Movatterモバイル変換


[0]ホーム

URL:


コンテンツにスキップ
Wikipedia
検索

徳川家斉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
徳川 家斉
徳川家斉像(德川記念財団蔵)
時代江戸時代後期(大御所時代)
生誕安永2年10月5日1773年11月18日
死没天保12年1月7日1841年2月27日)(67歳没)
改名豊千代(幼名)→家斉
諡号文恭院
墓所東叡山寛永寺
官位従二位権大納言正二位内大臣
右近衛大将右大臣
従一位左大臣左近衛大将太政大臣
正一位
幕府江戸幕府 第11代征夷大将軍
(在任:天明7年(1787年) - 天保8年(1837年))
氏族一橋徳川家徳川将軍家
父母父:徳川治済
母:岩本富子
養父:徳川家治
兄弟家斉治国黒田斉隆雄之助斉匡斉敦松平義居久之助本之丞
正室近衛寔子
側室:多数
家慶敦之助斉順虎千代斉明斉荘池田斉衆松平斉民斉温松平斉良斉彊松平斉善蜂須賀斉裕松平斉省松平斉宣他多数
猶子:尊超入道親王
テンプレートを表示

徳川 家斉(とくがわ いえなり、旧字体:德川家齊)は江戸幕府の第11代将軍(在任:天明7年(1787年) - 天保8年(1837年))。第8代将軍吉宗の曾孫。第10代将軍家治従伯父(実父の従兄)かつ養父。

生涯

[編集]

第11代将軍就任

[編集]

一橋家当主・一橋治済の長男として安永2年(1773年)10月5日に出生。母は旗本の岩本正利の娘・富子。

安永8年(1779年)に第10代将軍・徳川家治の世嗣・家基の急死後、家治に他に男子がおらず、また家治の弟である清水重好も子供がいなかったことから、将軍継嗣問題が発生する。家治は安永10年(1781年)2月に家基の3回忌法要を済ませた後、4月に将軍継嗣となるべき養子の人選係を老中の田沼意次、若年寄酒井忠休留守居依田政次の3名に命じた。この結果、閏5月18日に御三卿一橋徳川家徳川治済の嫡子である豊千代に決定し、11月2日に豊千代は家斉と改名し、天明2年(1782年)4月2日に従二位権大納言に叙任された。この際に家斉を将軍継嗣とした立役者は田沼意次であり、天明元年(1781年)7月15日に将軍養子人選の労を家治に賞されて、1万石の加増を受けている[1]竹内誠はこの継嗣決定に何か裏があり、意次の弟・意誠やその子・意致らが家老として一橋徳川家と通じていたことから、意次と治済が必然的に将軍継嗣を出す素地を作り出していたとしている[2]

家治(50歳)が天明6年(1786年)に病死したので、天明7年(1787年)に15歳で第11代将軍に成る。

寛政の改革

[編集]
→詳細は「寛政の改革」を参照

将軍に就任すると、家治時代に権勢を振るった田沼意次を罷免し、代わって徳川御三家から推挙された陸奥白河藩主で名君の誉れ高かった松平定信老中首座に任命した。これは家斉が若年のため、家斉と共に第11代将軍に目されていた定信を御三家が立てて、家斉が成長するまでの代繋ぎにしようとしたのである。定信が主導した政策を寛政の改革と呼ぶ。

寛政元年(1789年)、近衛寔子島津重豪の娘、近衛経熙の養女)と結婚している。

寛政の改革では積極的に幕府財政の建て直しが図られたが、厳格過ぎたため次第に家斉や他の幕府上層部から批判が起こり、さらに尊号一件なども重なって、次第に家斉と定信は対立するようになった。寛政5年(1793年)7月、家斉は父・治済と協力して定信を罷免し、寛政の改革は終わった。

ただし、松平定信の失脚はただちに幕政が根本から転換したことを示すわけではない。家斉は定信の下で幕政に携わってきた松平信明を老中首座に任命した。これを戸田氏教本多忠籌ら定信が登用した老中たちが支える形で定信の政策を継続していくことになる。このため彼らは寛政の遺老と呼ばれた。

大御所時代

[編集]
→詳細は「大御所時代」を参照

文化14年(1817年)に松平信明は病死した。他の寛政の遺老たちからも、老齢などの理由で辞職を申し出る者が出てきた。このため文政元年(1818年)から、家斉は側用人水野忠成を勝手掛・老中首座に任命し、牧野忠精ら残る寛政の遺老たちを幕政の中枢部から遠ざけた。忠成は定信や信明が禁止した贈賄を自ら公認して収賄を奨励した。さらに家斉自身も、宿老たちがいなくなったのをいいことに奢侈な生活を送るようになり、さらに異国船打払令を発するなどたび重なる外国船対策として海防費支出が増大したため、幕府財政の破綻・幕政の腐敗・綱紀の乱れなどが横行した。忠成は財政再建のために文政期から天保期にかけて8回に及ぶ貨幣改鋳・大量発行を行なっているが、これがかえって物価の騰貴などを招くことになった。

文政10年(1827年)、太政在院年数が40年になったため自分から朝廷に働きかけるようになり、太政大臣に任じられる(後述)。

天保5年(1834年)に忠成が死去すると、寺社奉行京都所司代から西丸老中となった水野忠邦がその後任となる。しかし実際の幕政は家斉の側近である林忠英らが主導し、家斉による側近政治はなおも続いた。この腐敗政治のため、地方では次第に幕府に対する不満が上がるようになり、天保8年(1837年)2月には大坂で大塩平八郎の乱が起こり、さらにそれに呼応するように生田万の乱をはじめとする反乱が相次いで、次第に幕藩体制に崩壊の兆しが見えるようになる。また同時期にモリソン号事件が起こるなど、海防への不安も一気に高まった。

天保8年(1837年)4月、次男・家慶に将軍職を譲っても大御所として幕政の実権は握り続けた(大御所時代)。

最晩年と最期

[編集]

最晩年は老中の間部詮勝堀田正睦田沼意正(意次の四男)を重用している。

天保12年(1841年)閏1月7日に死去した。享年69(満67歳没)。栄華を極めた家斉であったが、最期は誰にも看取られぬまま息を引き取ったと伝えられ、侍医長・吉田成方院は責任を問われ処罰された(『井関隆子日記』)。なお、死亡日は『井関隆子日記』には閏1月7日と記されているが、『続徳川実紀』は「閏1月30日」としており、幕府が死を秘匿したと考えられている。

家斉の死後、その側近政治は幕政の実権を握った水野忠邦に否定され、旗本若年寄ら数人が罷免・左遷される。そして間部詮勝堀田正睦などの側近は忠邦と対立し、老中や幕府の役職を辞任する事態となった。

官歴

[編集]

※日付=旧暦

内大臣右大臣左大臣太政大臣を順番に歴任した武家は家斉だけであり、かつ生涯で一度も上洛したことがないまま太政大臣に就任した武家も家斉だけである。また、征夷大将軍と太政大臣の両職に就任した人物は足利義満徳川家康徳川秀忠もいるが、いずれも将軍職を息子に譲った後に太政大臣となっており、両職を現職で兼務したのは家斉だけである(太政大臣就任の1827年から将軍を退任する1837年まで10年間両職を兼務。太政大臣は1841年の死去まで在職)。

徳川家斉の太政大臣任命

[編集]

尊号一件で一時的に緊迫した朝幕関係であるが、文政5年(1822年)に家斉は左大臣に、世子家慶は内大臣に任じられた(いずれも武家官位)。更に3年後の文政8年(1825年)には一橋治済が准大臣に任じられた。

文政9年(1826年)7月10日、京都所司代松平康任から関白鷹司政通に対し、幕府の意向として家斉・家慶父子の更なる昇進が可能かという打診が行われた。ただし、この時点で家斉は既に左大臣になっているため、太政大臣と准三后以外に選択肢はなかった。政通は実父である禅閤鷹司政煕と太閤一条忠良と相談した上で15日に仁孝天皇に拝謁、この問題を協議した。この中で、政通は家斉は40年以上将軍職にあり、かつ年齢も50歳を過ぎていること、在任中は太平が保たれていることを考えると太政大臣の要件を満たしている。また、最終的に本人が辞退をしているものの、徳川家光に太政大臣任命を内定したことがあるので、現職の将軍が太政大臣になれないことはない。ただし、太政大臣が天皇に拝謁したことがない(上洛経験がない)のは不自然であるとする(天皇が見ず知らずの人物を最も高位の大臣に任命することになってしまうため)。一方、准三后は足利将軍家では先例があるが、徳川将軍家では初例となる。いずれにしても将軍の意向に従って選んで貰った方が良いのではないかと述べている。天皇もこの見解に同意し、続いて政通が拝謁した光格上皇も同様の反応であった。16日に政通は康任に太政大臣と准三后のどちらを希望するのか幕府が決めて欲しいと伝えている。幕府では太政大臣任官(家慶は従一位への昇叙)を選択したが、将軍の上洛も大臣任官時に開催される節会も開かれない異常な形態にならざるを得なかった。朝廷側は太政大臣という立場の特殊性から幕府からの御礼の使者として御三家越前松平家クラスの派遣を望んだが、幕府は尾張藩主・紀伊藩主が健康問題があることを理由(水戸藩主を上洛させると、江戸の御三家の機能が失われる)として困難との立場を取り、12月になって家斉の使者として井伊直亮(彦根藩主)、家慶分の使者[注釈 1]として松平定永(桑名藩主)、家慶個人の使者として畠山義宣(高家)が派遣され、別に老中首座で京都所司代経験もある青山忠裕(篠山藩主)を派遣する意向が決定され、翌文政10年(1827年)年始に新任の京都所司代(前年10月に就任)である水野忠邦から伝えられた。2月16日、朝廷で家斉の太政大臣昇進と家慶の従一位叙位が正式に決定され、3月18日に江戸城において勅使から伝達が行われた[3]

勿論、幕府側もただで昇進が受けられる訳ではなかった。文政5年の家斉の左大臣就任の際には、見返りに光格上皇の修学院離宮への行幸に対する支援を行っていることからも予想されていた。表坊主である竹尾次春の『松栄色』(第九冊)には、幕府から天皇・上皇・堂上公家・親王・門跡・地下官人に配られた金品が8万両とも9万両とも言われている、更に江戸の武士たちは関連行事に伴う出費で苦しんでいるのに、京都では経済効果で庶民まで潤っていると記している。ただし、朝廷が望んでいたのは朝廷儀式再興のための幕府からの財政協力であり、青山忠裕の上洛時に中和院の造営(再建)・朝覲行幸の再興・両賀茂社行幸の再興・蔵米取の公家への増米と無給官人への給米・神祇官の再興などを要望したと伝えられている。ただし、これは朝廷側でも全てが実現できるとは考えていなかったらしく、実際には朝覲行幸の再興に絞って朝幕間の協議が行われることになった[4]

家斉の子女・妻妾

[編集]
  • 少なくとも16人の妻妾を持ち、歴代徳川将軍の中で最多となる53人の子女(息子26人・娘27人)を儲けたと言われる。しかし成人したのは約半分の28人で、成人した家斉の子の多くは子供(家斉にとっての孫)がなく、あるいは早世して血筋が途絶えることが多かった。現代まで血筋を残しているのは、斉民斉裕溶姫の3人だけである。
  • 従来、徳川将軍の庶男子は御三家などの親藩に取り立てるのが通例だったが、幕府財政上の制約もあってか、家斉は新規の親藩創設は行わず、男子を既存の諸大名家や御三卿(田安家・清水家)に養子として直接送り込んだ[5]。これにより、第12代将軍となる家慶を除く長命の男子は他家の養子となったが、養子先に選ばれた諸国の大名家の中にはすでに実子が誕生していた例もあった(播磨明石藩など)。
  • 子女の多くは大藩の大名に関係することから、血縁関係による大名統制をとったとも考えられる。また、将軍の子を迎える大名に、それに伴う儀礼などによる経済的負担を課していたとも考えられる。一橋宗尹以来の一橋家の養子戦略の延長でもある。
  • 家斉の子を養子もしくは正室として迎えた(続柄)大名家に対しては特別な待遇が与えられた。文化8年(1821年)に禁じられた幕府から大名への拝借金が、続柄の大名家に対しては家斉の子女のためという口実で下された。さらに津山藩には5万石、明石藩には2万石、福井藩には2万石の加増が行われ、尾張藩には知行替と称して経済上の要地(表高より実収入がはるかに多い)近江八幡が与えられた。官位の面でも便宜を受け、将軍の子や娘婿として本来の家格よりも上位の官位が授けられた。従って家斉と姻戚関係にある大名家は、それまで同格とされてきた他家に対しても優位となった。そして天保7年(1836年)・同11年(1840年)の2度にわたって三方領知替えが行われた。最初は竹島事件における浜田藩の処分に乗じて、館林藩を浜田に移封させた。しかし、2度目の川越藩庄内藩への移封計画は、庄内藩領民の激しい抵抗に遭遇した上、家斉と姻戚関係にある大名家への厚遇に対する諸大名の不満をも噴出させた。このため、家斉が死去した天保12年(1841年)7月には庄内藩などの三方領知替えの中止が決定され、12月には家斉時代の官位の上昇は以後の先例とはならないと宣言せざるを得なくなった[6][7]
子女と生母
生母
順番名前生年没年享年備考名前備考
五男敦之助1796年1799年3清水徳川家当主・徳川重好の養子正室近衛寔子(広大院島津重豪の娘、近衛経熙の養女
男子流産清雲院1798年1798年0
長女淑姫1789年1817年28尾張徳川家当主・徳川斉朝に嫁ぐ側室お万の方(勢真院平塚為喜の娘
次女瓊岸院1790年1790年0
長男竹千代1792年1793年1
三女綾姫1795年1797年2仙台藩主・伊達周宗と婚約
次男家慶1793年1853年60第12代将軍お楽の方(香琳院押田勝敏の娘
三男端正院1794年1794年0お梅の方(真性院水野忠芳の娘
四男敬之助1795年1797年2尾張徳川家当主徳川宗睦の養子お歌の方(宝池院水野忠直の娘
六男豊三郎1798年1798年0
六女五百姫1799年1800年1
九女舒姫1802年1803年1
四女総姫1796年1797年1お志賀の方(慧明院能勢頼能の娘
男子流産即幻院1798年1798年0
五女格姫1798年1799年1お里尾の方(超操院朝比奈矩春の娘
七女峰姫1800年1853年53水戸徳川家当主・徳川斉脩に嫁ぐお登勢の方(妙操院梶勝俊の娘
七男斉順1801年1846年45清水徳川家、後に紀伊徳川家当主・徳川治宝の養嗣子として相続。
流産真空院1803年1803年0
十女寿姫1803年1804年1
十二女晴姫1805年1807年2
八女亨姫1801年1802年1お蝶の方(速成院曽根重辰の娘
八男時之助1803年1805年2
九男虎千代1806年1810年4紀伊徳川家徳川治宝の養嗣子。治宝長女の鍇姫(信恭院)婚約者。
十男友松1809年1813年4
十二男斉荘1810年1845年35田安徳川家徳川斉匡の養子、後に尾張徳川家当主・徳川斉温の養子
十九女和姫1813年1830年17長州藩主・毛利斉広に嫁ぐ
十六男久五郎1815年1817年2
流産法如院1802年1802年0お美尾の方(芳心院木村重勇の娘。名は八十、筆などとも。
十一女浅姫1803年1857年54福井藩松平斉承に嫁ぐ
十三女高姫1806年1806年0お屋知の方(清昇院大岩盛英の娘、諸星信邦の養女
十五女元姫1808年1821年13会津藩松平容衆に嫁ぐ
十四女岸姫1807年1811年4お袖の方(本性院吉江政福の娘
十六女文姫1809年1837年28高松藩主・松平頼胤に嫁ぐ
十七女艶姫1811年1811年0
二十女孝姫1813年1814年1
十八男陽七郎1818年1821年3
二十一男斉彊1820年1849年29清水徳川家、後に異母兄(八兄)で紀伊徳川家当主・徳川斉順の養嗣子として相続。
二十四男富八郎1822年1823年1
十一男斉明1809年1827年18清水徳川家の養子お八重の方(皆春院牧野忠克の娘、土屋知光の養女
十八女盛姫1811年1846年35佐賀藩主・鍋島直正に嫁ぐ。法名は孝盛院。
十三男斉衆1812年1826年14鳥取藩主・池田斉稷の養子
十五男斉民1814年1891年77津山藩主・松平斉孝の養子(現在まで残っている家斉の男系子孫は、斉民の子孫のみである)
十七男信之進1817年1817年0
二十五女喜代姫1818年1868年50姫路藩主・酒井忠学に嫁ぐ
二十男斉良1819年1839年20浜田藩主・松平斉厚の養子
二十三男斉裕1821年1868年47徳島藩主・蜂須賀斉昌の養子
二十一女溶姫1813年1868年55加賀藩主・前田斉泰に嫁ぐお美代の方(専行院中野碩翁の養女(実父は諸説あり不明)
二十三女仲姫1815年1817年2
二十四女末姫1817年1872年55広島藩主・浅野斉粛に嫁ぐ
十四男奥五郎1813年1814年1お八百の方(智照院安部正芳の娘
二十二女琴姫1815年1816年1お以登の方(本輪院大岩盛英の娘、諸星信邦の養女
二十六女永姫1819年1875年56一橋徳川家当主・徳川斉位に嫁ぐ
二十二男斉善1820年1838年18福井藩主・松平斉承の養子
二十五男斉省1823年1841年18川越藩主・松平斉典の養子
二十六男斉宣1825年1844年19明石藩主・松平斉韶の養子
十九男斉温1819年1839年20尾張徳川家当主・徳川斉朝養子お瑠璃の方(青蓮院戸田政方の娘
二十七女泰姫1827年1843年16鳥取藩主池田斉訓に嫁ぐ

子孫

家慶:12代将軍

斉順:清水徳川家第3代当主、和歌山藩第11代藩主

斉民:津山藩8代藩主

斉裕:徳島藩13代藩主

溶姫:加賀前田藩第12代藩主 前田斉泰の正室

人物・逸話

[編集]
  • 徳川実紀』によれば、家臣の武芸披露を上覧した際に末席の武士の氏名・品格をよく覚えていたとされ、記憶力は並外れたものがあった[8][9]
  • 頼山陽の『日本外史』では、家斉の治世50年間は「武門天下を平治する。ここに至って、その盛りを極む」とあり、家斉の治世は将軍が政務に無関心であっても世は平穏で幕府の権勢が絶頂期にあったとしている[8]
  • 家斉の時代は江戸幕府における最後の絶頂期・黄金期であった。東京帝国大学教授で江戸時代政治史の骨格を作り上げたことで知られる三上参次は、徳川綱吉元禄時代と並ぶ「極盛時代にして、平安時代の最盛期といわれる延喜天暦の代に匹敵する」と評している[10]
  • 家斉の在職期間は「化政文化」といわれた江戸文化の絶頂期でもあった。『風雲児たち』の作者みなもと太郎は、寛政の改革を若い頃に経験した家斉が「改革なんか上下ともに迷惑、あのようなことはやるものではない」と放任政策をとったことが結果的に町人文化の発展に貢献した、としている。
  • 在職期間50年は、江戸幕府将軍だけでなく歴代の征夷大将軍の中でも最長記録であるが、その生涯で一度も日光社参はしなかった。
  • 家斉の将軍職就任を祝賀して派遣された朝鮮通信使が、江戸時代最後の朝鮮通信使となった。ただし対馬での応接にとどめ、江戸へ招かなかった。
  • 大樹寺にある位牌から推定すると、身長は156.6センチである。徳川将軍15人の中で5番目の長身であり、後期の将軍の中では大柄である。
  • 「俗物将軍」と渾名されたが、これは幕政をほとんど主導せずに松平定信松平信明らの幕閣に任せ、自分は大奥に入り浸っていたことに由来すると言われる。また多くの子女を儲け、彼らを多くの大名家に縁組させたことは、幕府財政を大きく揺るがせることとなった。
  • 次男の家慶とは不仲であったと言われる。家斉が日蓮宗を信仰していたのに対し、家慶は浄土宗を信仰していたこと、家斉が大御所となってからも権力を握り続けたことなどからも、2人の関係性が窺える。
  • 多くの子を作ったのは、15歳で将軍職を継ぐ際に、子女を多く儲けるように実家・一橋徳川家より訓戒を受けたためであり、徳川家の天下を一橋家の系統で押さえるためでもあった。このため、水戸徳川家を除く御三家御三卿には家斉の弟や甥、もしくは実子が養子入りしている(ただし家斉の出身・一橋家は徳川昌丸で家斉の血は絶え、水戸徳川家から徳川慶喜が養子入りし、後に将軍となっている)。
  • 宴会好き(後述)で女好きという自堕落な印象があるものの、実際には毎朝早く起床し、規則正しい生活を送っていた[9][8]
  • 最晩年(1841年)に疝癪(原因不明の腹痛)を患うまでは、在職した50年間の中で病臥したのは数回の感冒のみであった。死因は疝癪が元の急性の胃腸炎腹膜炎と考えられている[11]
  • 晩年になっても先代・家治の息子・家基の命日に自ら参詣するか、若年寄を代参させていた。養子に入った先の先代の子供にここまで敬意を払うのは異例であり、家基が変死していることもあり、北島正元は家斉が家基は自分を将軍の座に就けようとしていた治済に暗殺されたと疑っていた可能性が高いとしている。また上記の通りほとんど病臥することはなかったものの、生涯頭痛に悩まされていた。これは家基の祟りを恐れていたためと言われている。
  • 父・治済の存命中は言いなりであったと言われる。
  • 従一位太政大臣にまで昇任しているが、徳川将軍としての従一位への昇任は第3代将軍徳川家光以来、太政大臣への昇任は第2代将軍徳川秀忠以来である。明治期の文献には「藤原氏にあらずして位人臣を極めた者といえば足利義満豊臣秀吉・徳川家斉・伊藤博文」という趣旨の記載もある[12]
  • 京都の方広寺大仏(京の大仏)は日本一の高さを誇っていたが、寛政10年(1798年)に落雷のため焼失してしまった。方広寺を管理下に置いていた妙法院の時の門主真仁法親王より大仏再建を求める嘆願書が江戸幕府へ提出されたが[13]、家斉が方広寺大仏再建に手を貸すことはなかった。
  • 家斉の死後、幕府では朝廷に諡号案の作成を要請し、これを受けて朝廷では複数の諡号案を作成して幕府に送付することになった。その審議中に関白鷹司政通の父である太閤鷹司政煕が病死した。政通は手元にあった家斉の諡号案の中にあった「文恭院」が気にいって政煕の諡号としてしまった。ところが、1か月後に幕府から家斉の諡号を「文恭院」と定めたとの通知が朝廷に届けられた。家斉の諡号案を流用したことが発覚した政通は窮地に陥ったが、政通のブレーンであった伊藤東峯古義堂第5代)の咄嗟の判断で「文思恭院」の誤りであるとした。政煕の諡号決定が天保12年2月11日で翌日には届出があり、葬儀が2月25日に実施されたのに対し、幕府から朝廷に家斉の諡号決定の通知が届いたのは3月17日のことであった。これが偶然の一致であったのか、政治的な思惑があったものなのかは不明である(少なくても喪中の政通に代わって朝議を主導しており、かつ「文恭院」案の推挙者とみられる近衛忠煕や諡号案の審議に加わった公卿達は政通の行為に気付いていたと考えられる)[14]

趣味・嗜好

[編集]
  • 運動神経が良く、乗馬が趣味だった。毎年冬に吹上の馬場に南部仙台の馬を集め、家臣が馬に乗るのを見ながら良い馬に札を付けるなど、自ら馬を目利きしていた[9]
  • 馬術の奥義を嗜み、打毬を好んだ。五十三間の広さの馬場で打毬を行った際、馬場の端にある毬門に正確に毬を投入するなどかなりの腕前であり、近習や老臣で家斉にかなう者はいなかったという[9]
  • 曾祖父の吉宗が好んでいたと知り、幼い頃から鷹狩を楽しんでいた。家斉の鷹狩の技術は卓越しており、風の逆順や地形良し悪しを読み、理詰めで獲物を追い詰めるのが得意であり、老練な鷹師もその腕前に感服するほどだった[9][8]
  • 絵画も嗜み、もっぱら諸葛孔明の絵を描いていた[9]
  • 読書も好きで、特に『三河記』、『家忠日記』、『北越軍談』、『甲陽軍鑑』といった徳川家康やその時代に関連する書物を多数読み込み、内容を暗記するほどだった。三国志が大好きであり、家中ではよく諸葛孔明の活躍を語っていたという[9]
  • 将軍の別邸である浜御殿によく出かけていた。気に入った旗本を度々招待し、植木鉢を下賜したり、釣りに興じたり、料理や酒でもてなしていた[15]
  • 酒が好きであり、頻繁に宴会を開いていた。毎晩のように晩酌をし、浴びるように飲んでも酒乱にはならなかったとされるが、晩年になると節酒に転じ、3献以上を飲まないようにしていた[9]
  • 「白牛酪(はくぎゅうらく)」という今日で言うチーズのような高タンパク乳製品を大変好んだ。医者に『白牛酪考』といった本まで書かせている。
  • 生姜も大好物で、一年中毎日欠かさず食べていたという。これが並外れた精力増強に作用していたとも言われる。息子の家慶も生姜好きであった。また、精力増強のためオットセイ陰茎を粉末にしたものを飲んでいたので「オットセイ将軍」とも呼ばれた。
  • 絹織物の御召縮緬を好んだ。家斉が好んで御止め柄(お納戸色に白の細格子縞)を定めた桐生産が御召の発祥という。

家斉が偏諱を与えた人物

[編集]

(凡例:◆…家斉の息子、◇…家斉の近親者(弟や甥など)、☆…家斉の娘婿(詳しくは前項を参照)、「斉」は本来、旧字体で「」と表記するのが正式だが、ここでは前者に統一する。)

●徳川・松平家一門
●公家(二条家)と外様大名

関連作品

[編集]

小説

[編集]
  • 『十五万両の代償~十一代将軍家斉の生涯』(2007年、著:佐藤雅美)
  • 『上様出陣!~徳川家斉挽回伝』(著、牧秀彦)

映画

[編集]

テレビドラマ

[編集]

漫画

[編集]

脚注

[編集]
[脚注の使い方]

注釈

[編集]
  1. ^従一位に叙せられる家慶の父親としての家斉からの御礼の使者。

出典

[編集]
  1. ^北島 1989, p. 296.
  2. ^北島 1989, p. 297.
  3. ^金炯辰『近世後期の朝廷運営と朝幕関係-関白鷹司政通と学問のネットワーク-』東京大学出版会、2025年、32-46頁。ISBN 978-4-13-026615-4 
  4. ^金炯辰『近世後期の朝廷運営と朝幕関係-関白鷹司政通と学問のネットワーク-』東京大学出版会、2025年、32・52-60頁。ISBN 978-4-13-026615-4 
  5. ^喜田貞吉 著「大名」、日本歴史地理学会 編『江戸時代史論』仁友社、1915年10月12日、570頁。 
  6. ^徳川禁令考』2398号
  7. ^藤田覚「一九世紀前半の日本 -国民国家形成の前提-」(初出:『岩波講座日本通史 15』(岩波書店、1995年)ISBN 978-4-00-010565-1/改題「近世後期政治史と朝幕関係」所収:藤田『近世政治史と天皇』(吉川弘文館、1999年)ISBN 978-4-642-03353-4 序章
  8. ^abcd側室16人、実子50人超、中絶4回…大奥で「種馬」になった11代将軍・徳川家斉が残した"幕府崩壊の種"”. PRESIDENT Online. プレジデント社. 2025年12月13日閲覧。
  9. ^abcdefgh17人の女性に54人の子を産ませる…11代将軍・徳川家斉が実子を増やしつづけた本当の理由”. PRESIDENT Online. プレジデント社. 2025年12月19日閲覧。
  10. ^北島 1989, p. 158.
  11. ^篠田達明『徳川将軍家十五代のカルテ』(新潮新書2005年5月ISBN 978-4106101199)より。また、謎解き!江戸のススメBS-TBS2015年3月9日放送)でも紹介された。
  12. ^岡義武「近代日本の政治家」岩波現代文庫、P7、平清盛などが入っていないのは引用元のとおり
  13. ^村山修一『京都大仏御殿盛衰記』法藏館、2003 p.159
  14. ^金炯辰『近世後期の朝廷運営と朝幕関係-関白鷹司政通と学問のネットワーク-』東京大学出版会、2025年、251-259頁。ISBN 978-4-13-026615-4 
  15. ^人柄が垣間見える15代将軍の「趣味」”. 歴史人. ABCアーク. 2025年12月19日閲覧。
  16. ^『大奥』最終回 元名子役がサプライズ出演で新将軍に就任 ネット驚き「なんという贅沢な起用」(ネタバレあり)」『クランクイン!』ブロードメディア、2024年3月29日。2024年3月29日閲覧。

参考文献

[編集]
  • 藤田覚「天保期の朝廷と幕府(徳川家斉太政大臣昇進をめぐって)」(『日本歴史』616号、1999年9月)
  • 小泉俊一郎『徳川十一代家斉の真実―史上最強の征夷大将軍』(グラフ社、2009年9月)
  • 北島正元『徳川将軍列伝秋田書店、1989年。 

外部リンク

[編集]


徳川家斉の系譜
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16.徳川光貞
 
 
 
 
 
 
 
8.徳川吉宗
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17.巨勢紋子
 
 
 
 
 
 
 
4.徳川宗尹
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
18. 谷口正次
 
 
 
 
 
 
 
9.於久
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
19. 服部越中守娘
 
 
 
 
 
 
 
2.徳川治済
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
20. 平岡道富
 
 
 
 
 
 
 
10. 細田時義
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
5.於由加
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
22. 笠井武熙
 
 
 
 
 
 
 
11. 笠井武熙娘
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1.江戸幕府11代将軍
徳川家斉
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
24. 菅谷政友
 
 
 
 
 
 
 
12. 岩本正房
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
6. 岩本正利
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
26. 板坂春意
 
 
 
 
 
 
 
13. 板坂春意娘
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3.岩本富子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
7. 梅田養女
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
征夷大将軍(1787年 - 1837年)
平安以前
鎌倉幕府
建武政権
南朝
室町幕府
江戸幕府
カテゴリカテゴリ
江戸幕府の征夷大将軍
皇親太政大臣
 白鳳時代 
 奈良時代 
人臣太政大臣
奈良時代
平安時代
鎌倉時代
南北朝時代
南朝
北朝
室町時代
戦国時代
安土桃山時代
江戸時代
明治時代
全般
国立図書館
その他
https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=徳川家斉&oldid=107990413」から取得
カテゴリ:

[8]ページ先頭

©2009-2026 Movatter.jp