| 斎藤 銀次郎 | |
|---|---|
| 名前 | 斎藤 銀次郎 |
| 生年月日 | (1904-10-07)1904年10月7日 |
| 没年月日 | (1979-12-15)1979年12月15日(75歳没) |
| プロ入り年月日 | 1929年[注 1] |
| 引退年月日 | 1965年(60歳) (退会日 1966年8月20日[3][4]) |
| 出身地 | 東京府(現:東京都) |
| 所属 | 日本将棋連盟(関東) →将棋大成会(関東) →日本将棋連盟(関東) |
| 師匠 | 石井秀吉七段 |
| 弟子 | 平野広吉七段 関口慎吾七段 |
| 順位戦最高クラス | A級 |
| 0 | |
元八段(退会時、引退時同じ) | |
| 2023年2月8日現在 | |
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斎藤 銀次郎(さいとう ぎんじろう、1904年〈明治37年〉10月7日[5]-1979年〈昭和54年〉12月15日[6])は、元将棋棋士[7]。1966年に日本将棋連盟を退会[8]、連盟在籍時は石井秀吉七段門下[7]。
1904年、東京府城東区(現:東京都江東区)大島町で生まれる[5][7][9]。
1927年に二段で石井秀吉に入門[10]。1929年(昭和4年)に四段[7]。
1937年(昭和12年)に八段[7]。第2期名人戦(1937年 -1940年)から八段リーグに参加し、第1期順位戦(1947年)ではA級に参加[7]。1965年(昭和40年)に引退[7]。
引退後の1966年8月20日に、「一身上の都合」により日本将棋連盟を退会した[3][4][8]。退会に際し、日本将棋連盟は将棋雑誌に「お知らせ」を掲載した[8]。
- お知らせ[8]
- 斉藤銀次郞八段は一身上の都合により八月二十日付をもって当連盟を退会しました。
- 昭和四十一年八月二十日
- 日本将棋連盟
この斎藤の退会は、斎藤に借金癖があったことで多数の苦情が将棋連盟に寄せられる事態となり、将棋連盟から退会か除名かを選ぶよう迫られての自主退会であったとされる[7]。
1979年(昭和54年)12月15日に脳軟化症で死去[6][7]。75歳没。斎藤の死去は毎日新聞や将棋世界で報じられた[11][12]。
弟子に平野広吉七段がいた[7][13]。平野門下には所司和晴がおり、所司門下の渡辺明(永世竜王・永世棋王資格者)をはじめとする多数の棋士・女流棋士は、斎藤の曽孫弟子となる。
斎藤の弟子にはもう一人関口慎吾六段(贈七段、1918年2月25日[14] - 1945年2月18日[14])がいた[15][16]。関口は棋才を高く評価されていたが[15][16]、日中戦争と太平洋戦争でそれぞれ召集を受け、1945年にニューギニア戦線で戦病死した[14][15][16]。
2020年現在、日本将棋連盟公式サイトの「棋士データベース 七段 平野広吉」に「師匠:(故)斉藤銀次郎八段」とあり、僅かながら斎藤の名前と段位呼称が残っている[13]。
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日本将棋連盟所属 引退棋士および退会者 | |
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| 引退年不詳 1930年代 引退者 | |
| 1940年代 引退者 | |
| 1950年代 引退者 |
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| 1960年代 引退者 | |
| 1970年代 引退者 | |
| 1980年代 引退者 | |
| 1990年代 引退者 | |
| 2000年代 引退者 |
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| 2010年代 引退者 |
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| 2020年代 引退者 | |
| 退会者 | |
| 引退棋士 全173名(日本将棋連盟所属、棋士番号割当者〈※番号なし、人数に含めず〉、うち故人102〈下線表記〉)、退会者3名。 現役棋士については「Template:日本将棋連盟所属棋士」を参照 / 棋士全般についての詳細は「将棋棋士一覧」を参照 | |