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戴聖

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

(たい せい、生没年不詳)は、中国前漢儒学者次君[1][2]。梁(現在の河南省商丘市)の人[1]。『小戴礼記』(礼記)の著者としてその名が知られる。戴仁の子で、戴徳は叔父に当たる。

戴聖
戴聖(至聖先賢半身像)
前漢
九江太守
出生生年不詳
死去没年不詳
拼音Dài Shèng
次君
主君宣帝元帝
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略歴

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宣帝の頃(紀元前74年紀元前48年)、仕えて九江太守に至る[2]

叔父の戴徳と共に、「」を后蒼に学び、戴徳を「大戴」と称するのに対して、自らは「小戴」と称された[1]

甘露3年(紀元前51年)、戴徳と共に宣帝による「石渠閣会議中国語版」に参議し、『春秋』の注釈書である『穀梁伝』と『公羊伝』の正統性を論じた。結果として『穀梁伝』の説が採用され、この決議は後漢建初4年(79年)に章帝によって開かれた「白虎観会議中国語版」(『白虎通義』の由来)にも影響を与えた[3]

のち、戴徳の『大戴礼記』八五篇の語句を正して『小戴礼記』(現在の『礼記』)四九篇を伝えた[2]

脚注

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  1. ^abcデジタル大辞泉『「戴聖」の意味・読み・例文・類語』コトバンクhttps://kotobank.jp/word/%E6%88%B4%E8%81%96-5575782025年11月13日閲覧 
  2. ^abc精選版 日本国語大辞典『「戴聖」の意味・読み・例文・類語』コトバンクhttps://kotobank.jp/word/%E6%88%B4%E8%81%96-557578 
  3. ^日原 1983, p. 204.

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