![]() | この項目では、歌謡曲について説明しています。舞台作品については「実録 女師 遊廓 信太山エレジー#悲しき天使」をご覧ください。 |
「悲しき天使」 | ||||||||
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メリー・ホプキン のシングル | ||||||||
B面 | ターン・ターン・ターン | |||||||
リリース | ||||||||
ジャンル | ポップス | |||||||
時間 | ||||||||
レーベル | ![]() ![]() | |||||||
作詞・作曲 | ジーン・ラスキン | |||||||
プロデュース | ポール・マッカートニー | |||||||
ゴールドディスク | ||||||||
ゴールドディスク | ||||||||
チャート最高順位 | ||||||||
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メリー・ホプキン シングル 年表 | ||||||||
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「悲しき天使」(かなしきてんし、Those Were the Days)は、ロシア語の歌謡曲『Дорогой длинноюダローガイ・ドリーンナィユ』を原曲とする英語の歌曲である。イギリスのメリー・ホプキン(Mary Hopkin)が歌って大ヒットを収めた。
原曲は、コンスタンチン・ポドレフスキー(ロシア語版、英語版)(Константин Николаевич Подревский、1889年〜1930年)の詩に、ボリス・フォミーン(ロシア語版、英語版)(Борис Иванович Фомин、1900年〜1948年)がクレズマーないしはジプシー音楽の様式で曲づけした歌「Дорогой длинною」(「長い道を」)である。1910-1920年ごろの作品とされる。歌詞の内容は、昔の思い出を懐かしみ感傷に浸っている様子を描いたものである。
初期のころの録音としては、タマーラ・ツェレテリ(ロシア語版、英語版)(Тамара Семёновна Церетели、1900年~1968年)の版(1925年)やアレクサンドル・ヴェルチンスキー(ロシア語版、英語版)(Александр Николаевич Вертинский、1889年~1957年)の版(1926年)が知られる。
またヴェルチンスキーは1920年~1943年、ソ連国外を転々とし、世界各地でこの歌を含む数々の望郷の名曲を歌い続けるが、そのことも亡命ロシア人たちがこの歌を記憶にとどめ続けるのに一役も二役も買った。1930年代にはコロムビア・レコード(欧州)、ワルシャワのシレナ・レコード(ロシア語版、英語版)などでの録音盤もある[1]。
ソ連国内では、1929年にレニングラードで開催された全ロシア音楽会議で、ロシア・ロマンス(ロシア語版、英語版)(18世紀以降ロシアで盛んに作られた都会的歌謡)は「反革命的」とされ、フォミーンの作品も含め演奏が禁止された[2]。またフォミーン自身も1937年から1年間モスクワで投獄されている[2]。特に『長い道を(後の「悲しき天使」)』が政府に嫌われた理由を、山之内重美は、ジプシー音楽風のリフレインや「7弦ギター(ロシア語版、英語版)」というジプシーを連想させる言葉が、1930年代の政府の方針に合わなかったため、と述べている[3]。大祖国戦争後もフォミーンは忘れ去られたまま、失意と不遇のうちに結核で[4]1948年に世を去った。その後もこの歌は長らく発禁扱いだったが、愛好者の間や地方のレストランなどでは秘かに歌い継がれていたと見られ、そのためロシア語歌詞にも幾つかのヴァリアントがある[5]。そして外国に亡命したロシア人たちも各地で望郷の歌としてこの曲を歌い継ぎ、それが1960年代後半、後述の英語版「悲しき天使」の西側での大ヒットを生む。これが逆輸入されたことにより、ソ連国内でもこの歌はリバイバルされ、ソ連人アーチストのレコードも一気に出た[5]。
「悲しき天使」は、しばしば、イギリスで活躍したアメリカ合衆国出身の歌手、ジーン・ラスキンの作詞作曲と紹介されている。これは「Дорогой длинною」がソビエト連邦からの亡命者によって欧米に広められるうち、いつしか作者不詳の「ロシア民謡」と呼ばれるようになり、その後1962年にラスキンが英語版を編曲し自作として発表したために、ラスキンの作品と呼ばれるようになったためとされる。
1968年にポール・マッカートニーが、当時18歳のフォーク歌手メリー・ホプキンをプロデュースして「悲しき天使」のシングルを発表。国際的にヒットし、その後さらにスペイン語版、ドイツ語版、ヴィッキー・レアンドロスによるフランス語版(「Le Temps des fleurs」、ただし、邦題は「悲しき天使」のまま)もリリースされた。なお、シングル盤の「悲しき天使」は、アップル・レコードから発売された最初のレコードであり、B面にはピート・シーガーのカバー「ターン・ターン・ターン」が収録されている。また、この曲はホプキンのアルバム『ポスト・カード』(1969年)のアメリカ盤LPや再発CDにも収録された。
原題「Those were the days」は、「あの頃はよかった・あの頃がなつかしい」という意味であり、歌詞は、壮年期の人間が青春時代を思い返してロマンティックに美化している場面を描いている。また邦題の「悲しき天使」については、日本で発売された当時、外国の楽曲に邦題を付ける際の常套手段として、「悲しき…」や「恋の…」といった言葉を冠していたことによるものであり、英語歌詞の内容とは特に関係はない。
2005年にはドリー・パートンがメリー・ホプキンとともにこの曲をカバーし、同名のアルバム『Those Were the Days』に収録した。
「ビルボード」誌では、1968年11月2日に最高位の第2位を獲得。同誌1968年年間ランキングでは第17位。
全英チャートにおいては49⇒7⇒2⇒1と4週間で到達し、それまで2週間No.1だったビートルズの「ヘイ・ジュード」を蹴落として6週間No.1に輝き、1968年間では3位になっている。
日本では発売されて約2ヶ月後にピンキーとキラーズ「恋の季節」を抜いて、オリコン・シングルチャートの1位に輝いている。
日本では漣健児によって日本語詞が付けられ、森山良子、広川あけみによってカバーされた「悲しき天使」が有名だが、同じメロディに芙龍明子が日本語詞を付けた「花の季節」もあり、こちらは中学校の音楽教科書に掲載された。また2010年には森口博子が30枚目のシングル「PUZZLE」のカップリングの4曲目でカバーした。日本のオリコンチャートでは、1969年2月17日付の総合シングルチャートにて競作曲が3曲40位以内にランクインしている(3位:メリー・ホプキン、36位:ヴィッキー、37位:森山良子)。ブラジルでは、この旋律がテレビ番組「Show de Calouros」のオープニング・テーマに利用されたため、曲名を知らぬままにこの旋律に親しんでいる人々が多いといわれる。
"Дорогой длинною"(長い道)
1958年 |MGM映画「カラマゾフの兄弟」挿入歌。
1967年 アルバム"The Last Waltz"に収録。
多言語リリース(フランス語、イタリア語、スペイン語、ドイツ語)
"Le temps des fleurs"
"Quelli erano i giorni"
"Qué tiempo tan feliz"
"É Primavera, amor"
"An jenem Tag"
先代 ビートルズ 「ヘイ・ジュード」 | 全英シングルチャート 第1位 1968年9月25日 - 10月30日(5週) | 次代 ジョー・コッカー 「ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ」 |
先代 ザ・ボーグス 「マイ・スペシャル・エンジェル」 | Billboard Easy Listening 第1位 1968年11月2日 -12月7日(6週) | 次代 グレン・キャンベル 「ウィチタ・ラインマン」 |
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