平鹿町下鍋倉(ひらかまちしもなべくら)は、秋田県横手市の大字。郵便番号は013-0103[3]。人口は808人、世帯数は239世帯(2020年10月1日現在)[1]。住居表示は全域で未実施[5]。旧平鹿郡平鹿町下鍋倉、旧平鹿郡浅舞町大字下鍋倉、旧平鹿郡浅舞村大字下鍋倉、旧平鹿郡下鍋倉村に相当する。
平鹿地域の南西部、皆瀬川中下流域の北方に広がる平野部[6]に位置し、水田を中心とする農村地帯となっている[2]。下鍋倉保育所のほか、曹洞宗の寺院・永蔵寺や、手足観音として知られる沖掵神社が所在する[2]。
全域が都市計画区域に含まれるが、区域区分非設定区域となっている[7]。都市計画法上の用途地域には指定されていない[8]。
2024年(令和6年)10月5日時点での「横手市(秋田地方法務局大曲支局)登記所備付地図データ」[9]、デジタル庁公表の「アドレス・ベース・レジストリ」の「秋田県 横手市 町字マスター(フルセット) データセット」[10]、横手市公表のオープンデータ[11]によれば、平鹿町下鍋倉の小字は以下の通りである。
| 町・字 | 出典 | |||
|---|---|---|---|---|
| 大字 | 小字 | 登記[9] | 町字マスター[10] | 行政区一覧[11] |
| 平鹿町下鍋倉 | 字大沢田 | ○ | ○ | × |
| 字下雨沼 | ○ | ○ | × | |
| 字下糸畑原 | ○ | ○ | ○ | |
| 字下川前 | ○ | ○ | ○ | |
| 字下川端 | ○ | ○ | ○ | |
| 字下都 | ○ | ○ | ○ | |
| 字下六ッ段 | ○ | ○ | ○ | |
| 字下詫宣 | ○ | ○ | ○ | |
| 字下掵 | ○ | ○ | ○ | |
| 字外沢見 | ○ | ○ | ○ | |
| 字関根小屋 | ○ | ○ | ○ | |
| 字境沢田 | ○ | ○ | × | |
| 字御倉前 | ○ | ○ | ○ | |
| 字沼向 | ○ | ○ | × | |
| 字菖蒲沼 | ○ | ○ | ○ | |
| 字上雨沼 | ○ | ○ | × | |
| 字上糸畑原 | ○ | ○ | ○ | |
| 字上甚平 | ○ | ○ | ○ | |
| 字上川前 | ○ | ○ | × | |
| 字上川端 | ○ | ○ | × | |
| 字上都 | ○ | ○ | ○ | |
| 字上六ッ段 | ○ | ○ | ○ | |
| 字上詫宣 | ○ | ○ | × | |
| 字上掵 | ○ | ○ | ○ | |
| 字城戸 | ○ | ○ | ○ | |
| 字甚平 | ○ | ○ | ○ | |
| 字中都 | ○ | ○ | × | |
| 字中掵 | ○ | ○ | ○ | |
| 字都 | ○ | ○ | × | |
| 字鍋倉 | ○ | ○ | ○ | |
| 字鍋倉雨沼 | ○ | ○ | × | |
| 字二本松 | ○ | ○ | ○ | |
| 字日光 | ○ | ○ | × | |
| 字馬場尻 | ○ | ○ | ○ | |
| 字背戸 | ○ | ○ | × | |
| 字堀切 | × | ○ | × | |
| 字蘭場前 | ○ | ○ | ○ | |
| 字樋向 | ○ | ○ | × | |
下鍋倉では、縄文時代の平沢Ⅰ・Ⅱ遺跡や中都遺跡などが確認されているが、いずれも発掘調査は行われておらず、遺構については不明である[12]。このうち平沢Ⅰ遺跡からは、壺形土器・注口土器・鉢形土器・台付土器・土偶・石棒・石刀などが出土している[13]。特に壺形土器は、胴部上半に広範囲に摩消痕があり、珍しい例とされる[13]。また、平沢Ⅱ遺跡、中都遺跡からは弥生時代の土器が数点出土している[14]。
中世には鍋倉館と呼ばれる城館が置かれ、小野寺氏の一族と伝えられる鍋倉氏の居城として機能していた[15]。現在、遺構の大部分は集落に包摂されて失われているが、城戸集落および寺村の東側には堀跡が一部現存している[15]。かつては幅6 - 10メートルの水堀が鍋倉集落全体を囲んでいたと伝えられている[15]。
江戸時代には出羽国平鹿郡のうちであった[6]。もとは鍋倉村であったが、正保年間に上鍋倉村と下鍋倉村に分割されたとされる[6][16]。『正保国絵図』および『元禄7郡絵図』では、上鍋倉村と下鍋倉村の位置が享保年間以降の位置と入れ違いになっており、元禄7郡絵図には新田村として独立して記されている[6]。下鍋倉新田村は、鍋倉城のあった鍋倉村(享保年間以降の下鍋倉村)から十五野新田村が成立し、その後、下鍋倉新田村の「新田」の字が削られる過程で、上下の村名が地理的条件などを踏まえて入れ替えられたと推定されている[6]。
石高は『正保国絵図』では928石、『元禄7郡絵図』では1,096石、『享保黒印高帳』では村高898石余、当高880石余、『寛政村附帳』では872石余とある[6]。戸数は『享保郡邑記』で87軒、『秋田風土記』で63軒、『雪の出羽路』で61軒とある[6]。『六郡郡邑記』では枝郷に、羽場村、河前村(元禄年間に廃村)が見える[17]。河前村は二本松集落の南方で、下川前、上川前として地名に残る[18]。享和3年(1803年)の『出羽国郡村仮名附帳』では、都町村、あら所村、羽場村が見える[17]。
荒処の勧行院境内(現在は廃寺)には犬子清水があり、清水町新田村はこれを水源として万治から寛文年間に開墾された[17]。
下鍋倉村は、町村制施行に伴い、1889年(明治22年)4月1日に浅舞村と合併し、新制・浅舞村が発足した。下鍋倉村はもともと植田村・越前村・木下村・源太左馬村と合併する案があったが、人情風俗の点からも浅舞村と合併することが適当であるとし、浅舞村と合併した[19]。
2020年(令和2年)10月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
| 大字 | 小字 | 世帯数 | 人口 |
|---|---|---|---|
| 平鹿町下鍋倉 | 字城戸 | 38世帯 | 118人 |
| 字馬場尻 | 32世帯 | 115人 | |
| 字蘭場前 | 26世帯 | 95人 | |
| 字鍋倉 | 46世帯 | 169人 | |
| 字関根小屋 | 33世帯 | 98人 | |
| 字二本松 | 64世帯 | 213人 | |
| 計 | 239世帯 | 808人 | |
以下は国勢調査による1995年(平成7年)以降の人口の推移。
| 年 | 人口 |
|---|---|
| 1995年(平成7年)[25] | 1,066 |
| 2000年(平成12年)[26] | 1,002 |
| 2005年(平成17年)[27] | 1,005 |
| 2010年(平成22年)[28] | 970 |
| 2015年(平成27年)[29] | 880 |
| 2020年(令和2年)[1] | 808 |
以下は国勢調査による1995年(平成7年)以降の世帯数の推移。
| 年 | 世帯数 |
|---|---|
| 1995年(平成7年)[25] | 240 |
| 2000年(平成12年)[26] | 239 |
| 2005年(平成17年)[27] | 256 |
| 2010年(平成22年)[28] | 254 |
| 2015年(平成27年)[29] | 245 |
| 2020年(令和2年)[1] | 239 |
市立小・中学校に通う場合、学区(校区)は以下の通りとなる[30]。
| 小字 | 小学校 | 中学校 |
|---|---|---|
| 全域 | 横手市立浅舞小学校 | 横手市立平鹿中学校 |
域内に駅はない。最寄り駅は■奥羽本線の醍醐駅または同線十文字駅。
| 平鹿町樽見内 | 平鹿町浅舞 | |||
| 十文字町木下 | 十文字町十五野新田 | |||
| 十文字町越前 |
| 平成の大合併が行われる前の旧市町村単位でまとめている。 | ||
| 横手地域 | 赤川 |赤坂 |朝倉町 |旭川 |朝日が丘 |猪岡 |梅の木町 |駅西 |駅前町 |駅南 |追廻 |大沢 |大鳥町 |大町 |大水戸町 |大屋新町 |大屋寺内 |卸町 |鍛冶町 |金沢 |金沢中野 |金沢本町 |上内町 |上境 |上八丁 |清川町 |黒川 |寿町 |幸町 |三本柳 |三枚橋 |静町 |清水町新田 |下境 |下八丁 |城西町 |城南町 |城山町 |新坂町 |神明町 |蛇の崎町 |条里 |杉沢 |杉目 |外目 |田中町 |台所町 |中央町 |塚堀 |根岸町 |羽黒町 |百万刈 |平城町 |婦気大堤 |二葉町 |平和町 |本郷町 |前郷 |前郷一番町 |前郷二番町 |松原町 |南町 |明永町 |睦成 |本町 |安田 |安田原町 |安本 |柳田 |八幡 |横手町 |横山町 |四日町 | |
| 十文字地域 | ||
| 平鹿地域 | ||
| 雄物川地域 | ||
| 増田地域 | ||
| 大森地域 | ||
| 大雄地域 | ||
| 山内地域 | ||