徳光 和夫(とくみつ かずお、1941年〈昭和16年〉3月10日[注 1] - )は、日本のフリーアナウンサー、タレント、総合司会者。元日本テレビエグゼクティブアナウンサー。本名:德光 和夫(読み同じ)。
日本ドッジボール協会顧問、株式会社ソニー・ミュージックアーティスツ顧問、日本司会芸能協会顧問、海原会(学校法人海城学園OB会)会長等の肩書きも持つ。
オフィス ラ・メール所属で、ソニー・ミュージックアーティスツと業務提携している。
本名の「德」は徳の旧字体で初期の日本テレビ『ズームイン!!朝!』のテロップでもこの表記を使っていたが、現在は通常の「徳」を使用している。愛称は、徳さん。プロ野球・読売ジャイアンツの熱烈なファンで、「巨人親父」とも称される。また、1978年から開始した『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』では、全ての回に出演しているため、ミスター24時間テレビ[1]とも言われている。公の場で感涙することが多く、「非常に涙もろい」キャラクターで知られる。番組開始時の挨拶ではフルネームを言わず「徳光です(でございます)。」「徳光め[注 2]にございます。」と言っている[注 3]。
東京都目黒区出身。現在は神奈川県茅ヶ崎市在住。1女2男があり、タレントの徳光正行は次男。ミッツ・マングローブ[注 4]は甥にあたる。
来歴
出生
父の德光壽雄は映画監督として業界の活動を始め、その後日本テレビに開局社員として入社し、1967年には当時赤字経営に苦しんでいた東京12チャンネル(現:テレビ東京)を立て直すべく設立された「科学テレビ協力委員会」の委員として出向した人物[2][注 5]。徳光の戸籍上の生年月日が実際の生年月日と異なるのは、厳格な父が「男児が3月3日、桃の節句の生まれでは格好が悪い」と1週間後で陸軍記念日の10日生まれにしたためである[注 6]。
自身もフリー転身後、『にっぽんの歌』などテレビ東京の番組に出演し、次男の正行も『レディス4』の司会に起用され、親子3代に渡ってテレビ東京に関与することとなった。母は松屋のデパートガールだった。弟は英国伊勢丹元社長の德光次郎。JRA競馬騎手の福永洋一とは、遠い親戚関係にある[3]。自身が初代司会者を務めた『ズームイン!!朝!』の初日最初のニュースは、前日に起きた福永の落馬事故だった[注 7]。2歳下の妹がいたが、和夫が5歳の時に病気で亡くなっている[4]。
戦時中は福島県田村郡三春町の法蔵寺に疎開していた。
元々は落語家志望で[4]、趣味は野球観戦と駅伝観戦と音楽鑑賞と落語鑑賞。高校生時代までは落語家に憧れていた。高校生時代に家出同然で柳家小さんの自宅の前を行ったり来たりしていたところ、小さんの弟子(徳光は「(5代目)鈴々舎馬風さんだと思う」と話す)に何しに来たんだと言われて「噺家になりたくて小さん師匠のお弟子さんになりたい」と答え、家族には断って来たのかと言われたら「家をちょっと出てきました」と答えたところ「ダメだ。ちゃんと大学行きなさい」と言われ、徳光自身もやっぱり自信が無かったということから落語家をあきらめ、進学の道を選ぶことになったという[5]。
中学時代まではプロ野球は西鉄ライオンズ、特に大下弘のファンだった[6][7]が、海城高等学校在学中に、長嶋茂雄が東京六大学野球新記録(当時)となる本塁打を放ち[8]、嬉しさから小躍りしながら仲間と一緒にベースを回る姿を見て感化され「人生の全てを長嶋茂雄に捧げよう」と決意[9]。長嶋がいた立教大学の全学部を受験し、辛うじて社会学部に補欠合格した[8][10]。合格した原因は「ヤマを張って集中的に勉強した日本書紀が、試験に丸々出題されていたから」ということを話している[4]。そしてその後、大学卒業後長嶋が入団した巨人のファンとなる。大学では、最初は「長嶋さんが居た神宮球場で過ごしたい」からという理由で応援団に入るが、ほとんどグラウンドに背を向けての活動だったため、試合を見られないことに不満を感じていたところ、放送研究会の部員がスタンドの最前列でテープレコーダーを持って取材などをしているのを見て、楽しそうと思い、放送研究会に転じる[4][11]。大学の同期に青尾幸、加賀美幸子、村田幸子、土居まさる[12]、後輩に関口宏、古舘伊知郎、久保田光彦、放送研究会の後輩にみのもんたがいる。大学4年の時、就職に悩んでいた時期に土居に相談をし、「お前、アナウンサーになればいいじゃないか」とアドバイスを受けアナウンサーになることを決意する[13]。
日本テレビ入社後
大学卒業後の1963年に、日本テレビへ入社。同期入社に青尾幸、今村倫子がおり、中途入社してきた同期に小林完吾がいる[注 8]。著書「企業内自由人のすすめ」によれば、日本テレビを受験した際、最終選考に残った2人が学生運動に関与していたことが判明し[注 9]、選考を辞退した影響で徳光が採用された。
主にアナウンサーとしてプロレス中継[注 10]を中心に受け持ち、ドラマ『青春とはなんだ』にラグビー中継のアナウンサー役で出演したり、アニメ『ルパン三世』第73話「花も嵐も泥棒レース」にて、自動車レースを中継するアナウンサー役(本人の役)で声優として出演したこともあった。また、1969年10月から『NTV紅白歌のベストテン』の総合司会を務め、人気を得る。1974年10月から『新・底ぬけ脱線ゲーム』の司会を務める。この頃の徳光は日本テレビ社内でもかなり特殊な存在で、「アナウンス部には週1度しか顔を出さない」「アナウンス部のシフトに入らず、自分でシフトを決めて勝手にやっている」という勤務形態であり、当時は「徳光にはニュース読ますな」が社内の定説だった[14]。
1979年3月から放送を開始した『ズームイン!!朝!』では総合司会を9年間担当。1988年4月からは『NNNニュースプラス1』のメインキャスターを務めた。自身に『プラス1』キャスターとしての白羽の矢が立ったのは「『ニュースステーション』のおかげで、ニュースそのものが難解な言葉を多用するものから、分かりやすいものに変わっていったことに影響されたのではないだろうか」と話し、「『プラス1』の3年間は世界的にも激動の3年間で、人にものを伝える難しさというものを学んだ」とも話している[4]。
フリー転身後
1989年9月末に日本テレビを退社し、翌10月よりフリーとなる[11]。『ズームイン』から『プラス1』に担当番組が代わった頃から「俺はバラエティ番組・情報番組に慣れていたからニュースキャスターは合わない」「好きな歌番組も出来なくなっちゃう」と思うようになり[15][16][17]、管理職昇進(アナウンス部副部長)の話が挙がることに対し、徳光は数字の管理が苦手で「役職が付けば、今まで全くやったことが無い事務的な仕事もしなければいけなくなるだろうし、自分の管理も満足にできない人が、上に立って他人の管理をすることは出来ない。俺は事務職ではなく、現場で生きていきたい」と思ったことなどがフリー転身のきっかけとなった[18][17]。本当は「定年退職まで日本テレビにいるつもりだった」という[17]。
フリーとしての最初の仕事は古巣の日本テレビであり、同年10月1日の夜に生放送された特番『徳光和夫の面白生放送 プロ野球バンザイ!』だった。
1990年以降は『クイズダービー』(TBS)、『徳光のTVコロンブス』(テレビ東京)を皮切りに各局で多くの番組を担当し、さらに結婚式の司会等でも活動する。
2010年からは、初のラジオの生放送レギュラー番組となる『徳光和夫 とくモリ!歌謡サタデー』(ニッポン放送)が放送開始。当初は約6時間という長丁場を担当し、その後放送時間は2時間40分に縮小されたが、現在も出演中である。
2011年の『24時間テレビ34』では総合司会を勇退し(後任は羽鳥慎一)、当時70歳にして番組史上最高年齢となるチャリティーマラソンのランナーを務めた。2012年以降は、スペシャルサポーターとして引き続き番組に携わっている。
2016年11月24日には日本レコードマネジメントの40周年記念式典の司会を務めた。
エピソード
- 愛車は日産・シーマ(F50型)[19]だが、本人は運転免許を持っていない。自動車教習所には通っていたが、指導員と口論をして運転免許取得を辞退した[20]。
- 大の箱根駅伝好きで、毎年沿道で応援をしている。大会前に独自に入手した選手のデータを手に実況を行うほどの熱の入れようで、今では復路8区の茅ヶ崎の名物になっている。この模様は自身が総合司会を務める『ザ・サンデー』の新年1回目の放送で毎年必ず放送されていた。なお、本人は「あくまでプライベートで応援しているものであり、撮影クルーは勝手に収録している」と語っている[21]。
- 『24時間テレビ』に毎年顔的存在として出演しており、1978年の第1回から皆勤している唯一の人物である。ただし、1990年から1994年にかけては同時間帯に他局で生放送のレギュラー番組があり(『徳光のTVコロンブス』)、その時間帯は抜けていた。
- その『24時間テレビ』が、今日までつづく夏の名物番組となったのは、第1回目における徳光と当時の小林與三次社長のやり取りが原因と言われる。あくまで日本テレビの開局25周年により1回限りの番組の予定であった。徳光が小林與三次を呼び出して締めてもらおうとするも、社長コールが起こってしまい、結果「ご支持いただくなら何度でもやります!」の発言につながることとなった[22]。
- 「自身が結婚式で司会を務めた著名人夫婦は、何故か7割が後に離婚するジンクスがある」と噂された[23]。しかし2010年12月27日放送のテレビ朝日『中居正広の怪しい本の集まる図書館』でのインタビューにて、司会を務めた夫婦のうち実際に離婚したその離婚率のパーセンテージは番組中で「23%」(日本における平均は30%)と計算された[24]。
- 65歳になった2007年、年金の申請を行ったところ、社会保険庁の記録で「死亡扱い」を受けていたことが判明した[25]。
- 入社直後の1968年以降、プロレス中継を担当していた時期が長く、プロレス関係者との交友も深い。特にジャイアント馬場との友誼関係は深かった。上田馬之助とは上田の若手時代から親しかったこともあって、上田のことを「馬さん」とその生前には呼んでいた。また日本プロレス時代から実況経験があることからアントニオ猪木とも接点があり、猪木のことを若手時代の愛称である「寛ちゃん」[注 11]と呼ぶ[26]。スポーツ中継などで、「全国一千万人の○○ファンの皆様、こんばんは」の名文句があるが、これを言ったのは自身による「全国一千万人のプロレスファンの皆様こんばんは」が元祖だった(こういった台詞を最初に披露したのは、日本テレビの先輩アナに当たる清水一郎だったとも言われている)[27]。馬場と猪木の「BI砲」も德光によるもの。また、実況で喋る上での資料作りのためにレスラーのところに取材に行っても、追い返されるなど取材出来ないことも多かったため、勝手に作り話みたいなことも織り交ぜながら選手のプロフィールみたいなものを自分で作っていたという[28]。
- 2022年8月21日、『24時間テレビ』に猪木が出演。これが生前最後のテレビ出演であった。猪木と応答をした德光は「正直ショックを受けた。見たくない現実だった」と言いつつも握手を交わした。その際に「握り返してくれた時の手の弱さに、『元気になってほしい、また逢いたい』と思った。」という。その1か月後の10月1日、猪木が死去。「心よりご冥福をお祈りいたしますが、本心は悔しい。もう一度、逢いたかった」とコメントを寄せた[29]。
巨人ファンとして
熱狂的な長嶋茂雄ファンかつ巨人ファンであり、芸能人野球ファンのはしりである。この「巨人ファン徳光」のキャラクターは、『ズームイン!!朝!』の人気コーナー「プロ野球イレコミ情報」で定着したものであるが、これにより自身の巨人にかかわる言動が取り上げられる機会も少なくない。一方で相手球団に対する問題発言が多く(特にパ・リーグに対して)、他球団ファンからしばしば反感を買っている。その一方でラジオ番組を担当するようになって以降はパ・リーグであっても巨人寄りな面はあるにせよ問題発言は減り、他球団であっても選手を評価する一面もある。
- 1974年10月14日(月曜日)の長嶋茂雄の引退試合(後楽園球場、対中日ドラゴンズ戦)を直接観戦しに訪れている。しかし当日はアナウンス部の者を含めてほとんど誰にも明かさずに後楽園球場へ向かい、当日に生放送があった『NTV紅白歌のベストテン』(当時徳光は本人曰く「大したリハーサルは無かった」というスタジオのベストテン本部担当)のリハーサルをすっぽかす形になったため、スタッフにずいぶん捜されたという。なお、試合終了後に急いでタクシーで後楽園から当時日本テレビ本社があった麹町へ戻り、長嶋の引退セレモニーはスタジオのテレビで観ていた。これについて「セレモニーまで球場で観ていたらさすがにクビになるかも」と思って急いで戻ったということで、セレモニーを直接観れなかったことは「大悔やみ」と後に話している。「それまで試合後に引退セレモニーがあった選手を見たことがなかったので、セレモニーがあるのをよくわかっていなかった」とも話している[35]。
- 王貞治の現役時代最後の本塁打となった868号のバットを所有しており[36]、テレビ東京『開運!なんでも鑑定団』に出品したことがある。
- 1980年に、長嶋が巨人監督を解任された翌日(10月22日)の『ズームイン』では、「これは辞任ではない、解任だ」などと巨人球団や川上哲治への抗議を行い、讀賣新聞や報知新聞の購読を「辞めます」と発言。事前にズームインのスタッフから「5分間時間やる」と言われたものの、この抗議はこれを大幅に上回る、放送開始から26分に亘って行われた。この放送を見ていた長嶋から「もし、徳光さんがどんなことに巻き込まれても私が面倒を見る」と発言し、後日徳光は長嶋と東京・六本木のフランス料理店で会食する機会を得た。徳光はその時から長嶋のことを「憧れから神になった」と話している。以来、長嶋との交友が始まっている[37][38]。
- 1982年に『ズームイン!!朝!』で「巨人が優勝できなかったら丸坊主になる」と発言したが、中日が優勝したため、名古屋の中京テレビでコーナーを担当していたきくち教児と板東英二によって、バリカンで丸坊主にさせられた。
日本テレビアナウンサー時代
- 日本テレビのニュースを降ろされた理由は「国家予算は、5兆円」と言うはずが、「国家予算は、5円」と言ってしまい、「常識が無さすぎる」というものである[39]。後年に語ったところでは、これは德光が新人時代の頃のこと。当時は日本テレビの報道局の記者が書いてきた原稿をしっかり読むことに重きを置いてニュースに臨んでいた。この「国家予算が5円」というのも、元を辿ると原稿に間違って書いてあり、それを鵜呑みにしてそのまま読んでしまったのが原因という。このことを上司に報告したが「それにしてもお前、常識で考えたらわかるだろ」と却下されたという。
- 『キユーピー3分クッキング』に出演していた際、調理している人の横で腕を組むシーンに対して、視聴者から抗議の手紙が多数寄せられたことや、料理の初心者故に「味噌汁は味噌に水を入れて作るんですね」などと的外れな発言を行なったことから、こちらも上司に苦言を呈され「料理番組の司会に向いていない」と言われて、僅か3ヶ月で降板した[40]。
- 1980年にスタートした『NNSアナウンス大賞』の第1回最優秀賞受賞者である。
- 1983年2月から1985年6月まで、日本テレビのキャッチフレーズ「おもしろまじめに4チャンネル」のイメージキャラクターを、小林完吾とともに務めた(自身が「おもしろ」、小林が「まじめ」として)[41]。このコンビで局の垣根を超えて『笑っていいとも』の「テレフォンショッキング」に出演しており(1983年4月5日)、ドラマでも『太陽にほえろ!』の550話「俺はプロだ!」にて出演している(1983年4月1日)。
- 日本テレビ時代の同僚である福留功男とは50年以上の親友関係にあるが『アメリカ横断ウルトラクイズ』での役回りから、一時期はテレビで「犬猿の仲」を演じていたことがあった[42][注 12]。しかし、徳光はアナウンサーとプロデューサーを合体させた造語を用いて「トメはアナデューサーだ」と福留の放送人としての才能を評価している[42][注 13]。
ギャンブル
大のギャンブル好きである。特にボートレースが大好きであり、選手の心理状況や家族構成まで調べるくらいに熱中している。日本テレビ時代に『ズームイン!!朝!』を担当していた時は、番組が終わるとほぼ毎日のように平和島競艇場に直行していたと言われている。「競馬は遊び、競艇は勝負」が口癖でもあるという[43]。
- 競馬では大穴狙いが多く、負けて当然といった馬券の買い方をよくする[43]。ウインズ後楽園によく出没する。1997年2月17日には、船橋競馬場で当時の南関東公営競馬史上最高配当記録となる馬複(馬連)20万馬券を的中し、約800万円の払い戻しを受け、大々的に報じられた(この時はウインズ新橋の場外発売で馬券を購入)。その際、徳光の馬券予想コーナーを掲載していたスポーツ報知では「徳さん万馬券的中」と1面で報じたが、別のスポーツ新聞は徳光であることに気がつかず、「初老の男性が換金に来た」と報じた。
- 競輪では自宅のある茅ヶ崎に程近い平塚競輪場を訪れる。2007年の日本選手権競輪など、当地でのテレビ中継のゲストに呼ばれたこともある。
- 公営競技以外にも麻雀も打つ(過去にはストレス解消法として、深夜まで及ぶことがあった[44])。
入院生活
2001年6月に、急性心筋梗塞を患い緊急入院したが、同月末に現場復帰。息子・正行の著書によれば、年齢不相応の不摂生が原因であるという。「健康に気を遣うということが、既に不健康である」というのが自身のモットーであったが、後にこの認識は改めざるを得なかったと後に語っている。
この経験により、2008年からはアステラス製薬が展開する、コレステロール適正管理キャンペーンに起用され、CMなどで日常での健康管理の重要性を呼びかけた。
親族
- 『遠くへ行きたい』の第2100回記念「僕のご先祖様は屯田兵」(2012年4月放送)では旅人として北海道を訪ね、その際には滝川市で長年の念願だった墓参を果たしている。しかし、NHKの『ファミリーヒストリー』(2013年1月21日放送)で、先祖は元々江差でニシン漁をし、その後現在のえりも町に移住した漁師であることが判明した[45]。その『ファミリーヒストリー』によると、騎手・福永祐一(現・調教師)の高祖父、元競馬関係者の福永甲、福永二三雄、福永洋一ら兄弟の曽祖父の妹と、徳光の祖父の兄が結婚しており、遠い姻戚関係にある[3]。また、ジャーナリスト・服部誠一は母方の曽祖父である[45]。福永祐一の妻は元フジテレビアナウンサーの松尾翠(現・ホリプロ所属)で、結婚により徳光とは遠縁の親戚となった[45][注 14]。また、正行の元妻でフリーアナウンサーの田野辺実鈴とは5年間のみではあったが、義理の娘の関係であった。
- 甥のミッツ・マングローブとは、サントリー「BOSS」のCMで親子役で共演しており、劇中で和夫に平手打ちされるシーンについてミッツは「本当の親にも殴られたことないのに、まさか伯父に殴られるとはね。40歳にもなって」と心境を明かしていた[46]。
- 子供は1女2男がおり、2024年10月に長男の娘が出産してひ孫が生まれたことを、第57回年忘れにっぽんの歌の2001年から連続して務める司会をした際に24年を振り返って明かした[47]。
出演
テレビ番組
現在
過去
- 日本テレビ
ニュース・情報番組
その他
- テレビ朝日
- TBS
- TBSアナウンサーの安住紳一郎と共に司会を務めていた「徳光&安住の感動再会“逢いたい!”スペシャル」をレギュラー化。
- スパモク!! ザ!芸能人ナイショのストーリー(秘)映像GP 司会 / 2010年5月27日
- 地球SHOW学校 司会 / 2010年11月22日
- BS-TBS
- 徳さんのお遍路さん 四国八十八カ所 心の旅(2012年10月7日 - 2014年3月30日):「お遍路さん」として出演(旅人)。
- 徳さんのお遍路さん 最後の旅 高野山へ!ありがとう結願SP!!(2014年3月30日)
- 徳光&木佐の知りたいニッポン!〜霞が関からお知らせします〜(2018年4月14日 - 2020年3月28日):政府広報番組
- 毎日放送
- 1995年4月から2008年9月までMBS・TBS系にて放送されていたウルルンシリーズの再放送および未公開名場面集を基本としたBS-TBSのオリジナル番組。
- テレビユー福島
- 円谷英二 大空を愛したウルトラマン∶再現VTRの円谷英二役 / 1994年2月6日
- テレビ東京
- テレビ大阪
- フジテレビ
- NHK
- 日本BS放送(通称・BS11)
テレビドラマ
映画
テレビアニメ
劇場アニメ
吹き替え
ラジオ番組
- ニッポン放送
- STVラジオ
- NHK
- アール・エフ・ラジオ日本
- 徳光の3等社員・サラリーマン読本
- 徳光和夫のがんばれジャイアンツ
- 徳光和夫のおじさんグラフィティ
- 徳光教授の巨人学講座(1998年度ナイターオフ、1999年度ナイターオフ)
インターネット番組
広告
- 出没!アド街ック天国のランキング紹介と同じように1人ずつ紹介していく、ナレーションは、アド街ック天国でもナレーションをしている武田広。徳光はナビゲーター。
イベント
MV
音楽
- チチ・ハハ体操(1979年、ポリドール)
- 天気予報の歌(ソノシート)『ズームイン!!朝!』挿入歌。
- 電気グルーヴのアルバムORANGE(1996年、キューンレコード)。『反復横飛び』で臨時ニュースをアナウンスしている。
- ファインプレーを君と一緒に〜GO!GO!ジャイアンツ〜(2005年3月23日、バップ)「五木ひろし with チーム・ジャビッツ21 feat.徳光和夫」名義。読売巨人軍応援歌。読売新聞創刊130周年、読売巨人軍創立70周年を記念して製作。
- 今夜は離さない PART II(2007年11月21日、キングレコード)「大月みやこ&徳光和夫」名義。
著書
連載
脚注
注釈
- ^戸籍上。実際は3月3日。
- ^漢字で「奴」と書き、接尾辞として自分や自分に関することを謙遜卑下する意を表す言い回し。
- ^クイズダービーの司会をしていた頃は、や「徳光ちゃん(とくみっちゃん)」などと挨拶していた。
- ^和夫がレギュラー番組を持つニッポン放送で番組を担当することがあり、その際には「ミッツ」、または本名の「修平」と呼ぶ。
- ^父が日本テレビ役員、本人が日本テレビアナウンサー、息子も日本テレビの番組に出演しているため、親子3代に渡って日本テレビにも関与している。
- ^当時は軍国主義が強く唱えられた時代で、徳光の生まれた1941年に太平洋戦争が勃発した。
- ^福永との親戚関係は2013年1月21日放送のNHK総合テレビ『ファミリーヒストリー』(徳光のルーツを辿った内容)で明らかになった([1])。
- ^他局の同期ではNHKが加賀美幸子、広瀬久美子、村田幸子、名取将、森本毅郎、吉川精一。フジテレビが岩佐徹と露木茂と能村庸一。なお、徳光はこの両局も併せて受験していた[13]。
- ^日本テレビはアメリカ中央情報局(CIA)の手先として、開局当初から学生運動や左翼運動を批判する立場を取っていた(詳細は中央情報局、正力マイクロ波事件も参照)。
- ^日本テレビはジャイアント馬場が率いる全日本プロレスの中継権を持ち、看板番組の一つとしてゴールデンタイムに放送していた。
- ^アントニオ猪木の本名は「猪木寛至」で、前座時代の猪木は本名でリングに上がっていた。
- ^現在でもテレビ番組の企画などで(時には、さらに後輩でともに『ウルトラクイズ』に関わった小倉淳も巻き込む形で)福留への口撃を時折展開することがある。ただし、あくまでも本人たちは洒落として行っている(いわば『笑点』における「罵倒合戦」と同様)ことが視聴者にはきちんと伝わっておらず、結果として徳光、福留両名に対する根拠のない誹謗中傷につながっている一面がある。
- ^実際、1991年の『24時間テレビ』、1993年の『ズームイン!!夜!』、1998年の『今世紀最後!!史上最大!アメリカ横断ウルトラクイズ』、1999年の『11PM』特番で共演している。
- ^同期には秋元優里(生田竜聖元夫人)、本田朋子(五十嵐圭夫人)、小穴浩司がいる。
出典
関連項目
外部リンク
関連項目 |
|---|
|
|---|
| 現在放送の番組 | |
|---|
| 過去の単発番組 | |
|---|
| 過去の出演番組 | |
|---|
| テレビドラマ | |
|---|
| イベント司会 | |
|---|
| 同期入社 | |
|---|
| 関連項目 | |
|---|
| 家族・親族 | |
|---|
| 関連人物 | | 日本テレビの関係者 | |
|---|
日本テレビ以外 のアナウンサー | |
|---|
| 番組共演者 | |
|---|
| その他 | |
|---|
|
|---|
カテゴリ |
|
|---|
| 現在の出演番組 | |
|---|
| 過去の出演番組 | |
|---|
| ディスコグラフィ | |
|---|
| 楽曲提供 | |
|---|
| 関連項目 | |
|---|
| 関連人物 | |
|---|
|
|---|
ミュージシャン バンド | |
|---|
| 俳優 | |
|---|
| タレント・スペシャリスト | |
|---|
| お笑い | |
|---|
| 声優 | |
|---|
アップ&カミング (新鋭・新人) | |
|---|
| 旧所属タレント | |
|---|
| 過去の系列会社 | |
|---|
| 親会社 | |
|---|
カテゴリ |
|
|---|
アメリカ横断ウルトラクイズ |
|---|
| 総合司会・出題・海外リポーター | - 第1回 - 第14回・今世紀最後・史上最大の敗者復活戦福留功男1
- 第15回・第16回福澤朗
- 史上最大の敗者復活戦関西地区予選小林大作
|
|---|
| 国内リポーター | - 第1回 - 第11回・今世紀最後・史上最大の敗者復活戦徳光和夫
- 第12回 - 第16回渡辺正行
|
|---|
| 海外リポーター | |
|---|
| コンピューター予想 | |
|---|
| 総合司会 | |
|---|
| 関連項目 | |
|---|
| 関連人物 | |
|---|
|
| 全国高等学校クイズ選手権 |
|---|
| 総合司会 / メインアナウンサー4 | |
|---|
| メインパーソナリティー | |
|---|
| 関連項目 | |
|---|
| 関連人物 | |
|---|
|
| | 1:第15回も第1問まで担当、2:第1回のみ肩書は「アシスタント」、3:第2夜のみ、4:第44回より呼称変更 |
|
|---|
| 1970年代 | |
|---|
| 1980年代 | |
|---|
| 1990年代 | |
|---|
| 2000年代 | |
|---|
| 2010年代 | |
|---|
| 2020年代 | |
|---|
|
|---|
| MC | |
|---|
| パネリスト | |
|---|
| 曜日企画 | |
|---|
| ナレーター | |
|---|
| ニュースコーナー担当 | |
|---|
| 過去の出演者 | |
|---|
| 関連項目 | |
|---|
| 前身番組など | |
|---|
パネリストのうち一部は曜日企画を兼務。(女性芸人) はいずれも不定期出演。 曜日は太字で表記。パネリスト、曜日企画などの担当は、担当出演者の前もしくは後ろに表記。 水曜日は曜日企画が二つあり、隔週交代で放送されている為に曜日企画担当者としては共演していない。ハライチの担当企画は (水曜日A)。ヨネスケの担当企画は (水曜日B) と表記する。 神田沙也加とヨンアは、隔週交代で出演。 |
|