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徳川誠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
徳川とくがわまこと
德川 誠󠄁
男爵・徳川誠
生年月日1887年10月31日
没年月日 (1968-11-11)1968年11月11日(81歳没)
出身校学習院中等科卒業
前職浅野セメント監査役
所属政党公正会
称号正四位
男爵
配偶者徳川霽子
親族父・徳川慶喜(征夷大将軍・貴族院議員)
義父・名和長憲(貴族院議員)
兄・徳川厚(貴族院議員)
兄・池田仲博(貴族院議員)
兄・徳川慶久(貴族院議員)
義兄・徳川達孝(貴族院議員)
義兄・徳川圀順(貴族院議長)
義兄・蜂須賀正韶(貴族院副議長)
義兄・大河内輝耕(貴族院議員)
義兄・四条隆愛(貴族院議員)
甥・徳川慶光(貴族院議員)
甥・徳川喜翰(貴族院議員)
甥・大木喜福(貴族院議員)
甥・朽木綱博(貴族院議員)
甥・四条隆徳(貴族院議員)
甥・蜂須賀正氏(貴族院議員)
選挙区貴族院男爵議員
当選回数1回
在任期間1946年5月 -1947年5月2日
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徳川 誠(とくがわ まこと、旧字体德川 誠󠄁1887年明治20年)10月31日 -1968年昭和43年)11月11日)は、日本実業家政治家爵位男爵

浅野セメント株式会社監査役貴族院議員などを歴任した。

来歴

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生い立ち

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江戸幕府第15代征夷大将軍徳川慶喜の九男。幼少時に指物商の小長井勝次郎の元へ里子に出される(里子より戻って慶喜に挨拶をした際に、町方言葉で「チャン」と慶喜のことを呼び、周囲が大慌てした[1])。1891年(明治24年)4月、姉・英子とともに静岡高等小学校付属幼稚園に入る。1897年(明治30年)9月、弟・精とともに静岡から東京に移り、学習院に入学する。1908年(明治41年)3月、学習院中等科を卒業。同年、アメリカ合衆国ミシガン州ホープ・カレッジ英語版留学。後に山本重礼の養子となったものの、離籍する。さらに分家して一家の戸主となった。

実業家として

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アメリカから帰国後、横浜正金銀行に勤務した。アメリカやフランスの支店に赴任し、大正9年に帰国した。帰国後、横浜正金銀行を退職した。その後、浅野セメント監査役に就いた。その間の大正2年(1913年)11月5日には男爵を授けられた。昭和21年(1946年)5月、貴族院男爵議員補欠選挙にて貴族院議員に選出された[2][3]。貴族院では公正会に所属し、昭和22年(1947年)5月2日の貴族院廃止まで務めた[2]。墓所は谷中霊園寛永寺墓地。

栄典

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系譜

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脚注

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  1. ^女聞き書き 徳川慶喜残照
  2. ^ab『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』78頁。
  3. ^『官報』第5815号、昭和21年6月5日。
  4. ^『官報』第382号「叙任及辞令」1913年11月6日。
  5. ^『官報』第4289号「叙任及辞令」1926年12月9日。
  6. ^『官報』第2394号「叙任及辞令」1934年12月22日。

参考文献

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  • 帝国秘密探偵社『大衆人事録 東京篇』(第13版)、1939年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。

関連項目

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日本の爵位
先代
叙爵
男爵
徳川誠家(慶喜家分家)初代
1913年 -1947年
次代
華族制度廃止
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