| しんじょうし 新庄市 | |||||
|---|---|---|---|---|---|
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| 国 | |||||
| 地方 | 東北地方 | ||||
| 都道府県 | 山形県 | ||||
| 市町村コード | 06205-7 | ||||
| 法人番号 | 5000020062057 | ||||
| 面積 | 222.85km2 | ||||
| 総人口 | 31,500人[編集] (推計人口、2025年9月1日) | ||||
| 人口密度 | 141人/km2 | ||||
| 隣接自治体 | 最上郡金山町、真室川町、鮭川村、戸沢村、大蔵村、舟形町、最上町 秋田県湯沢市 | ||||
| 市の木 | モミ | ||||
| 市の花 | アジサイ | ||||
| 新庄市役所 | |||||
| 市長 | 山科朝則 | ||||
| 所在地 | 〒996-8501 山形県新庄市沖の町10番37号 北緯38度45分54秒東経140度18分06秒 / 北緯38.76503度 東経140.30164度 /38.76503; 140.30164座標:北緯38度45分54秒東経140度18分06秒 / 北緯38.76503度 東経140.30164度 /38.76503; 140.30164 | ||||
| 外部リンク | 公式ウェブサイト | ||||
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| ウィキプロジェクト | |||||

新庄市(しんじょうし)は、山形県の北東にある市。最上地域の中心都市であり、新庄市を中核に最上生活圏を形成している[1]。1949年(昭和24年)市制施行。
江戸時代は新庄藩が置かれ、戸沢氏6万石の城下町であった。一方で羽州街道の宿場町でもあり、市南部の本合海集落は最上川水運の主要積出港であった。磐根街道が開削される明治時代初頭までは庄内町清川まで道路がなかったため、本合海河港からの舟運が唯一の交通手段であった。
有数の豪雪地帯で雪深い地域に属し、雪害救済運動発祥の地でもある。そのため「独立行政法人防災科学技術研究所 雪氷防災研究センター新庄支所」が置かれ雪氷防災実験棟で雪崩の発生メカニズムの解明などが行われており、「雪の里情報館」という雪についての学習施設がある。豪雪地域で四方の山に囲まれた土地であるため日本一日照時間が短い町(市町村単位で)とされている。
積雪寒冷地域で日照時間も短いが、環境資源の利活用により地域振興を図る「最上エコポリス構想」が推進されている[2]。早稲田大学や玉川大学のバイオマス研究施設、山形大学の自然に関する教育研究活動や講座を行う「エリアキャンパスもがみ」が開設されるなど研究施設の進出も行われている。
このほか岩手県遠野市と並ぶ東北地方随一の民話の宝庫としても知られ多くの民話の語り部による民話の伝承、記録が盛んに行われており毎年「みちのく民話まつり」が開催される。
山形県の北東、山形市の北に位置し最上川中流域の新庄盆地に位置する都市である。市域の東側は神室山を主峰とする神室連峰がある。市街地付近に升形川(戸前川)が流れ、市域の南西部で最上川に合流する。
市の東側に横たわる陣ヶ峰、大森山、杢蔵山、八森山と続く神室連峰の美しい山塊は比較的低標高に高山性植物が植生し神室山へと続く縦貫登山路として整備されており比較的軽装備で気軽に登れる登山ルートとなっている。この山塊の麓にあることから、「葛麓」(かつろく)とも呼ばれている。新庄市からはこの他、鳥海山、月山、葉山を眺めることが出来る。
位置的に南北の交通と東西の交通が交わる要衝で道路網では国道13号と国道47号が交差し、鉄道では奥羽本線が南北に縦断し陸羽西線と陸羽東線が東西に横断する。また新庄駅は山形新幹線の終点である。地理的な特性から最上郡全体からの交通路も新庄市内に集中する構造になっており、最上地方は新庄市への一極集中型である。新庄市は最上郡の消費活動全体を支えていると言え、3万人強の都市規模の割には国道13号新庄バイパス沿いに大型スーパーマーケットや大手量販店が進出している。
寒暖の差が大きく気温の年較差、日較差が大きい顕著な大陸性気候である。降雪量が多く、周辺の自治体と同様に特別豪雪地帯に指定されている。
| 新庄特別地域気象観測所(標高105m、新庄市東谷地田町)の気候 | |||||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
| 最高気温記録°C (°F) | 13.3 (55.9) | 17.3 (63.1) | 21.0 (69.8) | 30.2 (86.4) | 33.9 (93) | 33.8 (92.8) | 37.3 (99.1) | 37.8 (100) | 35.8 (96.4) | 30.1 (86.2) | 22.5 (72.5) | 19.0 (66.2) | 37.8 (100) |
| 平均最高気温°C (°F) | 2.0 (35.6) | 3.0 (37.4) | 7.1 (44.8) | 14.5 (58.1) | 20.9 (69.6) | 24.7 (76.5) | 27.7 (81.9) | 29.4 (84.9) | 25.1 (77.2) | 18.4 (65.1) | 11.1 (52) | 4.4 (39.9) | 15.7 (60.3) |
| 日平均気温°C (°F) | −0.8 (30.6) | −0.5 (31.1) | 2.4 (36.3) | 8.5 (47.3) | 14.8 (58.6) | 19.3 (66.7) | 23.0 (73.4) | 24.2 (75.6) | 19.9 (67.8) | 13.2 (55.8) | 6.7 (44.1) | 1.5 (34.7) | 11.0 (51.8) |
| 平均最低気温°C (°F) | −3.7 (25.3) | −3.9 (25) | −1.6 (29.1) | 3.1 (37.6) | 9.5 (49.1) | 14.9 (58.8) | 19.3 (66.7) | 20.2 (68.4) | 15.9 (60.6) | 9.1 (48.4) | 3.0 (37.4) | −1.2 (29.8) | 7.1 (44.8) |
| 最低気温記録°C (°F) | −19.6 (−3.3) | −20.2 (−4.4) | −16.5 (2.3) | −9.3 (15.3) | −2.1 (28.2) | 3.7 (38.7) | 7.6 (45.7) | 10.9 (51.6) | 4.1 (39.4) | −0.8 (30.6) | −5.8 (21.6) | −15.2 (4.6) | −20.2 (−4.4) |
| 降水量 mm (inch) | 238.4 (9.386) | 154.0 (6.063) | 126.7 (4.988) | 97.5 (3.839) | 107.7 (4.24) | 126.0 (4.961) | 219.6 (8.646) | 196.4 (7.732) | 140.5 (5.531) | 156.5 (6.161) | 187.3 (7.374) | 264.0 (10.394) | 2,005.6 (78.961) |
| 降雪量 cm (inch) | 233 (91.7) | 165 (65) | 77 (30.3) | 6 (2.4) | 0 (0) | 0 (0) | 0 (0) | 0 (0) | 0 (0) | 0 (0) | 12 (4.7) | 148 (58.3) | 637 (250.8) |
| 平均降水日数(≥0.5 mm) | 26.4 | 22.5 | 20.2 | 15.3 | 13.1 | 11.7 | 14.7 | 12.8 | 14.4 | 15.9 | 19.9 | 25.2 | 212.4 |
| 平均降雪日数 | 29.4 | 25.1 | 20.3 | 4.6 | 0.0 | 0.0 | 0.0 | 0.0 | 0.0 | 0.0 | 8.3 | 24.7 | 113.0 |
| % 湿度 | 86 | 83 | 77 | 71 | 73 | 77 | 81 | 80 | 82 | 83 | 85 | 87 | 80 |
| 平均月間日照時間 | 37.1 | 59.9 | 107.6 | 154.5 | 176.2 | 158.0 | 132.7 | 164.8 | 125.2 | 104.7 | 66.6 | 36.8 | 1,324.6 |
| 出典:気象庁 (平均値:1991年-2020年、極値:1957年-現在)[4][5] | |||||||||||||
新庄の歴史は、15世紀に新庄盆地の中央部に土豪により沼田城(新庄城)が築かれたことに始まる(新庄の名もこれに由来している)。しかし湿地帯の中にあったため中世には城として不適であり最上地方は大蔵村にあった「清水城」、真室川町にあった「鮭延城」、最上川の要衝であった本合海集落にあった「八向楯」等山城により経営されていた。戦国時代には最上義光によりその領地に編入された。
新庄市が最上地方の中心として発達を始めるのは、新庄藩が作られ羽州街道沿いにあった沼田城周辺が城下町として開発されてからである。元和8年(1622年)、戸沢氏が常州松岡(現在の茨城県高萩市)から転封。同9年(1623年)に鮭延城に入るが狭小のため、翌寛永元年(1625年)3月に新庄に城を築く。この時より、250余年に渡る戸沢氏の藩政が始まる。江戸時代を通じて戸沢氏は領国経営に熱心であり、表高6万8200石を実高8万石にまで増やすことに成功した(民謡『新庄ばやし』には「昔ゃ戸沢の8万石よ」の文句がある)。宝暦6年(1756年)、前年の大凶作に喘いだ新庄藩は5代藩主・正諶(まさのぶ)が領民に活気と希望を持たせると共に豊作祈願をするため氏神である天満宮の祭典を行った。これが今日まで続く新庄祭の始まりと伝えられる。
戊辰戦争においては、奥羽越列藩同盟を離れ新政府軍についた。明治元年7月に庄内藩の攻撃を受けて藩主・戸沢正実は秋田藩領内に逃亡し新庄城は陥落、城下町は戦火に大半が焼失した。明治元年9月に庄内藩が新政府に降伏するまでしばらく間庄内藩の管理下に置かれた。
明治4年(1871年)、廃藩置県により新庄県が設置、同9月に山形県に合併される。明治時代に奥羽本線が開通し大正時代に陸羽西線、陸羽東線が開通すると「鉄道の町」として隆盛を極め物資の集積地、養蚕の町、大日本帝国陸軍軍馬も生産する馬産地、豊富な森林資源を活用した木材加工業・家具工業の町としても知られるようになった。昭和時代初頭には近代農業の実験場として新庄市北部の広大な原野を開墾し、当時の最先端の農業技術で農耕を行う国家事業、「昭和開拓」が行われた。
太平洋戦争中には神町海軍飛行場の補助飛行場として新庄市西郊に升形飛行場(600m×30m)、竹形飛行場(800m×60m)と2つの大日本帝国海軍飛行場が存在した。市内の木材加工場では、弾薬箱の製造が行われた。アメリカ軍の空襲が1回あり、6名の犠牲者を出している。
戦後は1947年(昭和22年)8月16日に昭和天皇の戦後巡幸があり、市内の海外引揚者の寮を慰問、開墾地(合併前の萩野村)などの視察が行われた[6]。昼食には開墾地で収穫されたトウモロコシやカボチャが供された[7]。昭和30年代に入ると周辺の町村を合併し、昭和40年代初頭には人口49,000人に達した。しかし、戦後の産業構造の激変により馬産、養蚕・製糸、木材加工といった産業が軒並み崩壊し農業生産も厳しい状況が続いている。鉄道も施設の合理化や自動化が進み人員削減が進んだ。そうした中で、新庄市の人口は漸減を続けているのが現状である。その一方、工場の誘致も行われており、市内には山形航空電子(日本航空電子工業の子会社)などが進出している。
特記なき場合「歴代市長」による[9]
| 代 | 氏名 | 就任 | 退任 | 備考 |
|---|---|---|---|---|
| 1 | 松田久蔵 | 1949年(昭和24年)4月1日 | 1950年(昭和25年)1月31日 | |
| 2 | 戸沢正己 | 1950年(昭和25年)3月21日 | 1954年(昭和29年)1月8日 | |
| 3 | 木田清 | 1954年(昭和29年)1月31日 | 1965年(昭和40年)11月22日 | |
| 4 | 高橋喜一郎 | 1965年(昭和40年)12月10日 | 1977年(昭和52年)12月9日 | |
| 5 | 押切朝吉 | 1977年(昭和52年)12月10日 | 1981年(昭和56年)12月2日 | |
| 6 | 高橋喜一郎 | 1981年(昭和56年)12月3日 | 1989年(平成元年)12月2日 | |
| 7 | 高橋榮一郎 | 1989年(平成元年)12月3日 | 2007年(平成19年)8月9日 | 在任中に死去 |
| 8 | 山尾順紀 | 2007年(平成19年)9月30日 | 2023年(令和5年)9月29日 | |
| 9 | 山科朝則 | 2023年(令和5年)9月30日 | 現職 |
行政機構
| 役職 | 給料[10][11] | 退職手当[11] |
|---|---|---|
| 市長 | 月額 92万0000円 | 給料月額×勤続月数×100分の56.7 |
| 副市長 | 月額 70万0000円 | 給料月額×勤続月数×100分の33.1 |
| 教育長 | 月額 59万0000円 | 不明 |
新庄市議会の定数は18名[12]
| 新庄市と全国の年齢別人口分布(2005年) | 新庄市の年齢・男女別人口分布(2005年) | |||||||||||||||||||||||||||||||||
■紫色 ― 新庄市 ■緑色 ― 日本全国 | ■青色 ― 男性 ■赤色 ― 女性 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
新庄市(に相当する地域)の人口の推移
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| 総務省統計局国勢調査より | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
人口は2020年で34,432人で県内8位。昼間人口比率が高く110%以上ある。

新庄市を中心とした最上地方では新庄弁が話されているが、最上郡内であってもその方言には多かれ少なかれ違いが存在する。新庄市内においても「旧家中」「町方」「在方」で違いがあり、特に旧家中で話された「家中言葉」は他と比してかなりの違いがある。
2006年3月をもって、角沢小学校は日新小学校と合併を行い廃校となり、2010年3月をもって、山屋小学校も閉校し新庄小学校に吸収された。
2015年3月をもって、萩野中学校、萩野小学校、泉田小学校及び昭和小学校が統合し、萩野学園となった。
2021年3月をもって、明倫中学校、沼田小学校、北辰小学校が統合し、明倫学園となった。
