| 平野信助 贈七段 | |
|---|---|
| 名前 | 平野信助 |
| 生年月日 | (1891-05-19)1891年5月19日 |
| 没年月日 | (1965-12-12)1965年12月12日(74歳没) |
| プロ入り年月日 | 1918年(26歳) |
| 引退年月日 | 1947年(55歳) |
| 出身地 | 青森県 |
| 師匠 | 大崎熊雄九段 |
| 弟子 | 丸田祐三 |
| 段位 | 贈七段 |
| 順位戦最高クラス | B級 |
| 2023年6月4日現在 | |
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平野 信助(ひらの しんすけ、1891年〈明治24年〉5月19日[1] -1965年〈昭和40年〉12月12日[2])は、将棋棋士。贈七段。大崎熊雄門下。青森県出身。日本将棋連盟の創設時(創設当時は東京将棋連盟)の参加棋士20人のうちの一人[3]。
1891年(明治24年)青森市大町生まれ[4]。青森中学卒業後、第一高等学校の三部を受験し不合格となり[1]、第二高等学校に進学[5]、医学を志すも18歳の時に初期の肺結核となり進学を断念し高校中退[1][4]。
青森帰郷後に杉野岩太郎(当時二段)と知り合い、杉野を目標に棋力を付ける[1]。平野の棋力を認めた杉野の勧めで上京し、1918年(大正7年)4月に井上義雄の内弟子となり、付け出し四段となる[1]。同じころ、将棋同盟社に入会[1]。同年8月、体を悪くし一度帰郷[1]。
1924年(大正13年)に上京し、大崎熊雄門下となる[1]。この頃に五段[4]。1928年に六段[4]。
なお、本項目では、後に「四段以上がプロ棋士」という制度が発生したため、四段昇段の年を特筆して書いてあるが、当時は四段は特別な段位ではなかった(五段以上が高段者という概念はあった)。昭和9年(1934年)に大阪で升田幸三が初段になった頃までは、(囲碁と同じく)「初段からが専門棋士」だった[6]。その頃、それと並行して奨励会ができた(東京は昭和3年(1928年)、大阪は昭和10年(1935年))ことをきっかけに、「(奨励会を卒業して)四段からプロ棋士」という制度が確立していった[7]。
1943年(昭和18年)2月の満州国将棋大成会発足時に現地へ赴任[8]、その際に七段昇段の扱いとなるも[9]、病のため帰国後も六段のままの扱いとなる[10][4]。
1945年(昭和20年)の空襲による家屋火災のため郷里の青森に戻り[1]、戦後の1946年の順位戦にはB級クラスで参加し14戦全敗。青森と東京を往復しての対局が堪えたこともあり[1]、順位戦参加は1期限りで1947年引退。
1964年11月、棋界功労者表彰式で七段を贈られる[11][注釈 1]。
1965年12月12日、水難事故により死去(享年74)[2]。同日より不明となっていたが翌1月5日、青森港で死亡が確認された[12]。
| 名前 | 四段昇段日 | 段位、主な活躍 |
|---|---|---|
| 丸田祐三 | 1946年4月1日 | 九段、タイトル挑戦4回、一般棋戦優勝10回、A級在籍 |
| 開始 年度 | (出典)順位戦 出典[13] | |||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 期 | 名人 | A級 | B級 | C級 | 0 | |||
| 1組 | 2組 | 1組 | 2組 | |||||
| 1946 | 1 | 六・七段戦 順位15位 | 0-14 (不戦敗9) | |||||
| 順位戦の 枠表記 は挑戦者。 右欄の数字は勝-敗(番勝負/PO含まず)。 順位戦の右数字はクラス内順位 (x当期降級点 / *累積降級点 /+降級点消去 ) | ||||||||
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日本将棋連盟所属 引退棋士および退会者 | |
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| 引退年不詳 1930年代 引退者 | |
| 1940年代 引退者 | |
| 1950年代 引退者 |
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| 1960年代 引退者 | |
| 1970年代 引退者 | |
| 1980年代 引退者 | |
| 1990年代 引退者 | |
| 2000年代 引退者 |
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| 2010年代 引退者 |
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| 2020年代 引退者 | |
| 退会者 | |
| 引退棋士 全173名(日本将棋連盟所属、棋士番号割当者〈※番号なし、人数に含めず〉、うち故人102〈下線表記〉)、退会者3名。 現役棋士については「Template:日本将棋連盟所属棋士」を参照 / 棋士全般についての詳細は「将棋棋士一覧」を参照 | |