 | 「悠仁」はこの項目へ転送されています。ミュージシャンの「北川悠仁」とは別人です。 |
称号:親王
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| 敬称 | 悠仁親王殿下 His Imperial Highness Prince Hisahito |
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悠仁親王(ひさひとしんのう、2006年〈平成18年〉9月6日 - )は、日本の皇族。身位は親王。敬称は殿下[2]。お印は高野槇(こうやまき)。勲等は大勲位。
天皇の甥。上皇(第125代天皇)の孫。
今上天皇の弟である皇嗣の秋篠宮文仁親王と同妃紀子の第1男子(1男2女のうちの第3子)。皇位継承順位は父・秋篠宮に次ぐ第2位。
小室眞子、佳子内親王は姉。今上天皇第一皇女子の敬宮愛子内親王は従姉。
住まいは東京都港区元赤坂二丁目の赤坂御用地内にある秋篠宮邸。秋篠宮邸の改修工事に伴い、2022年(令和4年)3月まで「御仮寓所(ごかぐうしょ)」に仮住まいしていた[3]。2025年(令和7年)4月からは、茨城県つくば市の民間集合住宅も利用し、2拠点生活を送っている。
お印に選ばれた高野槇父の秋篠宮以来、40年9か月ぶりの男子皇族として誕生した。
2025年11月27日現在、皇室において59歳未満で唯一の皇位継承資格者。最年少の皇族(皇室構成員)で継承順位第2位。
2024年9月6日に成年の儀を迎えたことにより未成年の皇族は不在となった。現皇室典範の施行以来、未成年皇族が不在となるのは初めて。
2006年(平成18年)2月7日朝、文仁親王妃紀子が秋篠宮邸で超音波検査を受けたところ、胎児の心拍が確認され、羽毛田信吾宮内庁長官が妊娠6週目と発表[4][5][6]。
2月24日、「秋篠宮妃殿下が妊娠3か月である」と、宮内庁が公式発表。妊娠悪阻(つわり)などの症状があったが、2度目の検査では順調な経過が確認されたと、中林正雄愛育病院[注釈 1] 院長が説明[7][8]。また、秋篠宮同妃の意向により性別の事前検査は実施せず[9]。
8月16日午後、文仁親王妃紀子が陣痛のため、秋篠宮が付き添って東京都港区南麻布の愛育病院に入院した[10][11]。また同日、主治医である中林正雄院長らが会見を開き、早産の恐れなどがあるため帝王切開の処置を取ることを発表(近代皇室史上初の帝王切開による出産)[12]。
9月6日 午前8時27分に誕生[13]。出生時の身長は48.8cm、体重は2558g[14]。秋篠宮家では佳子内親王以来12年ぶりの子女の誕生で、皇室においては愛子内親王以来5年ぶりの新生児誕生となった。黒田清子(紀宮清子内親王)から敬宮愛子内親王まで9人連続で女子皇族が誕生しており、男子皇族は秋篠宮以来40年9か月ぶり。誕生時の皇位継承順位は第3位。
誕生当日には、賜剣の儀が行われ、天皇(明仁)から刀匠天田昭次謹作の短剣(守り刀)が贈られた[15]。
9月12日、命名の儀が行われ「悠仁」(ひさひと)と名付けられた。
「ゆったりとした気持ちで、長く久しく人生を歩んでいくことを願って」、また過去の皇族との重複を避けつつ音と意味を重視して、秋篠宮が選字[16]。家族からは「ゆうゆう」の愛称で呼ばれる[17]。「大きく、まっすぐに育ってほしい」との願いを込めお印は高野槇[16]。
9月15日、愛育病院退院時には、赤坂御用地までの沿道に約1800人が集まり、警視庁の機動隊など計1200人態勢で警備[18]。
誕生の前年、2005年(平成17年)には皇族男子の減少により皇位継承問題が表面化していたこともあり各地で奉祝され、明治神宮をはじめとする神社・神社庁で、神輿の奉納・提灯行列・奉祝行進などの祝賀行事を実施。悠仁親王の誕生によって、初代・神武天皇以来の男系男子の継承による皇統断絶の危機が当面は解消されたことで、皇室典範改正案の提出は見送りに[13][19]。
2010年(平成22年)
4月9日、お茶の水女子大学附属幼稚園に入園。母の紀子妃が同大学大学院人間文化研究科で、日本学術振興会の名誉特別研究員として健康心理学を学んでいることから、女性研究者を支援するため同大学が創設した特別入園制度で入園[20]。
2011年(平成23年)
春に「着袴の儀」が予定されていたが、東日本大震災の発災を受け延期[21]。
11月3日、赤坂東邸で、「着袴の儀」と「深曽木(ふかそぎ)の儀」を挙行。「着袴の儀」では滝の流れをあしらった「落滝津(おちたきづ)」の着物に白い袴を着用し、松田慶文宮内庁御用掛が袴の紐を結んだ。続く「深曽木の儀」では皇太子(徳仁)と秋篠宮も使用した碁盤の上に立ち、山科流の童形服を着用して右手に扇、左手に小松2本と山橘の小枝を持った。松田御用掛が髪の毛に3回鋏を入れたあと、盤上に置かれた2個の黒い小石を踏んで飛び降りた。
2012年(平成24年)
11月7日、両親と神武天皇陵を参拝[22]。天皇陵を参拝するのはこれが初めて。
12月14日、翌2013年(平成25年)4月にお茶の水女子大学附属小学校へ入学することが発表される[23]。現行の皇室典範の下で皇族が学習院初等科以外の小学校に入学するのは初めて。
2013年2013年(平成25年)
3月15日、幼稚園卒園を奉告のため、両親と昭和天皇武蔵野陵、香淳皇后武蔵野東陵を参拝。
3月25~26日、伊勢神宮に参拝し幼稚園卒園を奉告。
4月7日、両親とお茶の水女子大学附属小学校の入学式に出席[24][25]。
12月10日~11日、両親と私的に沖縄県を訪れ、沖縄戦跡国定公園(沖縄県糸満市)で「平和の礎」やオオゴマダラを見学し、「国立沖縄戦没者墓苑」で供花。「沖縄こどもの国」では与那国馬など馬に牧草を与えた。
2016年(平成28年)
8月3日、新潟県津南町の「農と縄文の体験実習館なじょもん」[26] で縄文土器を見学[27]。10歳の誕生日には、秋篠宮邸の庭で田んぼや野菜を作っていることが発表される[28]。
11月20日7時半ごろ、友人らと山梨県甲州市の大菩薩峠山麓へハイキングに向かう途中、相模原市の中央自動車道下り線で、悠仁親王、母の紀子妃、友人、その父兄ら6人の乗るワゴンが前方の車両に追突。けが人はなく、ワゴンはバンパーが損傷したため、一行は別の車両に乗り換えて目的地へ。事故の背景として内廷皇族と宮家皇族との警備体制の違いを挙げる報道も[29][30][31]。
2017年(平成29年)
7月22~29日、6泊7日の日程で母の紀子妃と小笠原諸島を私的に訪問。一般客とともに竹芝客船ターミナルと父島二見港の間を小笠原海運のおがさわら丸で片道24時間かけて往復。「小笠原諸島戦没者追悼之碑」への献花や、小笠原海洋センターでのアオウミガメの子ガメの標識付けや放流、衝立山経由で千尋岩(ロックハート)を目指す6時間半のトレッキング、イルカウォッチング、シュノーケルなどを体験し、母島ではパッションフルーツやマンゴーを収穫。当時の思い出は2020年(令和2年)に作文『小笠原諸島を訪ねて』としてまとめた。
8月10日、滋賀県高島市の筆工房「攀桂堂(はんけいどう)」を両親と訪れ、皇族方が愛用する日本古来の筆「雲平筆」の製造工程を見学。前後の数日間、湖西地方に滞在。
9月6日、11歳の誕生日当日に、同年5月の校外学習で両国国技館の大相撲を観戦し、友人とちゃんこを味わったことや、8月下旬に2泊3日で林間学校(長野県の白樺湖周辺)に参加したこと、学校の栽培委員会に所属し、花壇の水やりなどを担っていることなどが伝えられた[32]。
2019年(平成31年/令和元年)
4月8日、お茶の水女子大学附属中学校に入学。
4月26日、お茶の水女子大学附属中学校の悠仁親王の教室の机の上に果物ナイフが置かれる事件が発生。犯人とされる男は同月29日に神奈川県平塚市のホテルで逮捕され[33]、2020年(令和2年)2月14日に執行猶予付の懲役刑が言い渡された。男は皇室のあり方に不満を持ち、親王を刺そうと思ったと自供[34]。
5月1日、皇太子徳仁親王の践祚に伴い、皇位継承順位第2位に。
8月16日~25日、両親とブータンを私的に訪問。初の外国訪問で、万が一の飛行機事故に備え、父の秋篠宮とは空路別便を利用した。首都ティンプーの国家中心施設「タシチョ・ゾン」で行われた歓迎式典では紋付きの羽織袴姿で臨み、ワンチュク国王の第一王子、ジグメ・ナムゲルとも交流。小中一貫の公立校でボール渡しゲームを、チャンリミタン国立弓技場で国技の「ダツェ(弓技)」を体験。高山地帯に生息するウシ科の希少動物ターキンの保護区も訪れた。パロではブータン国立博物館を見学し、JICA関係者と懇談。
2020年(令和2年)撮影。赤坂御用地・秋篠宮邸にて2021年(令和3年)
3月12日、北九州市立文学館が「第12回子どもノンフィクション文学賞」を発表し、悠仁親王が応募した作文『小笠原諸島を訪ねて』[35]が中学生の部・佳作を受賞。
3月20日、「第12回子どもノンフィクション文学賞」の表彰式にオンライン参加[36]。
2022年(令和4年)
2月16日、筑波大学附属高等学校に合格。お茶の水女子大学附属中学校との提携校進学制度において推薦の条件である「秀でた学業成績を十分に満たしている」と判断され、かつ一般受験生とともに5教科の学力検査を受験し、その結果確定した。この制度は運用実態に不明な点が多く「悠仁さまを筑附に入れるための制度では」と報じたメディアもあったが[37]、同制度は2017年から現在まで続く。
2月16日、宮内庁は前述の作文『小笠原諸島を訪ねて』に関し参考文献の記載が不十分だったと明らかにし、側近が「悠仁さまは指摘に感謝されている」と説明した[38][39]。文学賞を主催する北九州市立文学館は「記載漏れがあったとしても、賞は作品全体を総合して評価したもの。現時点で授与の撤回などは考えていない」と声明[40]。
4月8日、宮内庁は悠仁親王が『小笠原諸島を訪ねて』に参考文献や注釈などを追記して主催者に送ったことを明らかに[41]。これを受け同年4月12日、北九州市立文学館は、訂正後の作文をオンライン公開。
4月9日、筑波大学附属高等学校に入学[42]。
10月1日、私的に伊勢神宮を参拝。神宮参拝は2013年以来2回目で、単身での参拝は初めて。その後、神宮美術館を訪問し、伊勢神宮と正倉院のゆかりの文化財などを集めた特別展「生きる正倉院-伊勢神宮と正倉院が紡ぐもの-」を鑑賞[43]。
2023年(令和5年)
7月29日~30日、父・秋篠宮の地方公務に初めて同行し、「第47回全国高等学校総合文化祭」を視察。西原商会アリーナでの総合開会式に臨み、鹿児島大学で自然科学発表を聴講。鹿児島県立歴史・武術センター黎明館で美術・工芸部門の作品を鑑賞し、曽於高等学校の実験農場も訪問。
9月14日、新型コロナウイルスに感染し、同日から学校を欠席すると発表される。13日から高熱があり、14日は秋篠宮同妃の4年ぶりの記者会見が予定されていたが、濃厚接触があったため延期。
2024年(令和6年)
8月25日、主催者の招待を受け、両親に同伴し「第27回国際昆虫学会議(ICE2024 Kyoto)」(国立京都国際会館)に私的に参加[44]。開会式終了後、昆虫に関する研究のポスター展示を見ながら、ドイツの研究者と懇談した際に「この中に日本の種はいくついますか?」と英語で質問。懇談後にも熱心に質問し同研究者は驚くとともに「専門的な質問をしていただき科学的なやりとりができて嬉しい」と語った。
8月26日、悠仁親王は同会議で、共同研究した皇居内のトンボの生態について、ポスター掲示の形で発表[45]。
9月6日、成年(18歳)。男性皇族が成年を迎えるのは父・秋篠宮以来39年ぶり[46]。悠仁親王は誕生日を前に文書で感想を寄せ、「もう成年なのかと思うと、時が経つのは早いと実感しています。この18年の間、多くの方々が、その時々にさまざまな形で心を寄せてくださいました。深く感謝申し上げます。そして、今まで育ててくれた両親と姉たちにも感謝しています」などと綴った[47]。同日午後、御所で天皇皇后と愛子内親王に、仙洞御所で上皇上皇后にそれぞれ挨拶をし、謝意を伝達[48]。その後、秋篠宮邸で側近から祝賀を受けた際、「この先は、自らの務めについて考え、成年皇族としての役割を果たせるよう努力していきたい」と決意表明[49]。
12月11日、筑波大学生命環境学群生物学類の学校推薦型選抜試験に合格[50]。
2025年(令和7年)
2月12日、「舞鶴引揚記念館」を単身視察。
2月14日、警視庁鮫洲運転免許試験場で普通自動車運転免許を取得。都内の自動車教習所に通いながら路上実習にも臨む[51]。
3月3日午後2時、成年にあたっての記者会見を赤坂東邸で行う[52][53]。
象徴天皇の存在につきましては、上皇陛下がお考えになってこられ、天皇陛下が先日の記者会見でおっしゃっていましたように、常に国民を思い、国民に寄り添う姿なのではないかと思います。また、皇室の在り方につきましても、天皇陛下のお考えのもと、人々の暮らしや社会の状況に目を向け続けていくことが重要であると思います。そして、出会いを大切にして、人々の幸せを願い、気持ちに寄り添い続けることが重要であると思います。 — 悠仁親王殿下、ご成年をお迎えになっての記者会見
3月18日、筑波大学附属高等学校卒業[54]。
4月5日、筑波大学生命環境学群生物学類に入学[55]。
9月6日、19歳の誕生日に皇居で成年式が執り行われる。男性皇族の成年式の実施は父の礼宮(当時)文仁親王以来40年ぶり。午前に宮殿・春秋の間で加冠の儀が行われ、午後は天皇・皇后に挨拶を行う朝見の儀が行われた。さらに同日付で大勲位菊花大綬章が授与[56][57]。
9月8日、伊勢神宮と神武天皇陵を参拝、9日には昭和天皇陵など4陵を参拝し、成年式を終えたことを奉告[58][59]。
9月10日、成年を祝う昼食会が明治記念館で催され、成年式に関連する一連の行事が終了[60]。
9月24~25日、初の単独地方公務として2025年日本国際博覧会(大阪・関西万博)の会場を訪問。24日には日本館とベルギー館、25日には大屋根リングや関西パビリオンを視察し、午後からは父の秋篠宮も合流し、オランダ館、タイ館とブータンのパビリオンがあるコモンズD館を視察[61]。
2025年(令和7年)9月6日
- 8時45分:「冠を賜うの儀」(秋篠宮邸)。松永賢誕侍従職事務主幹が勅使として秋篠宮邸に参殿し、モーニングコート姿の悠仁親王は燕尾纓(えんびえい)の冠を拝領。
- 9時20分:悠仁親王秋篠宮邸出発。この日に皇居と宮邸の間を往復した車輌は、「親王旗」を装着した天皇差し回しの第1号(皇1)御料車。
- 10時0分:「加冠の儀」(宮殿春秋の間)。悠仁親王は未成年装束の闕腋袍(けってきのほう)と、表袴(うえのはかま)、絲鞋(しかい=靴)、石帯、空頂黒幘(くうちょうこくさく)を装用し、イチイ材の笏と横目扇を持つ。加冠役は坂根工博侍従次長、先導は吉田尚正皇嗣職大夫、裾持ちは小山永樹皇嗣職宮務官長、「冠箱」奉持・冠紐掛け・鋏入れは加地隆治宮内庁御用掛が、いずれも衣冠束帯で奉仕。悠仁親王は空頂黒幘から燕尾纓の冠に被り替える。
- 11時5分:成年装束の縫腋袍(ほうえきのほう)と、表袴(うえのはかま)、鞸(かのくつ=靴)、石帯、垂纓(すいえい)の冠に着替えた悠仁親王が笏、檜扇を持ち、1913年(大正2年)製造の儀装馬車4号で宮殿南車寄を出発。
- 11時30分:「賢所皇霊殿神殿に謁するの儀」(宮中三殿)。
- 14時0分:「朝見の儀」(宮殿正殿松の間)。悠仁親王は午後の儀式で燕尾服を着用。
本日の成年式にあたり、冠を賜り、天皇、皇后両陛下のご臨席のもと、成年式を終えることができましたことに、深く感謝申し上げます。成年皇族としての責務の重さを自覚し、さらに勉学にいそしむとともに経験を積み、これまで賜りましたご恩にお報い申し上げたく存じます。ここにお礼を申し上げます — 悠仁親王殿下、成年式朝見の儀で天皇陛下に対する謝恩の辞
- 14時30分:「勲章親授」(宮殿表御座所鳳凰の間)。天皇が大勲位菊花大綬章を授与。
- 14時40分:「御礼言上」(宮殿表御座所鳳凰の間)。秋篠宮同妃とともに、天皇皇后に挨拶。
- 15時0分:「祝賀」(宮殿千鳥・千草の間)。親族や皇族、三権の長、宮内庁幹部、元側近奉仕者らが参列。
- 15時45分:「上皇上皇后両陛下へ挨拶言上」(仙洞御所)。
- 18時30分:「内宴」(帝国ホテル)。秋篠宮家主催。天皇皇后、上皇上皇后以下の皇族、元皇族、親族ら30人が出席。出席者には、秋篠宮家の菊栂 ( きくつが )紋、高野槙、トンボをあしらったボンボニエールが贈られる(皇族には銀製、その他出席者には磁器製)。
2025年(令和7年)9月8日
2025年(令和7年)9月9日
2025年(令和7年)9月10日
高校の学業と並行して生物学に関する研究を進め、高校在学2年時に研究成果を学術雑誌に発表している[62]。
2024年8月25日、京都市で開幕した第27回「国際昆虫学会議」に、開会式に招待を受けたとして初日のみ私的に参加した[63]。
定まった帝王学の師はいないが、教育については母の紀子妃が主導し、2018年には作家の半藤一利による近代史(太平洋戦争)についての進講を受けている[64]。
2006年(平成18年)
- 9月6日 - 東京都港区南麻布の愛育病院にて誕生[65]。
- 9月12日(0歳)- 命名の儀。
2010年(平成22年)
- 4月9日(3歳)- お茶の水女子大学附属幼稚園 に入園。
2011年(平成23年)
2013年(平成25年)
- 3月14日(6歳)- お茶の水女子大学附属幼稚園を卒園。
- 4月7日(6歳)- お茶の水女子大学附属小学校に入学。
2019年(平成31年)
- 3月15日(12歳)- お茶の水女子大学附属小学校を卒業。
- 4月8日(12歳)- お茶の水女子大学附属中学校に入学。
2022年(令和4年)
- 3月17日(15歳)- お茶の水女子大学附属中学校を卒業。
- 4月9日(15歳)- 筑波大学附属高等学校に入学[66]。
- 10月1日(16歳)- 初めて伊勢神宮を単身参拝[67]。
2023年(令和5年)
- 7月29日(16歳)- 初めて秋篠宮の地方公務に同行し、鹿児島総文祭の開会式に出席[68]。
2024年(令和6年)
- 7月31日(17歳)- 2度目となる地方公務同行として、両親とともに岐阜総合文化祭の開会式に出席[69]。
- 8月25日(17歳)- 京都市で開催された「国際昆虫学会議」に招待を受け、私的に参加[70]。
- 9月6日(18歳)- 39年ぶりに男性皇族として成年を迎える[71]。
2025年(令和7年)
- 3月18日(18歳) - 筑波大学附属高等学校を卒業[54]。
- 4月5日(18歳) - 筑波大学生命環境学群生物学類に入学[55]。
- 各人の囲み上部の数字は生年と没年、下部の数字は即位年と退位年、「前」は紀元前、「?」は不詳を示す。
- 太字は漢風諡号、生没年に併記されているのは諱、斜体字は別名。
- 赤色の囲みは女性を示す。
- カッコ付きの太数字は天皇の代数[要出典]。
- 記紀による初代天皇(神武天皇)以前の系図については、皇室、皇室の系図一覧を参照。
前711-前585 神武天皇 前660–前585(1) |
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前632-前549 綏靖天皇 前581–前549(2) |
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前577-前510 安寧天皇 前549–前510(3) |
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前553-前476 懿徳天皇 前510–前476(4) |
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前506-前393 孝昭天皇 前475–前393(5) |
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前427-前291 孝安天皇 前392–前291(6) |
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前342-前215 孝靈天皇 前290–前215(7) |
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前273-前158 孝元天皇 前214–前158(8) |
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前208-前98 開化天皇 前157–前98(9) |
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前148-前29 崇神天皇 前97–前29(10) | | | | | 彦坐王 |
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前68–紀元後70 垂仁天皇 前29–70(11) | | | | | | | |
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前13–130 景行天皇 71–130(12) | | | | | | | |
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82?–113? 日本武尊 | | 84–191 成務天皇 131–191(13) | | | |
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148? –200 仲哀天皇 192–200(14) | | | | | 170-269 神功皇后 摂政 201–269 | |
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| | | | 200-310 應神天皇 270–310(15) |
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| | 257–399 仁徳天皇 313–399(16) | | | | | | | | | | 稚野毛二派皇子 |
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336? –405 履中天皇 400–405(17) | | 336? –410 反正天皇 406–410(18) | | 376? –453 允恭天皇 413–453(19) | | 忍坂大中姫 | | 意富富杼王 | |
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| 市辺押磐皇子 | | | | | | 401-456 安康天皇 454–456(20) | | 418-479 雄略天皇 456–479(21) | | 乎非王 |
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440-484 飯豊青皇女 臨朝秉政 484 | | 大脚 449-498 仁賢天皇 488–498(24) | | 450-487 顯宗天皇 484–487(23) | | 444-484 清寧天皇 480–484(22) | | 彦主人王 |
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489-507 武烈天皇 498–507(25) | | 手白香皇女 | | | | | | | | | | 450-531 繼體天皇 507–531(26) |
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| | | | | | | | 509-571 欽明天皇 540–571(29) | | 465-536 安閑天皇 531–536(27) | | 高田 467-539 宣化天皇 536–539(28) |
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| | | | 538-585 敏達天皇 572–585(30) | | 額田部 554-628 推古天皇 593–628(33) | | 540? -587 用明天皇 585–587(31) | | 泊瀬部 553? –592 崇峻天皇 587–592(32) |
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| | | | 押坂彦人大兄皇子 | | | | | | 574-622 厩戸皇子 (聖徳太子) 摂政 593-622 |
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| | | | 茅渟王 | | | | | | |
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軽 596-654 孝徳天皇 645–654(36) | | 宝 594-661 皇極天皇 642–645(35) 齊明天皇 654–661(37) | | | | 田村 593-641 舒明天皇 629–641(34) |
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| | | 葛城 626-672 天智天皇 661–672(38) | | | | | | | | | | | | |
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| | | | 大友 648-672 弘文天皇 672(39) | | | | | 鸕野讚良 645-701 持統天皇 690–697(41) | | | | 大海人 631?-686 天武天皇 672-686(40) |
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668?–716 志貴皇子 (春日宮天皇) | | | | 阿閇 661-721 元明天皇 707-715(43) | | 662–689 草壁皇子 (岡宮天皇) | | | 676–735 舎人親王 (崇道尽敬皇帝) |
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| | | | | | | 氷高 680-748 元正天皇 715–724(44) | | 珂瑠 683-707 文武天皇 697–707(42) | | | 大炊 733-765 淳仁天皇 758–764(47) |
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| | | | | | | | | | | | 首 701-756 聖武天皇 724-749(45) |
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? -790 高野新笠 | | 白壁 709-782 光仁天皇 770–781(49) | | 717–775 井上内親王 | | 阿倍 718-770 孝謙天皇 749–758(46) 称徳天皇 764–770(48) |
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| | 山部 737-806 桓武天皇 (柏原帝) 781–806(50) | | 750?–785 早良親王 (崇道天皇) |
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安殿 774-824 平城天皇 (奈良帝) 806–809(51) | | 神野 786-842 嵯峨天皇 809–823(52) | | 大伴 786-840 淳和天皇 (西院帝) 823–833(53) |
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| | | | 正良 810-850 仁明天皇 (深草帝) 833–850(54) |
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| | 道康 827-858 文徳天皇 (田邑帝) 850–858(55) | | 時康 830-887 光孝天皇 (小松帝) 884–887(58) |
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| | 惟仁 850-880 清和天皇 (水尾帝) 858–876(56) | | 定省 867-931 宇多天皇 887–897(59) |
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| | 貞明 869-949 陽成天皇 876–884(57) | | 敦仁 885-930 醍醐天皇 897–930(60) |
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| | | | 寛明 923-952 朱雀天皇 930–946(61) | | 成明 926-967 村上天皇 946–967(62) |
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| | 憲平 950-1011 冷泉天皇 967–969(63) | | | | | | 守平 959-991 圓融天皇 969–984(64) |
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師貞 968-1008 花山天皇 984–986(65) | | 居貞 976-1017 三條天皇 1011–1016(67) | | | | 懐仁 980-1011 一條天皇 986–1011(66) |
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| | | | 1013-1094 禎子内親王 | | 敦良 1009-1045 後朱雀天皇 1036–1045(69) | | 敦成 1008-1036 後一條天皇 1016–1036(68) |
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| | | | | | 尊仁 1034-1073 後三條天皇 1068–1073(71) | | 親仁 1025-1068 後冷泉天皇 1045–1068(70) |
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| | | | | | 貞仁 1053-1129 白河天皇 1073–1087(72) |
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| | | | | | 善仁 1079-1107 堀河天皇 1087–1107(73) |
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| | | | | | 宗仁 1103-1156 鳥羽天皇 1107–1123(74) |
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| | 顕仁 1119-1164 崇徳天皇 1123–1142(75) | | 雅仁 1127-1192 後白河天皇 1155–1158(77) | | 体仁 1139-1155 近衞天皇 1142–1155(76) |
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| | 憲仁 1161-1181 高倉天皇 1168–1180(80) | | | | | | | | 守仁 1143-1165 二條天皇 1158–1165(78) |
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1179-1223 守貞親王 (後高倉院) | | 言仁 1178-1185 安徳天皇 1180–1185(81) | | 尊成 1180-1239 後鳥羽天皇 1185–1198(82) | | 順仁 1164-1176 六條天皇 1165–1168(79) |
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茂仁 1212-1234 後堀河天皇 1221–1232(86) | | | | 為仁 1196-1231 土御門天皇 1198–1210(83) | | 守成 1197-1242 順徳天皇 1210–1221(84) |
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秀仁 1231-1242 四條天皇 1232–1242(87) | | | | 邦仁 1220-1272 後嵯峨天皇 1242–1246(88) | | 懐成 1218-1234 仲恭天皇 1221(85) |
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1242-1274 宗尊親王 1252-1266(鎌倉将軍6) | | | | | 久仁 1243-1304 後深草天皇 1246–1260(89) | | | | | | | 恒仁 1249-1305 龜山天皇 1260–1274(90) |
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1264-1326 惟康親王 1266-1289(鎌倉将軍7) | | 熈仁 1265-1317 伏見天皇 1287–1298(92) | | | | 1279-1308 久明親王 1289-1308(鎌倉将軍8) | | | | 世仁 1267-1324 後宇多天皇 1274–1287(91) |
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| | 胤仁 1288-1336 後伏見天皇 1298–1301(93) | | 富仁 1297-1348 花園天皇 1308–1318(95) | | 1301-1333 守邦親王 1308-1333(鎌倉将軍9) | | 邦治 1285-1308 後二條天皇 1301–1308(94) | | 尊治 1288-1339 後醍醐天皇 1318–1339(96) |
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| | 量仁 1313-1348 光厳天皇 1332–1334(北朝1) | | 豊仁 1322-1380 光明天皇 1336–1348(北朝2) | | | | 義良 1328-1368 後村上天皇 1339-1368(97) | | 1308-1335 護良親王 征夷大将軍 1333-1334 | | 1326-1338/1344 成良親王 征夷大将軍 1334-1338 | |
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| | 興仁 1334-1398 崇光天皇 1348–1351(北朝3) | | 弥仁 1336-1374 後光嚴天皇 1352–1371(北朝4) | | 寛成 1343-1394 長慶天皇 1368–1383(98) | | 熙成 1350?-1424 後龜山天皇 1383-1392(99) |
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| | 1351-1416 伏見宮栄仁親王 | | 緒仁 1339-1393 後圓融天皇 1371–1382(北朝5) | | 参照: 南朝、北朝 |
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| | 1372-1456 伏見宮貞成親王 (後崇光院) | | 幹仁 1377-1433 後小松天皇 1382-1392(北朝6) 1392–1412(100) |
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| | 彦仁 1419-1471 後花園天皇 1428–1464(102) | | 躬仁 1401-1428 称光天皇 1412–1428(101) |
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| | 成仁 1442-1500 後土御門天皇 1464–1500(103) |
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| | 勝仁 1464-1526 後柏原天皇 1500–1526(104) |
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| | 知仁 1497-1557 後奈良天皇 1526–1557(105) |
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| | 方仁 1517-1593 正親町天皇 1557–1586(106) |
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| | 1552-1586 誠仁親王 (陽光院) |
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| | 和仁 1572-1617 後陽成天皇 1586–1611(107) |
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| | 政仁 1596-1680 後水尾天皇 1611–1629(108) |
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興子 1624-1696 明正天皇 1629-1643(109) | | 紹仁 1633-1654 後光明天皇 1643–1654(110) | | 良仁 1638-1685 後西天皇 1655–1663(111) | | 識仁 1654-1732 靈元天皇 1663–1687(112) |
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| | | | | | | | | | | | 朝仁 1675-1710 東山天皇 1687–1709(113) |
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| | | | | | | | 1704-1753 閑院宮直仁親王 | | 慶仁 1702-1737 中御門天皇 1709–1735(114) |
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| | | | | | | | | | | | | 昭仁 1720-1750 櫻町天皇 1735–1747(115) |
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| | | | | | | | 1733-1794 閑院宮典仁親王 (慶光天皇) | | 遐仁 1741-1762 桃園天皇 1747–1762(116) | | 智子 1740-1813 後櫻町天皇 1762–1771(117) |
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| | | | | | | | | | | | | 英仁 1758-1779 後桃園天皇 1771–1779(118) |
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| | | | 1780-1843 勧修寺婧子 | | 師仁 1771-1840 光格天皇 1780–1817(119) | | 1779-1846 欣子内親王 |
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| | | | | | 恵仁 1800-1846 仁孝天皇 1817–1846(120) |
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| | | | | | 統仁 1831-1867 孝明天皇 1846–1867(121) |
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| | | | | | 睦仁 1852-1912 明治天皇 1867–1912(122) |
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| | | | | | 嘉仁 1879-1926 大正天皇 1912–1926(123) |
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| | | | | | 裕仁 1901-1989 昭和天皇 摂政 1921-1926 1926–1989(124) |
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| | | | | | 明仁 1933- 上皇明仁 1989–2019(125) |
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徳仁 1960- 今上天皇 2019-(126) | | 1965- 皇嗣 秋篠宮文仁親王 | | 1969- 黒田清子 |
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2001- 愛子内親王 | | 1991- 小室眞子 | | 1994- 佳子内親王 | | 2006- 悠仁親王 |
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親族としては、祖父に経済学者の川嶋辰彦叔父に獣医師、獣医学者の川嶋舟、叔母に実業家の栗原菜緒、義兄にニューヨーク州弁護士で法務博士の小室圭がいる。
令和元年5月1日時点では、父・文仁親王(59)に次いで第2位。天皇徳仁に皇男子(皇太子)が誕生するか、悠仁親王自身または文仁親王が即位前に薨去、あるいは皇室会議で皇位継承順位を入れ替えられない限り第128代天皇となる。平成生まれでは唯一であり、最年少の皇位継承資格者である。
菊栂(きくつが)一宮家(秋篠宮家)の生まれであり、また当主ではないため、天皇の皇子や皇女に与えられる御称号は持たず「秋篠宮」という宮号も冠さない。
身位・敬称を含めた表現は宮内庁公式HPでは「悠仁親王殿下」と表記している。
ただし、幼稚園においては姉の小室眞子、佳子内親王同様、便宜上「秋篠宮」を名字の代わりとして用いていた[注釈 2]。
誕生時には、21か国の元首から天皇明仁・皇后美智子へ、31か国の元首から天皇明仁へ、それぞれ皇孫誕生の祝電が寄せられた[73]。悠仁親王が誕生したことで、2006年(平成18年)の今年の漢字に「命」が選ばれた。また2位には「悠」がランクインした[74]。さらに3位には「生」、5位には「子」がランクインしている[75]。
利き手は左利きで、バドミントンをプレーする際は左手でラケットを握り、文字を書く際などは右手を使うという[76]。
祖父母の天皇明仁・皇后美智子が初めて見舞いに訪れた際には、白いベビーシューズを母子に贈った。この靴は、悠仁親王1歳の誕生日の記念写真でソファ脇の机に飾られているのを見ることができる[77]。
トルコのトプカプ宮殿博物館からは国宝「金のゆりかご」が貸し出され、2007年(平成19年)8月から9月まで東京都美術館で開催された「トプカプ宮殿至宝展」で特別展示された。これは門外不出の国宝で、トプカプ宮殿博物館館長の厚意により実現したもの。
お印が高野槇と決まった後、高野槇を市の木とする岐阜県中津川市の中津川観光協会が高野槇の写真入のパンフレット用紙袋を製作した。また高野槇の名の由来である高野山への交通手段である南海電気鉄道では、誕生記念として難波駅で高野槇1000本を乗客に無料配布した。
悠仁親王は皇室では41年ぶりの男子誕生だったが、宮内庁はあくまで一宮家の生まれであるとして誕生を祝うための記帳所を設けなかった。しかし地方自治体や寺社などでは独自に記帳所を設けたところもあった。
悠仁親王の誕生は世界各国のメディアで報道された。王室を持つイギリスでは日本の皇位継承問題に関心があったこともあり、BBCニュースはトップニュースで報道[78]。アメリカのCNNでは速報で東京特派員が「It's a boy!」と伝えた。またアメリカのニューヨーク・タイムズ紙電子版やTIME誌[79]、中国の新華社通信、韓国の聯合ニュースや朝鮮日報紙[80] なども速報記事や特集記事を出した。また日本国内でも各メディアが報じたが、独立局である三重テレビでは10:59のスポットCM枠で特設ニュース枠が設けられ報じられた。
- ^現在の設置者は、公益法人の社会福祉法人であるが、1934年(昭和9年)に、継宮明仁親王(第125代天皇・明仁)の出産を記念し、昭和天皇より受けた下賜金をもとに創設され、高円宮家の女王3人(承子女王、千家典子、守谷絢子)の出産に際して使用されるなど、皇室との関わりも深い。また、都内の出産事情においては、聖路加国際病院、山王病院と共に、「ブランド出産御三家」の一つとして、高級病院とされている。(『愛育ママの秘密』(桜井美貴子著 ブックマン社 2007.3))
- ^2010年(平成22年)4月9日 朝日新聞「悠仁さま、幼稚園の入園式」入園式では"秋篠宮悠仁さん"と呼ばれた。
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