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旧皇族

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
旧皇族(伏見宮系皇族)
民族大和民族
出身地日本の旗日本京都府平安京
現居住地東京都
京都府
家祖伏見宮栄仁親王
北朝第3代崇光天皇第1皇子
著名な人物東久邇宮稔彦王
内閣総理大臣
親族現在の皇室
→皇室との最近共通祖先
伏見宮貞成親王男系のみ)
霊元天皇女系含む)[注釈 1]
支流
伝統皇位継承権者の予備血統

臣籍降下華族となった者も含めて、多数の子孫がいる

旧皇族(きゅうこうぞく)とは、日本皇室にかつて所属していた者およびその子孫。元皇族旧宮家。特に、日本国憲法・現行皇室典範施行後の1947年昭和22年)10月14日臣籍降下(皇籍離脱)した11宮家51名およびその子孫を指す[1][2]

概要

[編集]

該当の11宮家は、現在の皇室とは男系での共通の祖先が約600年遡る遠縁である[1]。ただ、明治天皇昭和天皇内親王が嫁いでおり、女系では近縁となる家もある[1]昭和22年(1947年)に臣籍降下(皇籍離脱)して以降、法的には民間人であるが、第二次世界大戦後の混乱期の中で、GHQによる経済的圧迫という異例の事態で臣籍降下を行ったこともあり、それ以降も皇室からは、皇族に准じた扱いを受けている。また、皇位継承問題に関連して、皇族への編入の可能性も指摘されている。

旧皇族の構成

[編集]
11宮家一覧
宮家読み創始年初代離脱時
の当主
現在
の当主
備考
初代の続柄初代の
世数
[注釈 2]
初代当主
伏見宮ふしみ1456年[注釈 3]崇光天皇第1皇子1世栄仁親王博明王博明王に男子がおらず、断絶見込み。(参照
閑院宮かんいん1718年東山天皇第6皇子1世直仁親王春仁王春仁王に男子がおらず、すでに断絶。(参照
山階宮やましな1864年伏見宮邦家親王第1王子16世晃親王武彦王武彦王に男子がおらず、すでに断絶。(参照
北白川宮きたしらかわ1870年[注釈 4]伏見宮邦家親王第13王子16世智成親王道久王道久王に男子がおらず、すでに断絶。(参照
梨本宮なしもと1871年[注釈 5]伏見宮貞敬親王第10王子15世守脩親王守正王守正王に男子がおらず、すでに断絶。(参照
久邇宮くに1875年伏見宮邦家親王第4王子16世朝彦親王朝融王邦昭男系の子孫としては、邦昭の孫世代に男子1人あり。(参照
賀陽宮かや1892年久邇宮朝彦親王第2王子17世邦憲王恒憲王正憲男系の子孫としては、正憲に2男あり。(参照
東伏見宮ひがしふしみ1903年伏見宮邦家親王第17王子16世依仁親王依仁親王妃周子依仁親王に男子がおらず、すでに断絶。
朝香宮あさか1906年久邇宮朝彦親王第8王子17世鳩彦王誠彦誠彦の孫世代に男子がおらず、断絶見込み。(参照
竹田宮たけだ1906年北白川宮能久親王第1王子[注釈 6]17世恒久王恒徳王恒正男系の子孫としては、恒正の孫世代に男子3人あり。(参照
東久邇宮ひがしくに1906年久邇宮朝彦親王第9王子17世稔彦王征彦男系の子孫としては、征彦の子世代に男子4人あり。(参照
系図
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
19代伏見宮
貞敬親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
20/23代伏見宮
邦家親王
 
初代梨本宮
守脩親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
初代山階宮
晃親王
 
 
 
 
 
初代久邇宮
朝彦親王
 
 
 
21代伏見宮
貞教親王
 
 
 
 
 
初代小松宮
彰仁親王
 
 
 
2代北白川宮
能久親王
 
初代華頂宮
博経親王
 
初代北白川宮
智成親王
 
22/24代伏見宮
貞愛親王
 
6代閑院宮
載仁親王
 
初代東伏見宮
依仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2代梨本宮
2代山階宮
菊麿王
 
初代賀陽宮
邦憲王
 
2代久邇宮
邦彦王
 
3代梨本宮
守正王
 
初代朝香宮
鳩彦王
 
初代東久邇宮
稔彦王
 
初代竹田宮
恒久王
 
3代北白川宮
成久王
 
2代華頂宮
博厚親王
 
 
 
 
 
3代華頂宮
25代伏見宮
博恭王
 
7代閑院宮
春仁王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3代山階宮
武彦王
 
2代賀陽宮
恒憲王
 
3代久邇宮
朝融王
 
 
 
 
 
2代
孚彦王
 
盛厚王
 
2代
恒徳王
 
4代北白川宮
永久王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
博義王
 
4代華頂宮
博忠王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3代
邦寿王
 
4代
治憲王
 
章憲王
 
4代
邦昭王
 
 
 
 
 
3代
誠彦王
 
2代
信彦王
 
3代
恒正王
 
5代北白川宮
道久王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
26代伏見宮
博明王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
5代
正憲
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3代
征彦
註:曙色背景は皇籍離脱時の当主。東伏見宮家は依仁親王はすでに薨去しており、未亡人の周子妃が当主。
皇籍離脱時の該当者一覧(51名)
宮家読み身位年齢備考
伏見宮博明ひろあき16第26代当主
博義王第1王子。
朝子ときこ王妃46博義王妃。
光子みつこ女王19博義王第1王女。
章子あやこ女王14博義王第2王女。
閑院宮春仁はるひと46第7代当主
載仁親王第2王子。
直子なおこ王妃40春仁王妃。
山階宮武彦たけひこ50第3代当主
菊麿王第1王子。
北白川宮道久みちひさ11第5代当主
永久王第1王子。
房子ふさこ内親王
王妃
583代当主の成久王妃。
明治天皇第7皇女。
祥子さちこ王妃324代当主の永久王妃。
肇子はつこ女王9永久王第1王女。
梨本宮守正もりまさ74第3代当主
久邇宮朝彦親王第4王子。
伊都子いつこ王妃66守正王妃。
久邇宮朝融あさあきら47第3代当主
邦彦王第1王子。
俔子ちかこ王妃69邦彦王妃。
静子しずこ王妃64多嘉王妃。
朝子あさこ女王21朝融王第2王女。
邦昭くにあき19朝融王第1王子。
通子みちこ女王15朝融王第3王女。
英子ひでこ女王11朝融王第4王女。
朝建あさたけ8朝融王第2王子。
典子のりこ女王7朝融王第5王女。
朝宏あさひろ4朝融王第3王子。
賀陽宮恒憲つねのり48第2代当主。
邦憲王第1王子。
敏子としこ王妃45恒憲王妃。
邦寿くになが26恒憲王第1王子。
治憲はるのり22恒憲王第2王子。
章憲あきのり19恒憲王第3王子。
文憲ふみのり17恒憲王第4王子。
宗憲むねのり11恒憲王第5王子。
健憲たけのり6恒憲王第6王子。
東伏見宮周子かねこ親王妃72初代当主依仁親王妃。
朝香宮鳩彦やすひこ61初代当主
久邇宮朝彦親王第8王子。
孚彦たかひこ36鳩彦王第1王子。
千賀子ちかこ王妃27孚彦王妃。
冨久子ふくこ女王7孚彦王第1王女。
誠彦ともひこ5孚彦王第1王子。
美仍子みのこ女王3孚彦王第2王女。
竹田宮恒徳つねよし39第2代当主
恒久王第1王子。
光子みつこ王妃33恒徳王妃。
恒正つねただ8恒徳王第1王子。
素子もとこ女王6恒徳王第1王女。
紀子のりこ女王5恒徳王第2王女。
恒治つねはる4恒徳王第2王子。
東久邇宮稔彦なるひこ61初代当主
久邇宮朝彦親王第9王子。
聡子としこ内親王
王妃
52稔彦王妃。
明治天皇第9皇女。
盛厚もりひろ32稔彦王第1王子。
成子しげこ内親王
王妃
23盛厚王妃。
昭和天皇第1皇女。
信彦のぶひこ3盛厚王第1王子。
文子ふみこ女王2盛厚王第1王女。
俊彦としひこ19稔彦王第4王子。

歴史

[編集]

伏見宮の創設と伏見宮系皇族の発展

[編集]
世襲親王家伏見宮から即位した後花園天皇/現皇室の直系先祖である。

旧皇族を構成する11宮家は、いずれも伏見宮を共通の祖にもつ。

そもそも宮家とは、皇統天皇男系子孫の血統)に属するが皇位は継がなかった傍系の皇族が、皇室荘園の一部を自身の所領として自らの子孫に相続させる(同時に、所領の地名などを冠した宮号を継承させる)ことで成り立っていたが、その多くは数代で廃絶した。

ところが正長元年(1428年)、時の称光天皇嗣子なく崩御した際、宮家の一つであった伏見宮嫡男後花園天皇が皇位を継承する。この時、天皇の勅命により、伏見宮は「永代親王家」と定められ、宮号の継承者は代々、時の天皇または上皇猶子として親王身位を得ること(親王宣下)、正統(しょうとう、皇統の内で天皇の位を継いでゆく血統を指す)が絶えた時はこれを受け継ぐべく控えることが定められた。この制度は世襲親王家と呼ばれ、桂宮有栖川宮閑院宮の3家が新たに加わる。

幕末宮廷においても、伏見宮は「伏見殿」と呼ばれ、代々の天皇家の出身宮家として、天皇と同様な存在とみなされていたという[4]。伏見宮家の皇族の中でも顕著な活動を見せた人物としては、朝彦親王(中川宮)が、孝明天皇の信頼を得てその治世を補佐したほか[5]戊辰戦争においては、輪王寺宮公現法親王上野戦争時に幕府方の旗印として寛永寺に立てこもり、更には奥羽越列藩同盟の盟主として「東武皇帝」として即位していたという説もある[6]

明治維新前後、伏見宮家の第19代貞敬親王および第20代・第23代邦家親王の王子が還俗して、新たな宮号を名乗る。当初はこれらの宮家は、一代限りとする予定であったが、時の明治天皇は男子に恵まれず、唯一成人した嘉仁親王(大正天皇)は病弱であったことから、明治天皇の強い意向の下で、皇統の存続に万全を期すべく[7][8]、これらの新立の宮家も存続されることになり、明治22年(1889年)制定の皇室典範において、永世皇族制が採用される。一方、宮号の継承は直系の子孫に限定され、他の皇統への継承が禁じられたことにより、空位であった桂宮はこの時点で廃絶、閑院宮はこれ以前に伏見宮の皇統に移り、有栖川宮も大正2年(1913年)に廃絶されたことで、大正初期以降の皇室の成員は、大正天皇とその近親者以外の圧倒的多数が、伏見宮の皇統に属する者になった。そのため、特に彼らのことを総称して「伏見宮系皇族」と言うようになった。これらの宮家は、明治天皇の4人の皇女北白川宮竹田宮朝香宮東久邇宮の男性皇族と婚姻するなどして、血縁関係を深めた。もっとも、大正天皇が無事に成人して4人の男子に恵まれ、ひとまず皇位継承の危機は去ったことから、大正後期以降は、伏見宮系皇族の増加抑制、臣籍降下が行われた。

→詳細は「臣籍降下 § 皇族降下の施行準則」を参照

近代の皇族については、王政復古の影響やヨーロッパの王侯貴族に倣い、男性皇族は軍務に就いて国家に貢献することが義務付けられており(「皇族身位令」)、伏見宮系皇族も多くがこれに従った。実際に戦場に立った皇族もおり、伏見宮博恭王日露戦争の際に軍艦三笠の分隊長として戦闘に加わり[9]太平洋戦争では、竹田宮恒徳王関東軍参謀として中国大陸に、閑院宮春仁王が戦車第五連隊長として満州牡丹江に出征している[10]臣籍降下した元皇族の中では、伏見博英音羽正彦が従軍中に戦死している[11]

昭和20年(1945年)の第二次世界大戦敗戦時にも、昭和天皇の求めにより、皇族一同が平和達成の目的のため協力した。東久邇宮稔彦王首相に就任(東久邇宮内閣)、敗戦後の事態収拾にあたったほか[12]、各地の戦地に皇族が派遣されてポツダム宣言受諾の天皇の意思を伝え、日本軍降伏の任にあたった[注釈 7]。また、12月には天皇の意を受けて、各皇族が分担して歴代天皇陵に終戦の報告、代拝を行った[14]

一方で、連合国の占領政策により天皇にもしものことがあった場合に備えて、陸軍中野学校出身者により北白川宮道久王を新潟県某所に匿う皇統護持作戦も計画されていた[15]。昭和20年(1945年)12月には、梨本宮守正王が連合国から戦犯指定を受けて巣鴨拘置所に収監された(1947年3月に釈放)[16]。梨本宮の戦犯指定は、天皇にも戦争責任が及ぶのではないかという危惧を日本国民に与え、当時の日本社会に大ショックをもたらしたという。梨本宮本人も天皇の名代であると認識していた[17]

これらはいずれも、敗戦という国難に旧皇族が天皇の名代として「ノブレス・オブリージュ」の責務を果たしたと評価される[18]

臣籍降下

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→詳細は「臣籍降下 § 1947年の11宮家の臣籍降下」を参照

伏見宮系の11宮家は、GHQによる日本の占領統治の中で経済的圧迫を受け、臣籍降下を余儀なくされる。その背景には、GHQの政策によって、皇室の予算の主要源となっていた皇室財産国庫に帰属されたことで、皇室が財政的な打撃を受けたことに加え、GHQが、皇統の安定化のための控えという宮家の役割を認識しておらず、皇位継承の可能性の低い傍系の宮家(伏見宮系)を皇室にとどめておく意味を見出していなかったことがある[19]

昭和天皇は、特段の条理のない限りは、現存する14宮家を統べて皇室に残す考えであったが[20]、GHQによる皇室縮小路線を前にしてやむを得ず、弟宮である秩父高松三笠の3宮家を残して、残りの伏見宮系11宮家を全て臣籍降下させることを決意。日本国憲法施行後の昭和22年(1947年)10月14日、新皇室典範の定めに基づいて開かれた皇室会議の議決に基づき、11宮家51名が臣籍降下した。それぞれ宮号から「宮」の字を除いたものを名字として名乗った。

皇籍離脱後の伏見宮系皇族

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皇室とのかかわり、待遇

11宮家の皇籍離脱時、昭和天皇は

身をつつしみ、貴賓ある御生活をしていただき度い。出来るだけの御補助はいたすつもりである[21] — 昭和21年11月29日、昭和天皇の臣籍降下を言い渡す言葉を梨本伊都子が同日の日記に記録
従来の縁故と云ふものは今後に於いても何等変るところはないのであつて将来愈々お互いに親しく御交際を致し度いと云うのが私の念願であります[22] — 昭和22年10月18日、お別れの晩餐会における昭和天皇の挨拶を昭和天皇実録の同日条に記録

と述べ、皇室としては従来と変わらぬ交際を行うこと、宮家として品位ある存在であり続けるために皇室の側からもできるだけ援助はしたいことを言明した。

実際、経済的に困窮する旧皇族の存在については宮内庁も非公式に把握しており、臣籍降下から10年余りが経過した昭和33年(1958年)時点では、瓜生順良宮内庁次長が国会において、旧皇族は宮内庁が特別の世話をする対象ではないとした上で「相談相手になるということもございます」「元皇族の方で相当経済的にもお困りの方もあるようでございます」と答弁している[23]

一方、旧皇族の皇室との交際、宮中行事における待遇については、皇籍離脱と前後して、内部文書「近く臣籍降下する宮家に対する降下後の宮中における取扱方針」が策定され、天皇の聴許を得ている。これらの文書およびその後の運用をもとに、皇室が旧皇族に以下のような待遇を与えていることが判明している。

  • 元日及び天皇誕生日に、旧皇族は拝賀を行う。具体的には、憲法に定めた国事行為としての「祝賀の儀」があり、これに先立って皇族・旧皇族の順番に天皇皇后に挨拶を行う[24]
  • 宮中祭祀については、旧皇族へ参列の案内が出されている[25]
  • 参内・拝謁が認められており、昭和天皇の長女・成子内親王が嫁いだ東久邇宮家を筆頭に、各宮家が随時拝謁を行っている。また、成人・結婚をした際にも拝謁をしている[26]。この他、年末にも宮家合同で挨拶を行っている[27]
  • 陪食・賜茶(会食)を行う。おおむね1年に2度~2年に1度のペースで召かれるほか[28]、皇室の慶事に際しては臨時で開かれる[29]。また、これとは別に、皇族・旧皇族の親睦団体である菊栄親睦会の大会が数年に一度開かれ、天皇が招待を受ける。
  • 園遊会および即位の礼においては、旧皇族は内閣総理大臣よりも上位の席次で召かれる。

また、皇室ゆかりの神道関連の要職に就いた事例も多く、北白川房子明治天皇第7皇女)は女性初の神宮祭主に就任し、以後、神宮祭主は皇籍を離れた皇女が務めることが慣例となった。また、伊勢神宮大宮司には久邇邦昭北白川道久が就任している。

北白川祥子賀陽正憲など、職業として宮内庁に勤務して、時の天皇に仕えた者もいる。

久邇朝融香淳皇后の兄)や、東久邇成子(昭和天皇第1皇女)・東久邇盛厚夫妻の比翼塚[30]など、一部の旧皇族は豊島岡墓地に葬られている。

民間人としての動静

「旧皇族」の人々は、私生活においては民間人である。自らの努力やその人脈・婚姻により社会的・経済的に高い地位や知名度を誇るものもいる(後述)一方で、庶民に混じって静かに生活してきた者がほとんどだった。皇籍離脱と時を同じくして高額の財産税が賦課され、別邸や宝物類を売り払って工面するなど、経済的には苦戦する事例が多かった。昭和25年(1950年)には、久邇通子、伏見章子、北白川肇子の3名が光文社の少女誌『少女』1月号中「元女王さまの座談会」で質素な近況を話している。

旧皇族という立場を悪用され、トラブルに巻き込まれた事例もあった。久邇朝融(香淳皇后の兄)は、昭和22年(1947年)に時事新報による皇后の単独会見記事の捏造に関与し、皇后が自ら取材を否定する事態となった[31]。また、元首相の東久邇稔彦は、住居地を巡って、昭和37年(1962年)6月27日に、政府を相手に所有権確認の訴訟を行い、このことは国会でも取り上げられた[32]

「お妃候補」としての報道

昭和27年(1952年)に明仁親王(当時、のち第125代天皇、現上皇)が立太子を迎えて以降、1950年代には旧皇族の複数の少女たちが「お妃候補」であるとしてマスコミ取材を受けた[33]

うち北白川肇子は最有力者として、特に世間の注目を受けている(本人の項目を参照)。東宮侍従だった黒木従達によれば、実際に先例及び旧皇室典範に倣い、旧皇族(11宮家)及び五摂家から「お妃候補」を選定しようとしたが、血縁の近さや、遺伝性の病気の有無等がネックになり、結局、誰も候補者が残らなかった[34]。また黒木は、有力な候補者だった「元皇族令嬢」は近縁であることを理由に、早期に候補者から外していたとしている[35]

昭和末期、浩宮徳仁親王(当時、現今上天皇)が成年を迎えた1980年代以降も、旧皇族の末裔にあたる女性たちが「お妃候補」として名指しで報じられていた[36]

皇位継承問題を巡る中での注目
→詳細は「皇位継承問題」を参照

伏見宮系皇族の臣籍降下以降の皇室においては、昭和40年(1965年)の秋篠宮文仁親王の誕生以来、男子が生まれない期間が長く続いた。令和初年時点での若年の皇族は平成18年(2006年)生まれの悠仁親王のみとなっており、正統が断絶する可能性が高まっている。この問題への解決策として、旧皇族が皇籍に復帰して、正統が途絶えた時に皇位を継ぐという世襲親王家の役割を果たす案が示されている。

なお、旧皇族の皇籍復帰の可否に関する政府の見解としては、平成17年(2005年)、小泉純一郎首相の私的諮問機関皇室典範に関する有識者会議』は、旧皇族男性が養子として皇籍復帰する案について「当事者の意思により継承順位が左右され、一義性に欠ける」として否定的見解を出し、女系天皇を新たに認める考えを示した[37]。その後、令和3年(2021年)、菅義偉内閣の下で組織された『「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議』の報告書では、皇位継承問題に対する複数の対策案の中で、「皇族には認められていない養子縁組を可能とし、皇統に属する男系の男子を皇族とする」「皇統に属する男系の男子を法律により直接皇族とする」というものがあり、それぞれ、旧皇族の皇籍復帰を前提とする内容になっている。これについて政府は、旧皇族の臣籍降下は、昭和天皇の近親者のみでの男系男子の皇位継承は可能であるとの見立て(立法事実の確認)で行ったが、現状その見立てが成り立たなくなったことを受けて、改めて旧皇族が皇籍に復帰する解決策はありうる旨を答弁した[38]。また、内閣法制局も、旧皇族の皇籍復帰は、日本国憲法第14条(門地による差別の禁止)には違反しない、との見解を示している[注釈 8][39]

備考

[編集]

臣籍降下後に著名な活動がある旧皇族

[編集]
1947年昭和22年)に離脱をした本人
離脱後に旧宮家に誕生した者
旧皇族の親族等

旧皇族邸

[編集]

すべて都心6区に所在している。京都に別邸もある。

朝香宮邸(現:東京都庭園美術館) 。
京都御苑内、旧閑院宮邸。
邸宅建物現在所在地位置
伏見宮邸ホテルニューオータニ東京都千代田区紀尾井町北緯35度40分51.123秒 東経139度44分2.2821秒
閑院宮邸[注釈 9]衆議院議長公邸参議院議長公邸 東京都千代田区永田町北緯35度40分40.6秒 東経139度44分21.7秒
山階宮邸ふじみこどもひろば東京都千代田区富士見北緯35度41分48.2秒 東経139度44分39.7秒
北白川宮邸グランドプリンスホテル新高輪国際館パミール東京都港区高輪北緯35度37分53.7秒 東経139度43分59.1秒
梨本宮邸東京都児童会館東京都渋谷区渋谷北緯35度39分42.9秒 東経139度42分13.1秒
久邇宮邸一部現存
[注釈 10]
聖心女子大学構内パレス東京都渋谷区広尾北緯35度39分08.1秒 東経139度43分08.8秒
賀陽宮邸千鳥ケ淵戦没者墓苑東京都千代田区三番町北緯35度41分24秒 東経139度44分49秒
東伏見宮邸現存常陸宮東京都渋谷区東北緯35度39分27秒 東経139度42分46.5秒
竹田宮邸現存グランドプリンスホテル貴賓館東京都港区高輪北緯35度37分54.3秒 東経139度44分08.3秒
朝香宮邸現存東京都庭園美術館東京都港区白金台北緯35度38分12.8秒 東経139度43分8.7秒
東久邇宮邸放火焼失ホテルパシフィック東京東京都港区高輪北緯35度37分47.6秒 東経139度44分9.9秒

なお、プリンスホテルの社名は、ホテルの建物が旧皇族の手放した土地に立地していることに由来している。

フィクションにおける旧皇族・宮号

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女王蜂横溝正史
1951年(昭和26年、連載当時の現代)の日本を舞台とした推理小説。作中のキーパーソンが連なる架空の旧宮家として「衣笠宮(きぬがさのみや)」が登場する。
豊饒の海三島由紀夫
第1巻『春の雪』に、「春日宮(かすがのみや)」「洞院宮(とういんのみや)」が登場する。
むらぎも(中野重治
主人公の東京帝国大学の同窓生として「村田ノ宮(むらたのみや)」が登場する。作者自身の自伝的小説であり、実際に中野と同学年に山階宮家藤麿王が在学していた。

脚注

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注釈

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  1. ^旧皇族11宮家全ての最近共通祖先である伏見宮邦家親王は、福子内親王(霊元天皇の皇女)の玄孫にあたる。
  2. ^男系の直系尊属の天皇から数えた数。
  3. ^貞常親王が後花園から後崇光の紋所を代々使用することと永世「伏見殿御所(伏見殿)」と称することを勅許された年。
  4. ^照高院宮と称したのは1868年。
  5. ^当初は梶井宮と称した(1868年 - 1871年)。
  6. ^庶長子
  7. ^朝香宮鳩彦王は中国大陸の支那派遣軍閑院宮春仁王ベトナム南方派遣軍、、竹田宮恒徳王満州関東軍にそれぞれ派遣された[13]
  8. ^令和5年11月15日、衆議院内閣委員会答弁にて、「憲法14条の例外として認められた皇族という特殊な地位の取得で、問題は生じないと考えている」と答弁した。
  9. ^東京奠都(1869年)の前に住んでいた屋敷は京都府京都市上京区に復原されている。
  10. ^御常御殿。

出典

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  1. ^abc朝日新聞社知恵蔵旧皇族コトバンクhttps://kotobank.jp/word/旧皇族-182920 
  2. ^共同通信社共同通信ニュース用語解説『旧宮家コトバンクhttps://kotobank.jp/word/旧宮家-3203447#w-3465605 
  3. ^『皇族 天皇家の近現代史』 小田部雄次 中公新書 2009 p300
  4. ^(下橋敬長『幕末の宮廷』平凡社 1995年9月30日 231頁)
  5. ^浅見雅男 2012, pp. 89–109.
  6. ^令和3年度 筑波大学附属図書館特別展 時を数よむ -紀年・暦法・元号-18頁 コラム幻の元号「大政」
  7. ^浅見雅男 2011, p. 44.
  8. ^(西川誠『明治天皇の大日本帝国』講談社学術文庫 2018年6月11日 296‐299頁)
  9. ^浅見雅男 2012, p. 301.
  10. ^浅見雅男 2012, p. 312.
  11. ^浅見雅男 2012, p. 279.
  12. ^浅見雅男 2011, pp. 21282.
  13. ^清水節「終戦と宮家・皇族」歴史読本 特集天皇家と宮家 2006年十一月号 新人物往来社 240‐241頁
  14. ^清水節「終戦と宮家・皇族」歴史読本 特集天皇家と宮家 2006年十一月号 新人物往来社 242頁
  15. ^秦郁彦「裕仁天皇五つの決断」講談社 昭和59年 84‐155頁
  16. ^大平和典「宮家人物系譜総覧」歴史読本 特集天皇家と宮家 2006年十一月号 新人物往来社 179頁
  17. ^塩田道夫「天皇と東条英機の苦悩」三笠書房 1989年 55‐60頁
  18. ^(所功「皇室史上の宮家制度」歴史読本 特集天皇家と宮家 2006年十一月号 新人物往来社 106頁)
  19. ^勝岡, p. 83.
  20. ^勝岡, p. 80.
  21. ^勝岡, p. 84.
  22. ^勝岡, p. 88.
  23. ^参議院内閣委員会』〈第28回国会〉(議事録)、第22号、1958年4月8日。
  24. ^勝岡, pp. 95–99.
  25. ^勝岡, pp. 102–103.
  26. ^勝岡, pp. 103–106.
  27. ^勝岡, pp. 106–107.
  28. ^勝岡, p. 106.
  29. ^勝岡, p. 111.
  30. ^皇女照宮 1973 p.270-272
  31. ^陛下、お尋ね申し上げます 1988 p.397
  32. ^参議院内閣委員会』〈第43回国会〉(議事録)、第4号、1963年2月21日。
  33. ^1951年(昭和26年)7月29日夕刊読売「皇太子妃候補の令嬢たち」
  34. ^陛下、お尋ね申し上げます 1988 p.88-89
  35. ^陛下、お尋ね申し上げます 1988 p.89
  36. ^根岸 2019 p.153
  37. ^八幡 和郎 (2019年5月1日). “NHKが旧宮家に皇族復帰の希望を書面で回答要求”. アゴラ. 2019年6月2日閲覧。
  38. ^衆議院, p. 6.
  39. ^https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/000221220231115004.htm 第212回国会 衆議院内閣委員会 令和5(2023)年11月15日、木村陽一内閣法制局第一部長答弁)

参考文献

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出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。 記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。2021年6月

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