、時代とともに急激に変わるものではありませんが、時代とともに変わっていく部分もあることは事実です」 「私自身としては、桓武天皇 の生母が百済 の武寧王 の子孫であると続日本紀 に記されていることに韓国 とのゆかりを感じています。」 「私にとっては沖縄の歴史 を紐解くということは島津氏 の血を受けている者として心の痛むことでした。しかし、それであればこそ沖縄への理解を深め、沖縄の人々の気持ちが理解できるようにならなければならないと努めてきたつもりです。沖縄県 の人々にそのような気持ちから少しでも力になればという思いを抱いてきました」2003年(平成15年)12月18日、誕生日に際する記者会見にて[ 120] 。 母方の祖母・俔子 妃が島津家の出身である。島津家を藩主とする薩摩藩 は江戸時代 の琉球侵攻 後、現在の沖縄県にあたる琉球王国 を実質的に支配した歴史がある。 「やはり、強制 になるということではないことが望ましいですね」2004年(平成16年)10月28日、秋の園遊会にて、東京都 教育委員の米長邦雄 の「日本中の学校に国旗 を掲げ、国歌 を斉唱させるのが私の仕事です」という発言に対して。 「皇太子 の記者会見の発言 を契機として事実に基づかない言論も行われ、心の沈む日も多くありました」-人格否定発言 を受けて2004年(平成16年)、誕生日に際する文書回答より[ 121] 。 「日本は昭和 の初めから昭和20年の終戦 までほとんど平和な時がありませんでした。この過去の歴史をその後の時代とともに正しく理解しようと努めることは日本人自身にとって、また日本人が世界の人々と交わっていく上にも極めて大切なことと思います」 「皇室の中で女性が果たしてきた役割については、私は有形無形に大きなものがあったのではないかと思いますが、(中略)私の皇室 に対する考え方は、天皇および皇族 は、国民と苦楽を共にすることに努め、国民の幸せを願いつつ務めを果たしていくことが(中略)、皇室の伝統ではないかと考えているということです」以上、2005年(平成17年)12月19日、誕生日に際する記者会見にて[ 122] 。 「これからの日本の教育 の在り方については関係者が十分に議論を尽くして、日本の人々が自分の国と自分の国の人々を大切にしながら世界の国の人々の幸せに心を寄せていくように育っていくことを願っています。戦前のような状況になるのではないかということですが、戦前と今日の状況では大きく異なっている面があります。(中略)1930年から1936年の6年間に要人に対する襲撃が相次ぎ、総理 または総理経験者4人(濱口雄幸 、犬養毅 、高橋是清 、斎藤実 )が亡くなり、さらに総理1人(岡田啓介 )がかろうじて襲撃から助かるという、異常な事態が起こりました。そのような状況下では議員や国民が自由に発言することは非常に難しかったと思います。先の大戦に先立ち、このような時代のあったことを多くの日本人が心にとどめ、そのようなことが二度と起こらないよう日本の今後の道を進めていくことを信じています。」- 在日外国報道協会代表質問「教育基本法 改正に伴い愛国心 の表現を盛り込むことが、戦前の国家主義的な教育への転換になるのでは」に対して。 「残念なことは、愛子 は幼稚園 生活を始めたばかりで、風邪をひくことも多く、私どもと会う機会が少ないことです。(中略)いずれ会う機会が増えて、打ち解けて話をするようになることを楽しみにしています」2006年(平成18年)12月20日、誕生日に際する記者会見にて[ 124] 。 「皇太子妃 が病気の今、家族が皆で、支えていくのは当然のことです。私も、皇后 も、将来重い立場に立つ皇太子 、皇太子妃の健康を願いつつ、2人の力になっていきたいと願っています」2008年(平成20年)12月23日、誕生日に際する文書回答にて[ 125] 。 「大日本帝国憲法 下の天皇の在り方と日本国憲法 下の天皇 の在り方を比べれば、日本国憲法下の天皇の在り方の方が天皇の長い歴史で見た場合、伝統的な天皇の在り方に沿うものと思います」 「2人のそれぞれの在り方についての話し合いも含め、何でも2人で話し合えたことは幸せなことだったと思います。皇后 はまじめなのですが、面白く楽しい面を持っており、私どもの生活に、いつも笑いがあったことを思い出します。(中略)結婚によって開かれた窓から私は多くのものを吸収し、今日の自分を作っていったことを感じます。結婚50年を本当に感謝の気持ちで迎えます。」以上、2009年(平成21年)4月8日、結婚満50年に際する記者会見にて[ 126] 。 「今日の世界は決して平和 な状態ではあるとはいえません。明るい面として考えられるのは、世界 がより透明化し、多くの人々が事実関係が共有できるようになったことです。拉致の問題 も、それが行われた当時は今と違って、日本人 皆が拉致を事実として認識することはありませんでした。このため拉致が続けられ、多くの被害者が生じたことは返す返すも残念でした。それぞれの家族の苦しみはいかばかりであったかと思います」 「皇位継承 の制度にかかわることについては、国会 の論議にゆだねるべきであると思いますが、将来の皇室 の在り方については、皇太子 とそれを支える秋篠宮 の考えが尊重されることが重要と思います。2人は長年私と共に過ごしており、私を支えてくれました。天皇の在り方についても十分考えを深めてきていることと期待しています」以上、2009年(平成21年)11月11日、即位20年に際する記者会見にて[ 127] 。 「(公務の)負担の軽減は、公的行事の場合、公平の原則を踏まえてしなければならないので、十分に考えてしなくてはいけません。今のところしばらくはこのままでいきたいと考えています。私が病気になったときには、昨年のように皇太子と秋篠宮が代わりを務めてくれますから、その点は何も心配はなく、心強く思っています」2012年(平成24年)12月23日、誕生日に際する記者会見にて[ 128] 。 「戦後、連合国軍 の占領下にあった日本 は、平和と民主主義 を、守るべき大切なものとして、日本国憲法 を作り、様々な改革を行って、今日の日本を築きました。戦争で荒廃した国土 を立て直し、かつ、改善していくために当時の我が国の人々の払った努力に対し、深い感謝の気持ちを抱いています。また、当時の知日派 の米国人 の協力も忘れてはならないことと思います」 「天皇 という立場にあることは、孤独とも思えるものですが、私は結婚 により、私が大切にしたいと思うものを共に大切に思ってくれる伴侶を得ました。皇后 が常に私の立場を尊重しつつ寄り添ってくれたことに安らぎを覚え、これまで天皇の役割を果たそうと努力できたことを幸せだったと思っています」以上、2013年(平成25年)12月23日、誕生日に際する記者会見にて[ 129] 「天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為 や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうと思われます。また、天皇が未成年であったり、重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には、天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし、この場合も、天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。 天皇が健康を損ない、深刻な状態に立ち至った場合、これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。更にこれまでの皇室のしきたりとして、天皇の終焉に当たっては、重い殯(もがり)の行事が連日ほぼ2ヶ月にわたって続き、その後喪儀に関連する行事が、1年間続きます。その様々な行事と、新時代に関わる諸行事が同時に進行することから、行事に関わる人々、とりわけ残される家族は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが、胸に去来することもあります」 「明年4月に結婚60年を迎えます。結婚以来皇后 は、常に私と歩みを共にし、私の考えを理解し、私の立場と務めを支えてきてくれました。また、昭和天皇 を始め私とつながる人々を大切にし、愛情深く3人の子供を育てました。振り返れば、私は成年皇族として人生の旅を歩み始めて程なく、現在の皇后と出会い、深い信頼の下、同伴を求め、爾来この伴侶と共に、これまでの旅を続けてきました。天皇としての旅を終えようとしている今、私はこれまで、象徴としての私の立場を受け入れ、私を支え続けてくれた多くの国民に衷心より感謝するとともに、自らも国民の一人であった皇后が、私の人生の旅に加わり、60年という長い年月、皇室と国民の双方への献身を、真心を持って果たしてきたことを、心から労いたく思います」2018年(平成30年)12月20日、誕生日に際する記者会見にて[ 131] 「今日をもち、天皇 としての務めを終えることになりました。ただ今、国民 を代表して、安倍 内閣総理大臣 の述べられた言葉に、深く謝意を表します。即位から30年 、これまでの天皇としての務めを、国民への深い信頼と敬愛をもって行い得たことは、幸せなことでした。象徴としての私 を受け入れ、支えてくれた国民に、心から感謝します。明日から始まる新しい令和 の時代が、平和で実り多くあることを、皇后 と共に心から願い、ここに我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります」 国名 勲章名 アフガニスタン王国 最高位太陽勲章 (英語版 ) オーストリア オーストリア共和国功績勲章 (ドイツ語版 ) 大星章 (Groß-Stern )[ 141] バーレーン アール・ハリーファ勲章 頸飾 ベルギー レオポルド勲章 (オランダ語版 、フランス語版 ) 大綬章 (Grand Cordon /Grootlint ) ボツワナ 大統領勲章 ブラジル 南十字星国家勲章 大頸飾 カンボジア カンボジア王室勲章 大十字章 カメルーン 武勇勲章 大綬章 チリ 功労勲章 大頸飾 コロンビア ボヤカ勲章 大頸飾 コートジボワール コートジボワール国家勲章 大綬章 チェコ 白獅子勲章 (チェコ語版 ) 1級章頸飾 デンマーク エレファント勲章 (1953年8月8日)[ 142] エジプト ナイル勲章 大頸飾 エストニア テッラ・マリアナ十字勲章 頸飾[ 143] エチオピア帝国 ソロモン勲章 大頸飾 フィンランド フィンランド白薔薇勲章 大十字章(頸飾あり) ポルトガル キリスト騎士団 大十字章 (Grand-Croix) ガンビア ガンビア共和国勲章 (英語版 ) 大司令官章 (Grand Commander) ドイツ ドイツ連邦共和国功労勲章 特等大十字章 (Sonderstufe des Großkreuzes) ギリシャ 贖主勲章 大十字章 ハンガリー ハンガリー共和国国旗勲章 , Grand Cross with Chain アイスランド ファルコン勲章 大十字星章付き頸飾 インドネシア インドネシアの星勲章 、勲一等 アイルランド ダブリン市の自由 (英語版 ) (ダブリン市長から贈られる) イタリア イタリア共和国功労勲章 頸飾付き大十字章 (Cavaliere di Gran Croce Decorato di Gran Cordone) ヨルダン アル=フセイン・ビン・アリ勲章 頸飾 カザフスタン 金鷲勲章 ケニア ケニア黄金心臓勲章 (英語版 ) クウェート ムバーラク大王勲章 頸飾 ラトビア 三星勲章 , Commander Grand Cross with Chain[ 144] リベリア アフリカの星勲章 (英語版 ) Knight Grand Bandリベリア開拓者勲章 (英語版 ) 大綬章 リトアニア ヴィータウタス大公勲章 (リトアニア語版 ) 黄金頚飾[ 145] ルクセンブルク ナッサウ家黄金獅子勲章 (フランス語版 ) 騎士章 マラウイ 獅子勲章 大司令官章 (Grand Commander) マレーシア 王冠勲章 マリ マリ国家勲章 (フランス語版 ) 大綬章 メキシコ アステカ鷲勲章 (スペイン語版 ) 大綬章 モロッコ ムハンマド勲章 (英語版 ) 大頸飾ネパール王国 ラヤーニー勲章 、勲爵士 (1960年4月19日)[ 146] ビレンドラ・シャハ国王戴冠記念メダル (1975年2月24日)[ 147] オランダ オランダ獅子勲章 (オランダ語版 ) 大十字章[ 148] ナイジェリア 連邦共和国勲章 , 大騎士 ノルウェー 聖オーラヴ勲章 頸飾付き大十字章 (Storkors)[ 149] オマーン オマーン勲章 (英語版 ) 最高等級 パキスタン パキスタン勲章 、勲一等 パナマ マヌエル・アマドール・ゲレーロ勲章 , Gold Collar ペルー ペルーの太陽勲章 , Grand Cross in Brilliants フィリピン 名誉軍団勲章 (英語版 ) , Chief Commander[ 150] シカツナ勲章 グランド・カラー[ 151] ラカンデュラ勲章 (英語版 ) , Grand Collar ポーランド 白鷲勲章 (ポーランド語版 ) ポルトガル 剣のサンティアゴ軍事勲章 (ポルトガル語版 ) 大頸飾(1993年12月2日)エンリケ航海王子勲章 大綬章(1998年5月12日)[ 152] カタール 独立勲章 頸飾 サウジアラビア Badr Chain セネガル セネガル獅子勲章 , Collar 南アフリカ 喜望峰勲章 (英語版 ) 黄金大十字章(1995年7月4日)[ 153] スペイン 金羊毛勲章 騎士章[ 154] カルロス3世勲章 (スペイン語版 ) 大十字章 (Gran Cruz)カルロス3世勲章 (スペイン語版 ) 頸飾 (Collar) スウェーデン セラフィム勲章 (スウェーデン語版 ) , Knight with Collar[ 155] (1952年11月29日[ 156] ) タイ ラーチャミトラーポーン勲章 大チャクリー勲章 プーミポン・アドゥンヤデート国王(ラーマ9世)即位60周年記念メダル ウクライナ ヤロスラフ賢公勲章 (ウクライナ語版 ) 1級 アラブ首長国連邦 首長国連邦勲章 イギリス ガーター勲章 外国人騎士章(騎士団員番号985、1998年)[ 157] ロイヤル・ヴィクトリア勲章 名誉ナイト・グランド・クロス章(1953年)女王エリザベス2世戴冠式メダル (英語版 ) (1953年6月2日) ユーゴスラビア *ユーゴスラブ星勲章 (クロアチア語版 、セルビア語版 、スロベニア語版 ) ザイール *豹勲章 , Grand Cordon
身位 画像 名 生年月日 結婚の儀 出身 子女 上皇后 美智子 ( みちこ ) 1934年(昭和9年) 10月20日(91歳) 1959年(昭和34年) 4月10日/7001660000000000000♠ 66年226日 正田家 詳細
妻の上皇后美智子 との間に、2男1女の3子がいる。
1男3女の孫がいる。
※順序は兄弟姉妹間長子を優先。
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