| 平生 釟三郎 ひらお はちさぶろう | |
|---|---|
1945年 | |
| 生年月日 | 1866年7月4日(慶応2年5月22日) |
| 出生地 | (現: |
| 没年月日 | (1945-11-27)1945年11月27日(79歳没) |
| 死没地 | |
| 出身校 | 高等商業学校(現・一橋大学)卒業 |
| 前職 | 実業家 |
| 称号 | 従三位 勲一等旭日大綬章 |
| 配偶者 | 平生すす |
| 子女 | 長男:平生太郎(山武常務) 三男:平生三郎(東洋紡績副社長) |
| 内閣 | 廣田内閣 |
| 在任期間 | 1936年3月25日 -1937年2月2日 |
| 在任期間 | 1943年4月28日 -1945年11月27日 |
| 選挙区 | (勅選議員) |
| 在任期間 | 1935年12月3日 -1943年4月30日 |
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平生 釟三郎(ひらお はちさぶろう、1866年7月4日〈慶応2年5月22日〉 -1945年〈昭和20年〉11月27日[1])は、日本の実業家・教育者(甲南学園創立者)・政治家(廣田内閣で文部大臣・貴族院勅選議員・枢密顧問官)。甲南病院(現在の甲南医療センター)の設置者。住吉村に住まい、その跡地は自ら創立した甲南大学の平生記念セミナーハウスとして活用されている。
明治、大正、及び昭和初期に活躍し、移民制限を始めたブラジルに対し経済的貢献により移住を確保しようと海外移住組合連合会長だった平生が、1934年(昭和9年)に訪伯経済使節団長としてブラジルを訪問。ブラジル産綿花を日本に輸出する橋渡しをするなどの貢献を行った[2]。その功績により、1935年(昭和10年)南十字星国家勲章(コメンダトール)を受賞した。灘購買組合(日本初の生協)の設立、大阪ロータリークラブの設立にも尽力。政治家の床次竹二郎を後援し、献金をした。甲南大学・甲南高等学校・中学校の創立者でもある。東京商業学校第三部露語科の同級生に二葉亭四迷がいる。
1936年(昭和11年)、文部大臣に就任すると義務教育年限6年を8年に延長する案の実現に尽力。内閣調査室などの反対に会うが1938年(昭和14年)から実施されることとなった[3]。
1935年(昭和10年)、美術界の挙国一致体制を図ろうとした松田源治が帝国美術院の改革を始めると美術界から異論が噴出。帝展の開催もままならなくなった[4]。実質的な後任となった平生は試案を示しながら美術院会員へ歩み寄りを示したが、美術院会員を辞任する作家が相次いだ[5]。平生の在任中に帝国美術院の改革は進まなかったが、後に帝国芸術院へ発展的改組が行われる契機となった。
ある日、造船所の見習職工に君が代の歌詞を漢字入りで書かせたところ、同音異義語を充てる者(例:岩音)が多かったことに気がついた。教育の場でしっかりと君が代を定着させなければならないとして、尋常小学校の教科書に掲載するよう指示を出した[6]。
1945年(昭和20年)1月15日、老年を理由に特旨を以て宮中杖を許される[7]。同年11月27日に死去。葬送にあたり勅使として侍従の三井安弥が派遣されて祭粢料が下賜された[8]。
平生釟三郎はカナモジカイの会員であった。1930年に講演を行い、その講演をもとに『漢字廃止論』という本を出していた。
1929年5月9日、貴族院本会議で、文相として漢字廃止論を述べ、世上のに論議をよんだ。
1936年3月25日、広田弘毅内閣の文部大臣となった。5月の貴族院本会議において、『漢字廃止論』について質問されて、現在でも漢字廃止を信念としていることをあきらかにした[21]。

小寺源吾邸の道を挟んで南隣りにあったが、その跡地には、自ら創立した甲南大学の平生記念セミナーハウスが建っている[22]。(「住吉村 (兵庫県)#出身・ゆかりのある人物」参照)
| 公職 | ||
|---|---|---|
| 先代 潮恵之輔 | 1936年 - 1937年 | 次代 林銑十郎 |
| 先代 潮恵之輔 | 1936年 | 次代 (廃止) |
| 先代 丸岡久之助 校長事務取扱 | 県立神戸商業学校長 1893年 - 1894年 | 次代 今立吐酔 |
| ビジネス | ||
| 先代 (新設) | 日鉄鉱業社長 1941年 取締役会長 1939年 - 1941年 | 次代 豊田貞次郎 |
| 先代 中松真卿 | 日本製鐵社長 1940年 - 1941年 | 次代 豊田貞次郎 |
| 先代 中井励作 | 日本製鐵取締役会長 1937年 - 1940年 | 次代 (廃止) |
| 先代 松方正雄 社長 | 大福海上火災保険取締役会長 1927年 - 1936年 | 次代 鈴木祥枝 |
| 先代 (新設) | 川崎造船所取締役会長 1935年 - 1936年 | 次代 鋳谷正輔 |
| 先代 鹿島房次郎 | 川崎造船所社長 川崎汽船社長 1933年 - 1935年 | 次代 鋳谷正輔 |
| 先代 加藤正義 | 扶桑海上火災保険取締役会長 1924年 - 1932年 | 次代 小倉正恒 |
| 先代 飯田義一 | 大正海上火災保険取締役会長 1924年 | 次代 南条金雄 |
| その他の役職 | ||
| 先代 田辺貞吉 | 財団法人甲南学園理事長 1926年 - 1945年 | 次代 伊藤忠兵衛 |
| 先代 水野錬太郎 産業報国中央連盟会長 | 大日本産業報国会会長 1940年 - 1944年 | 次代 鈴木貞一 |
| 先代 田中都吉 | 如水会理事長 1937年 - 1943年 | 次代 正田貞一郎 |
| 先代 郷誠之助 重要産業統制団体協議会会長 | 重要産業協議会会長 1942年 - 1943年 重要産業統制団体協議会会長 1942年 | 次代 松本健次郎 |
| 先代 (新設) | 鉄鋼統制会会長 1941年 - 1942年 | 次代 豊田貞次郎 |
| 先代 (新設) | 実業教育振興中央会会長 1936年 - 1937年 | 次代 林銑十郎 |
甲南大学学長(甲南高等学校長:1933年 - 1936年/1937年 - 1938年/1939年 - 1944年) | |
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| 甲南高等学校長 | |
| 甲南大学長 |
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| 学校法人甲南学園 |
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| 学校法人甲南女子学園 |
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| 学校法人甲南学園甲南小学校 |
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| 社会福祉法人甲南愛育会 |
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| 公益財団法人甲南会 |
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| 体育会 | |||||
| 関連項目 | |||||