戴聖(たい せい、生没年不詳)は、中国前漢の儒学者。字は次君[1][2]。梁(現在の河南省商丘市)の人[1]。『小戴礼記』(礼記)の著者としてその名が知られる。戴仁の子で、戴徳は叔父に当たる。
| 戴聖 | |
|---|---|
戴聖(至聖先賢半身像) | |
| 前漢 九江太守 | |
| 出生 | 生年不詳 梁 |
| 死去 | 没年不詳 |
| 拼音 | Dài Shèng |
| 字 | 次君 |
| 主君 | 宣帝→元帝 |
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宣帝の頃(紀元前74年〜紀元前48年)、仕えて九江太守に至る[2]。
叔父の戴徳と共に、「礼」を后蒼に学び、戴徳を「大戴」と称するのに対して、自らは「小戴」と称された[1]。
甘露3年(紀元前51年)、戴徳と共に宣帝による「石渠閣会議(中国語版)」に参議し、『春秋』の注釈書である『穀梁伝』と『公羊伝』の正統性を論じた。結果として『穀梁伝』の説が採用され、この決議は後漢の建初4年(79年)に章帝によって開かれた「白虎観会議(中国語版)」(『白虎通義』の由来)にも影響を与えた[3]。
のち、戴徳の『大戴礼記』八五篇の語句を正して『小戴礼記』(現在の『礼記』)四九篇を伝えた[2]。
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