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後藤治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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(2020年12月)
後藤 治
ごとう おさむ
生誕 (1948-11-27)1948年11月27日(76歳)
東京都
国籍日本の旗日本
教育東京都立航空工業高等専門学校
業績
専門分野
勤務先GEO Technology S.A.(2005年 - 現在)
雇用者
プロジェクト第二期ホンダF1(1984年 - 1990年)
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後藤 治(ごとう おさむ、:Osamu Goto1948年11月27日 - )は、日本自動車技術者実業家東京都出身。GEO Technology代表[1]

プロジェクトリーダーとして、第二期ホンダF1の全盛を支えた一人。退任後は、F1チーム「マクラーレン」「スクーデリア・フェラーリ」「ザウバー」の要職を歴任。その後独立し、スイスで起業している。

略歴

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ホンダ

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1969年に東京都立航空工業高等専門学校を卒業し、本田技術研究所に入社。社内レーシングチーム「ヤマト」に入り、1973年に筑波サーキットジュニア・フォーミュラ「FJ360/FL500クラス」にドライバーとして参戦歴がある。1975年から翌年にかけては鈴鹿FL500シリーズにも参戦し、中嶋悟松本恵二中野常治中野信治の父)、道上佐堵史(道上龍の父)と同じレースに参戦していた[2]

ホンダでは入社以来15年間、和光研究所で排気ガスコントロールシステムの研究・開発に携わり[3]CVCCエンジンやシティ用のターボエンジンの開発等に関わった。1984年よりF1エンジンのプロジェクトチームに参加、1985年ベルギーグランプリより、前任者の土師守の後任としてホンダF1の現場責任者となった[3]

1988年には、前任の桜井淑敏からホンダF1の総監督を受け継ぐ。以後、1990年までホンダF1のリーダーとして1.5リッターターボ・V6RA168E、3.5リッターNAV10RA109E・RA100Eを開発。主にマクラーレンに供給されたこれらのエンジンは(1988年にはロータスにも供給)アイルトン・セナアラン・プロストゲルハルト・ベルガーらのドライブで圧倒的な強さを発揮し、マクラーレン・ホンダはこの間コンストラクターズ・ドライバーズの両タイトルを独占した。後藤もフジテレビのF1中継において毎レース終了前後にインタビューを受け、古舘伊知郎から「ホンダの戦う係長」というニックネームを付けられたことで、一般ファンにも名を知られるようになった。

マクラーレン

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1990年一杯でホンダのF1プロジェクトを外れると一旦は市販車用エンジンの開発部門に異動するが、間もなくマクラーレンのチーム代表であるロン・デニスに請われる形でホンダを退社し、1991年の半ばにマクラーレンに移籍。マクラーレンではロン・デニスに次ぐナンバー2のポジションに当たる「エグゼクティブ・エンジニア」として、技術面のアドバイザー的役割を担うとともに、主にチームマネジメントの効率化などに取り組んだ。

フェラーリ

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1994年にはフェラーリへ移籍。当時フェラーリでは伝統のV12エンジンを捨てて新たにV10エンジンを開発する計画が進んでおり、後藤はホンダ時代にV10エンジンの開発を指揮していた経験を買われ、そのV10エンジンプロジェクトの開発責任者となった。後藤らの開発したエンジンは1996年よりフェラーリ・F310に搭載されて実戦に投入され、この年ミハエル・シューマッハのドライブで3勝を挙げる。加入後、エンジンベアリングに日本製の高品質品を推奨し、エンジンオイル開発にはロイヤル・ダッチ・シェルとの共同開発を提案した。それまでのアジップベネトンと契約し直している。

ザウバー

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1997年よりザウバーがフェラーリエンジンの供給を受けることが決定すると、後藤はそれに合わせる形でザウバーの関連会社であるザウバー・ペトロナス・エンジニアリング(SPE)に派遣される。「ペトロナス」のバッジネームが付けられたフェラーリエンジンのチューニングを担当する一方で、独自のV10エンジンの開発プロジェクトをスタートさせた。当時の同僚にヨースト・カピートがいる。しかし1998年にアジアを襲った経済危機(アジア通貨危機)のためこの計画は頓挫。以後ザウバーは2005年に至るまでフェラーリからエンジン供給を受け続けた。

2001年にはSPEが、翌年よりロードレース世界選手権のMotoGPクラスに参戦することを目標に3気筒・990ccのエンジンを搭載したマシンを開発し、後藤がエンジン開発責任者となるが、この計画も結局途中で頓挫してしまい、マシンは一応完成しテスト走行までこぎつけていたものの実戦投入されることはなかった(ただし、このとき開発されたマシンは、その後若干の改修を受けスーパーバイク世界選手権に参戦した)。

GEO Technology

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2005年にザウバーがBMWに買収されたことから、後藤はSPEを離脱して独立。その後スイスでエンジン開発等のコンサルタントを手がけるベンチャー企業「GEO Technology S.A.」を設立し、同社の代表に就任[1]

同社は2010年より行われているロードレース世界選手権のMoto2クラス(2009年までのGP250クラスの後継)で、ワンメイクとなるホンダエンジンのメンテナンスを担当していた(2012年まで)。また2011年にはゴードン・マレーらと共に、東レが開発した電気自動車『TEEWAVE AR1』の技術コンサルタントを務めた[4]

ワールドチャンピオンへの評価

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後藤は上記の通り、プロジェクトリーダーとしてワールドチャンピオンと一緒に仕事しているが[5]、印象を以下のように語っている。

アラン・プロスト
初めて仕事を共にした1988年には、「非常に冷静な人ですね。クルマの挙動をよく分かっているし、うまく伝えてくる。これはセナと似ている部分でもあるが、プロストの方が年齢的に大人なぶんその表現の仕方が柔らかい。芯は強いんだろうけど、ドライバーとしても人間的にも一流ですね。」と高く評していた[6]
しかし1989年にプロストがフランスメディアを通じてホンダからセナとの差別を感じていると公言して以後は後藤の発言も変化した。「“プロフェッサー(教授)”と呼ばれていましたが、あれは実像からかけ離れたニックネームですよ。プロストは若い時からいいクルマに乗り続け、いい体験をいっぱいしてきたから、どういう方向にセットアップすればいいかが経験的にわかっているのが最大の財産。1989年にプロストは加速でセナに負けたから、ホンダを“エンジンに差をつけて操作している”と批判してきた。でも、データを見るとセナが高回転まで使っているのに対してプロストは使っていない。この時はもうNAになっていて、燃費は関係ないから回転を抑えて走っても全く意味がない。でもプロストは理屈を分からずに走ってるから、ターボ時代からの癖で回転を使い切らず走っていた。技術的なことを説明しようとしても聞こうとしないし、興味がない。我々も困って、あの当時はまだアナログタコメーターでしたから、“この回転数まで必ず引っ張るように”という目盛り代わりのステッカーを貼ってあげたんです。もちろん、非常に速いドライバーですよ。タイヤの使い方も抜群だし。でも、今(2004年)の時代ならチャンピオンになれないでしょうね[7]。」
アイルトン・セナ
「とにかく意志の強い人。どうすれば自分のやりたいことが成功するかをいつも考えていましたね。ロータスへのエンジン供給もまずロータスと交渉したのではなく、セナと話しているなかで進展していった。モータースポーツは道具を使うスポーツだから、道具が悪かったら勝てない。だから、チームの運営までシステムそのものに入り込んでいく。そのようなことをしたのは、僕が関わったドライバーではセナとミハエル・シューマッハだけですね。あと、セナは理詰めで走るドライバー。1988年にヘレスでセナは4位だったんですが、どうしてプロストより自分が燃費に厳しかったのか、次の日本GP迄分析して欲しいと言ってきた。セナが高回転まで回し、エンジンパワーを引き出していたが、燃費となると効率ですから、回転数をあまり上げずにブーストを上げた方が馬力をあげるのにいい。当時はターボでしたから。それを説明したら、効率的な走り方をものにした。また、ドライバーによってはテレメトリーのデータと、走り終わってから言ってることの食い違いがあって、そうなるとエンジニアは方向性が見つからなくて困ってしまうけど、セナはそういうところは全くなかった[7]。」
ナイジェル・マンセル
「マンセルはロータスからウィリアムズ・ホンダにやってきて、当時はまだ勝ててませんでしたし、ロータスでダメだったと烙印を押されていて自信を失っていました。実際にいつもロズベルグより遅くて、僕は遅いけど燃費はケケより良いはずだからブースト圧をもっとあげてほしい、と何度も頼まれました。ケケはNo.1で自分のシャシーセッティングをまず大事にするので、マンセルがエンジンテストを黙々とやって、開発に大きく貢献してくれる状況だったのです。そのため85年前半はホンダの人間の間では、何とかマンセルにも結果を出してほしいと、マンセルびいきのような雰囲気があったわけです。この年のブランズ・ハッチでマンセルはF1での初優勝をして、母国の表彰台で顔をぐしゃぐしゃにして泣いている姿を見て、私も涙がいつまでも止まらなかったんです。技術者として自分たちのエンジンの考え、やり方がF1で通用したのですから。ホンダエンジンで彼が自信を取り戻してくれたという事実も喜びでした[3]。」
ミハエル・シューマッハ
「上述の通り、自分のやりたい目標をどう達成するかというアプローチはセナと非常に似ている。その他には、体力作りをきちんとするところは、シューマッハのほうがセナより一生懸命でしたね。最終的にセナが生きていても、年齢的なものもあるし、体力的な衰えや特に視力が落ちるでしょうし、世代交代はあったでしょうね[7]。」

逸話

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  • ホンダF1時代の印象に残っている失敗談として、1986年モナコグランプリでの出来事を挙げている[3]。このグランプリの予選1日目、エンジンマネージメントのソフトウェアのミスから、モンテカルロに持ち込んだ5台のエンジンを1日で全て壊してしまった。そこで不足したV6エンジンを急遽イギリスの前線基地(ラングレーオフィス)から空輸した。後藤が現場責任者となって自分で下した変更がダイレクトに結果として良い時も悪い時も出ると肌で感じた失敗であり、非常に緊張感がみなぎった出来事だと述べている[3]
  • 1988年ベルギーグランプリでは、ホンダエンジン「RA168E」搭載車4台とも序盤から6位以内を走行し好調だったが、23周目でロータス・ホンダの中嶋車のエンジンが1気筒分死んでしまい、リタイアを喫した。するとその直後にマクラーレンのピットボックスでロン・デニスと後藤が長く話す様子が中継で映し出された。これは中嶋車のトラブルにより慎重を期した後藤がデニスに「セナとプロストの燃料混合比を濃い方向に調整しようよ」と提案したのに対してデニスが「1-2で走ってるのに何故だ?必要あるのか?」とすぐには納得しなかったため、後藤が「3位を走るフェラーリと十分に差があるし、ぶっちぎりで勝つ必要はないんだから確実に勝とう」と説得している所をカメラに映されたものだった。後藤の提案もありこのレースを1-2フィニッシュでまとめたマクラーレン・ホンダは全16戦の11戦目にしてコンストラクターズタイトル獲得を確定させた[8]
  • 1989年12月、イタリア・ミラノ自動車クラブとホイールメーカーのO.Zが中心となり選定される、その年モータースポーツ界で最も貢献した人物に与えられる「ROUTE in CORSE」を受賞した。これは史上初となるV10エンジンでのF1チャンピオン獲得を讃えるもので、開発リーダーの後藤の功績がイタリアで高く評価されたことの表れだった。日本円にして約100万円の賞金も授与されたが、後藤はこれを同年開幕前のテストで脊髄を負傷し引退状態となってしまったフィリップ・ストレイフへの寄与を希望し、ストレイフを支援するための基金団体へと送られた[9]

著書

[編集]

レース戦歴

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筑波FJ360/FL500

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チームマシン12345順位ポイント
1973年チームヤマトフレンド・001BTSUTSU
5
TSU
TSU
TSU
5

鈴鹿FL500

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チームマシン1234567順位ポイント
1975年Team Yamatoヤマト・02FSUZ
SUZ
SUZ
SUZ
SUZ
16
SUZ
8
SUZ
Ret
1976年ヤマト・02FXSUZ
Ret
SUZ
Ret
SUZ
15
SUZ
11
SUZ
SUZ

脚注

[編集]
  1. ^ab「ホンダV10エンジン開発物語 出力と運動性能の両立を実現した力 後藤治」『Racing On No.539』三栄、2025年10月1日、13頁。
  2. ^鈴鹿グレート20ドライバーズレース FL500 JAF日本自動車連盟モータースポーツ
  3. ^abcde「元ホンダF1プロジェクトリーダーが語る回顧録・後藤治」『F1グランプリ特集8月号』ソニー・マガジンズ、1992年8月16日、30頁。
  4. ^東レ先端材料展2011:TEEWAVE AR1を発表 - NeoStreet・2011年9月17日
  5. ^プロジェクトリーダー就任前にはネルソン・ピケケケ・ロズベルグといったワールドチャンピオン経験者とも関わりがある。
  6. ^「ホンダ後藤監督インタビュー・狙い通り順調」『GPX 1988カレンダー号』山海堂、1988年1月10日、6頁。
  7. ^abc「究極のドライバー比較論-元ホンダF1プロジェクトリーダー後藤治が10年たった今、語る (柴田久仁夫)」『AUTO SPORT アイルトン・セナ没後10年特別企画』三栄書房、2004年、50-55頁。
  8. ^「ホンダ日記 開幕11連勝で決めたコンストラクターズ・タイトル」『GPX '88ベルギーGP号』1988年9月17日、30頁。
  9. ^「後藤監督イタリアで受賞、賞金はストレイフ基金へ」『GPX '90シーズン・オフ号』、1990年2月8日、30頁。

外部リンク

[編集]
第五期
2026年 -
パワーユニット供給
主な関係者
第五期



供給先
関連組織
HRC
2022年 -2025年
パワーユニット供給
主な関係者
元関係者
供給先
関連組織
第四期
2015年 -2021年
パワーユニット供給
主な関係者
第四期
供給先
関連組織
第三期
2006年 -2008年
ワークスチーム

2000年 -2008年
エンジン供給
主な関係者
日本の旗 本田技研工業
日本の旗 本田技術研究所
イギリスの旗 HRD※1
イギリスの旗 HRF1※1
第三期


ドライバー
テスト/リザーブドライバー:
車両
主なスポンサー
エンジン供給先
関連組織
HRD
1998年 -1999年
試作・試走のみ
主な関係者
車両
関連組織
無限ホンダ
1992年 -2000年
エンジン供給
主な関係者

エンジン
供給先
関連組織
本田技術研究所
1991年 -1994年
試作・試走のみ
主な関係者
車両
関連組織
第二期
1983年 -1992年
エンジン供給
主な関係者
第二期
エンジン
供給先
関連組織
関連項目
第一期
1964年 -1968年
ワークスチーム
主な関係者
日本の旗 本田技研工業
日本の旗 本田技術研究所
イギリスの旗ホンダ・レーシング
第一期
ドライバー
テスト/リザーブドライバー:
車両
主なスポンサー
関連組織
関連項目
関連項目
※ 第2期・第3期・第4期の「主な関係者」は、基本的に各部門の「長(ディレクター)」以上にあたる人物のみに絞って記載(多数に及ぶため)。
※ 「関連組織」の( )には略称、[ ]には関連する下部組織を記載。
※1 ホンダ本社の役職者と本田技術研究所の人物を除く(兼務者が多数に及ぶため)。
※2 ホンダ所有のサーキット。第1期と第2期に主要なテストコースとして用いられた。
※3 ホンダ所有の展示施設。第1期から第4期の車両を所蔵(基本的に動態保存)している。
チーム首脳
主なチームスタッフ
現在のドライバー
F1車両
1966年 -
1980年
1981年 -
2016年
2017年 -
現在のPUサプライヤー
現在のスポンサー
  • ※役職等は2025年1月時点。
  • 過去のチーム関係者
主な関係者
創設者
チーム首脳
主なスタッフ
主なF1ドライバー
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
※年代と順序はマクラーレンで初出走した時期に基づく。 ※マクラーレンにおいて優勝したドライバーを中心に記載。太字はマクラーレンにおいてドライバーズワールドチャンピオンを獲得。斜体はマクラーレンにおいて優勝がないものの特筆されるドライバー。
  • F1以外のレース車両
Can-Am
F2
F5000
USAC/CART
GT
LMDh
  • ※レース用車両 / サーキット走行専用車。
  • 過去のF1関連組織
タイトルスポンサー
エンジンサプライヤー
チーム首脳
チームスタッフ
F1ドライバー
F1車両
主なスポンサー
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※役職等は2023年3月時点。
  • 過去のチーム関係者
F1チーム関係者
創設者
主なチーム首脳
主なスタッフ
主なF1ドライバー
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
※年代と順序はフェラーリで初出走した時期に基づく。 ※フェラーリにおいて優勝したドライバーを中心に記載。太字はフェラーリにおいてドライバーズワールドチャンピオンを獲得。斜体はフェラーリにおいて優勝がないものの特筆されるドライバー。
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