| 基本情報 | |
|---|---|
| 正式名称 | 広島西郵便局 |
| 前身 | 広島郵便取扱所、広島郵便局 |
| 局番号 | 51001 |
| 設置者 | 日本郵便株式会社 |
| 所在地 | 〒733-8799 広島市西区天満町5-10 |
| 位置 | 北緯34度23分49.6秒東経132度26分18.6秒 / 北緯34.397111度 東経132.438500度 /34.397111; 132.438500 (広島西郵便局 (広島県))座標:北緯34度23分49.6秒東経132度26分18.6秒 / 北緯34.397111度 東経132.438500度 /34.397111; 132.438500 (広島西郵便局 (広島県)) ![]() |
| 貯金 | |
| 店名 | ゆうちょ銀行 広島西店 (広島支店広島西出張所) |
| 取扱店番号 | 510010 |
| 保険 | |
| 店名 | かんぽ生命保険 代理店 |
| 特記事項 | |
| ATMホリデーサービス実施 | |
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広島西郵便局(ひろしまにしゆうびんきょく)は、広島県広島市西区にある郵便局である。民営化前の分類では集配普通郵便局であった。
民営化前は以下の場所に出張所としてATMを設置していた。民営化後も同じ場所にATMがあるが、管理はゆうちょ銀行広島支店となっている。
分室はなし。過去に存在した分室は以下のとおり。
| 画像外部リンク | |
|---|---|
| 広島県立文書館所有の戦前の絵葉書。 | |
広島西郵便局の前身は、現在の中区大手町(当時の住所表示は細工町)に所在していた広島郵便局で、広島市で最初に設置された郵便局である。当時の局舎は、1893年(明治26年)竣工のモルタル塗り地上3階・地下1階、一部レンガ造りで正面に時計塔をもつモダンな建物で、近隣(当時の猿楽町)の県産業奨励館と並ぶ町のランドマークとして原爆被災による壊滅まで市民に親しまれていた。また、局の南側を走る東西通りは本通から元安橋を経て対岸の中島本通に至る、旧西国街道以来のメインストリートであり、近隣には多数の金融機関が店舗を置いていた。
その起源は1872年1月(明治4年12月)設置の広島郵便取扱所まで遡る。この郵便取扱所は、その後1873年(明治6年)4月に広島郵便役所、1875年(明治8年)1月に広島郵便局、1889年(明治22年)7月に広島郵便電信局と頻繁に改称が行われたが、1903年(明治36年)4月の広島郵便局への再改称で漸く定着した[1]。しかし市民にとっては広島で最も古くかつ重要な郵便局であることには変わりなく、戦前には一般に「本局」の通称で呼ばれていた。
業務に関しては1878年(明治11年)には貯金取扱を開始[1]するなど局として整備が進み、また20世紀に入って広島の軍都・兵站基地化が進行したことから大量の軍事郵便も扱うようになり、国内通信業務の一大拠点となっていった。この結果、原爆被災の時点では、郵便・貯金保険・貯蓄業務など5課からなり約410名が勤務し、一日あたり普通通常25,000通(そのうち軍関係が10,000通)で小包は600個にのぼった。
1945年(昭和20年)8月6日朝、B-29爆撃機エノラ・ゲイ号から投下された原子爆弾(リトルボーイ)が、同じ細工町内で、通りを挟んで西向かいに所在する島病院の南西側の上空約600mで炸裂した。原爆炸裂で発生した爆風・高熱により、上述の局舎は、外装していた赤レンガの一部分を除いて大破・炎上し、280人余の職員・動員学徒(祇園高等女学校・本川国民学校高等科)はほぼ全員が即死した。死没者の45%は家庭の主婦や女学校からの動員学徒よりなる女性であり、また局舎内の育児室にいた幼児も犠牲となった。「局舎の焼跡には、おびただしい数の白骨と黒焦げの死体だけが、瓦礫と共に残っていた」[2]という。
1953年(昭和28年)8月には、「広島郵便局殉職者之碑」が比治山町(現・南区)の多聞院に建てられ、犠牲者として判明していた288人の職員・動員学徒・引率教師の名前が刻まれた。1975年(昭和50年)8月には「有縁の有志」により旧広島郵便局の「殉職の碑」が元安橋東詰の旧局舎所在地近くに建立されている。
原爆被災の翌年の1946年(昭和21年)9月、局は広島市基町(現・中区)に移転、バラック建てで再建された。1958年(昭和33年)11月には広島駅前郵便局が広島郵便局に改称したことに伴い、当局は永年親しまれた名称を広島西郵便局に改め、1961年(昭和36年)3月には天満町に移転、現在に至っている。
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