この項目では、60周期の数詞について説明しています。日本語で「干支」と呼称されることが多い12周期の数詞については「十二支 」を、対応する動物については「生肖 」を、宮崎県 の住所表記については「干支 (北方町) 」をご覧ください。
干支 (かんし、えと、中国語 :干支 、ピンイン :gānzhī)は、十干 と十二支 を組み合わせた60 を周期とする数詞 [ 1] 。古代中国にはじまる暦法上の用語[ 2] 。暦 を始めとして、時間、方位、ことがらの順序などに用いられる[ 1] 。六十干支 (ろくじっかんし)、十干十二支 (じっかんじゅうにし)、天干地支 (てんかんちし)ともいう。
干支の60周期を表した図 干支は、中国 を初めとしてアジア の漢字文化圏 において、年 ・月 ・日 ・時間 や方位 、角度 、ものごとの順序づけを表すのにも用いられ、陰陽五行説 とも結び付いて様々な卜占 にも応用された[ 1] 。古くは十日十二辰 、十母十二子 とも呼称した[ 2] 。
起源は商(殷 )代の中国にさかのぼる[ 1] 。日・月・年のそれぞれに充てられ、60日(ほぼ2か月)、60か月(ほぼ太陰太陽暦 5年)、60年などを表す。干 は幹・肝 と、支 は枝・肢 と同源であるという。東は日本 、朝鮮半島 、南はベトナム 、西はロシア 、東欧 などに伝わった。日本に暦が伝わったのは古墳時代 から飛鳥時代 にかけてであり、朝廷 は百済 から暦法 や天文地理を学ぶために学問僧を招き、604年 (推古12年)、日本最初の暦が作成されたと伝えられる[ 3] 。
日本においては「干支」を「えと 」と呼んで、ね、うし、とら、う、たつ…の十二支 だけを指すことが多いが、「干支」は十干 と十二支の組合せを指す語である。また、「えと」は十干において「きのえ (甲)」「きのと (乙)」「ひのえ (丙)」「ひのと (丁)」のように陽陰に応じて「え」「と」の音が入ることに由来し、十二支とは関連のない呼び名なので、厳密には二重の誤りである。 [要出典 ]
干支は60回で一周し[ 1] 、十干と十二支との可能な組合せの半数しかない。例えば、一覧01〜60で5回ある「子」のうちに、「甲子」はあるが「乙子」はない。これは、10 と12 に共通の約数 2 があるので、干支の周期が積の120 ではなく、最小公倍数 の60 になるからである。このように、干支の組合せは必ず干の陽と支の陽、または干の陰と支の陰が組み合わさる。
十干 は甲 ・乙 ・丙 ・丁 ・戊 ・己 ・庚 ・辛 ・壬 ・癸 の10種類からなり、十二支 は子 ・丑 ・寅 ・卯 ・辰 ・巳 ・午 ・未 ・申 ・酉 ・戌 ・亥 の12種類からなっており、これらを合わせて干支 と呼ぶ[ 1] 。十干十二支は戦国時代 に作られた陰陽五行説よりもはるかに古い起源をもつので、陰陽五行説による説明は後付けであって学問的な意味はない。また生命消長の循環過程とする説もあるが、これは干支を幹枝と解釈したため生じた植物 への連想と、同音漢字を利用した一般的な語源俗解手法による後漢 時代の解釈[ 注釈 1] である。鼠、牛、虎…の12の動物との関係がなぜ設定されているのかにも諸説があるが詳細は不明である。
十干 日本語 中国語 朝鮮語 ベトナム語 陰陽五行思想的解釈[ 4] 音読み 訓読み 意味 甲 こう きのえ 木の兄 jiǎ/ㄐㄧㄚˇ 갑 (gap) giáp 草木の芽生え。鱗芽のかいわれの象意。 乙 おつ、いつ きのと 木の弟 yǐ/ㄧˇ 을 (eul) ất 陽気でまだ伸びなく、かがまっている状態。 丙 へい ひのえ 火の兄 bǐng/ㄅㄧㄥˇ 병 (byeong) bính 陽気の発揚。 丁 てい ひのと 火の弟 dīng/ㄉㄧㄥˉ 정 (jeong) đinh 陽気の充溢。 戊 ぼ つちのえ 土の兄 wù/ㄨˋ 무 (mu) mậu 茂に通じ、陽気による分化繁栄。 己 き つちのと 土の弟 jǐ/ㄐㄧˇ 기 (gi) kỷ 紀に通じ、分散を防ぐ統制作用。 庚 こう かのえ 金の兄 gēng/ㄍㄥˉ 경 (gyeong) canh 結実・形成・陰化の段階。 辛 しん かのと 金の弟 xīn/ㄒㄧㄣˉ 신 (shin) tân 陰による統制の強化。 壬 じん みずのえ 水の兄 rén/ㄖㄣˋ 임 (im) nhâm 妊に通じ、陽気を下に姙む意。 癸 き みずのと 水の弟 guǐ/ㄍㄨㄟˇ 계 (gye) quý 揆に同じく生命のない残物を清算して地ならしを行い、新たな生長を行う待機の状態。
十二支 日本語 中国語 広東語 台湾語 韓国語 ベトナム語 植物的解釈[ 5] 音読み 訓読み 拼音 粤拼 白話字 ハングル 国語 子 し ね zǐ zi2 chú 자 tý 「孳」(し:「ふえる」の意味)。 新しい生命が種子の中に萌し始める状態を表しているとされる。 丑 ちゅう うし chǒu cau2 thiú 축 sửu 「紐」(ちゅう:「ひも」「からむ」の意味)。 芽が種子の中に生じてまだ伸びることができない状態を表しているとされ、 指をかぎ型に曲げて糸を撚ったり編んだりする象形ともされる。 寅 いん とら yín jan4 în 인 dần 「螾」(いん:「動く」の意味)。 春が来て草木が生ずる状態を表しているとされる。 卯 ぼう う mǎo maau5 báu 묘 mão/mẹo 「冒」、『史記』律書によると「茂」(ぼう:「しげる」の意味)。 草木が地面を蔽うようになった状態を表しているとされる。 辰 しん たつ chén san4 sîn 진 thìn 「振」(しん:「ふるう」「ととのう」の意味)。 草木の形が整った状態を表しているとされる。 巳 し み sì zi6 chī 사 tỵ 「已」(い:「止む」の意味)。 草木の成長が極限に達した状態を表しているとされる。 午 ご うま wǔ ng5 ngó͘ 오 ngọ 「忤」(ご:「つきあたる」「さからう」の意味)。 草木の成長が極限を過ぎ、衰えの兆しを見せ始めた状態を表しているとされる。 未 び ひつじ wèi mei6 bī 미 mùi 「昧」(まい:「暗い」の意味)。 植物が鬱蒼と茂って暗く覆う状態を表しているとされる。 『説文解字 』によると「味」(み:「あじ」の意味)。 果実が熟して滋味が生じた状態を表しているとされる。 申 しん さる shēn san1 sin 신 thân 「呻」(しん:「うめく」の意味)。 果実が成熟して固まって行く状態を表しているとされる。 酉 ゆう とり yǒu jau5 iú 유 dậu 「緧」(しゅう:「ちぢむ」の意味)。 果実が成熟の極限に達した状態を表しているとされる。 戌 じゅつ いぬ xū seot1 sut 술 tuất 「滅」(めつ:「ほろぶ」の意味)。 草木が枯れる状態を表しているとされる。 亥 がい い hài hoi6 hāi 해 hợi 「閡」(がい:「とざす」の意味)。 草木の生命力が種の中に閉じ込められた状態を表しているとされる。
亀甲獣骨文字 (牛 の肩胛骨 に甲骨文字が刻されている)、上海博物館 蔵殷商帝室の系譜 干支はすでに商(殷 )代に現れており、殷墟 出土の亀甲獣骨 にたくさんの干支が日付を表すために用いられている。甲骨文 には、干名だけで日を表すこともあり、祖王の名を「祖甲」「父丁」など、その人に関連する特定の干名で呼ぶ例があることから、十二支よりも十干の方がより基本的であったことがうかがえる(これについては、「殷#歴代王 」も併せて参照のこと)。
春秋戦国時代 に、自然 や世界の成り立ちを木 ・火 ・土 ・金 ・水 から説明する五行思想 が起こり、干支も五行と結びつけられるようになった。
古くは十干を「十日」、十二支を「十二辰」と呼んだ。『史記 』律書では上を母、下を子に見立てて「十母十二子 」と呼んでいる。幹(干)と枝(支)に喩えて「干支 」と呼ばれるようになったのは後漢 代からである。
月や年を表すために干支を用いるようになった時期は、殷代よりも後の時代に属する。
年を表すには、古来、著しい事件や帝王 の即位 年を基準とすることが多かったが、戦国時代 の中ごろになって木星 (歳星)の天における位置によって年を指し示すことが考案された。後述のように、この方法がやがて発達し、当初は木星の位置により、次には十二支により、漢 代には干支の組合せによって年を表す例が広く行われるようになった。
1日(24時間)を十二支に分けるようになった時期も漢代である。十二支に対して十二獣を充当することは秦 代にも見られるが、文献 における初出は後漢代からである。また、「外事には剛日を用い、内事には柔日を用いる」[ 注釈 2] とされたのも漢代であり、これは、戦国時代の陰陽家 の影響を受けている。
方位 への応用も、陰陽五行思想 と結びついたことによって漢代に広がった。
ただし、全10巻中8巻が『四庫全書 』にも収められている唐 の時代に編纂された兵書である『神機制敵太白陰經』[ 注釈 3] (李筌 編)のうち、巻四「戰具」や巻九「遁甲」において、夜半、鶏鳴といった十二時 による時刻 名とともに、この時刻の干支は云々と記載されているので、時刻を干支で呼ぶ習慣 の定着には長い時を要し、唐の時代にはまだ古い記憶の名残があったと推測できる。
干支によって日付を記述する干支紀日法 は、すでに殷代の甲骨文 に現れている。
西洋では1月を4分割して「週 」(7日)というサイクルを編み出した(ただし7という数字は天体から)が、古代中国では1月を3分割して「旬 」(10日)というサイクルを考案し、十干 という順序符号をつけた。甲骨文には「卜旬(ぼくじゅん)」があり、これは、ある特定の日(癸の日)から向こう10日間の吉凶を占ったものである[ 注釈 4] 。10日、すなわち十干を3回繰り返すと1か月(30 日 )になるので、十干と十二支 を組み合わせると、2か月(60日)周期で日付を記録することになる。
ある日を甲子 とすると、第2日が乙丑 、第3日が丙寅 というように進んで第60日の癸亥 へと進み、第61日に至ると再び甲子 に還って日を記述していった。これは、3,000年以上経った今に至るまで、断絶することなく用いられている。また、干支紀日は『日本書紀 』など東アジア の歴史書 にも広く使用されている。
殷代においては、干支はもっぱら紀日法として用いられ、年に関しては1から始まる順序数(自然数 )を使用しており、月に関しても順序数を基本としていた。
現在のような順序数による紀日法がいつ始まったかはわかっていないが、現在のところ、山東省 臨沂 県(りんぎけん)から出土した銀雀山漢墓 竹簡 、および武帝 7年(元光 元年、紀元前134年 )の暦譜 竹簡の例が最古とされている。
中国でも日本でも暦 はしばしば改定されているが、干支による紀日は古代から連綿と続いており、古い記録の日付を確定する際の有力な手がかりになる。
さらに、旧暦の月は29日また30日で規律があまりなく、閏月 もあるが、干支を使えば閏月があるかないかがわかる。
一例として、史料に「○月甲寅朔(1日は甲寅の日)」のように記録したら、「乙丑、…(なにかのできごと)」はその月の12日であることは自明。そして「七月甲子」と「八月甲子」の間に60日もあるなら七月と八月の間に「閏七月」があることがわかる。
古くから中国では冬至を含む月を「子月 」と呼んだ。
子は十二支の1番目であり「新たな生命の種が宿る時」とされており、旧命が滅し、新種が宿るため、子は十二支で唯一、生滅同梱・新旧同梱の支となる。時刻に関しても子の時刻は23:00-0:59となっており、旧から新へと切り替わることを意味する。
周代 では冬至の日を新年とし、子月を1月としていたが、漢代 に王朝が変わると夏暦 が再び使用されるようになり、正月が寅月立春に移動し、寅月を1月とする夏暦が2000年以上も続き、現在の中国でも夏暦が使用されている。
「一陽来復」(いちようらいふく)とは、冬至を意味し、新年の到来、悪い事が続いた後で幸運に向かう事、陰気が極まった後に冬至を境に陽気に向かう事を意味し、陰暦10月は坤卦、11月は復卦に当たり、陰ばかりの中に陽が戻ることになり、復卦とは冬至の事である。
冬至は1年間で太陽の位置が最も低くなる日であり、1年間で日中が最も短くなり、冬至を境に太陽が生まれ変わり、陽気が増え始めるとされている。
天文 や二十四節気 の平気法 では冬至を1年の起点としている。子の時刻は23:00-0:59となっており、二十四節気を24時間上に例えると、子月にある冬至は0:00の位置となり、次の年への移行を意味することになる。物理上は、1年間の干支は冬至で切り替わることになる。
月名には十干を加えることが唐 代には行われており、その場合の配当は年の干名によって各月の干が割り当てられた。たとえば、寅月についていえば、甲や己の年は丙 、乙や庚の年は戊 、丙や辛の年は庚 、丁や壬の年は壬 、戊や癸の年は甲 となる。つまり、干名が甲である年の寅月は「丙寅月」となる。
紀年法 とは、年 を記したり数えたりするための方法のことで、中国 を中心とした漢字文化圏では年号紀元 に基づく紀年法とともに、60年周期の干支による干支紀年法 が併用されてきた。その起源は木星 の観測と深い関わりがある。
木星 歳星紀年法 は、天球 における木星 の位置に基づく紀年法である。
中国の戦国時代 に始まった。木星 は約12年で天球 上を一周し、十二次 (天球を天の赤道 帯に沿って西から東に12等分した12の区画)を1年に一次進む。そこで、木星 は年を示す星であるとして「歳星」と呼び、木星 の十二次 における位置で年 を記した。たとえば「歳在星紀(歳、星紀に在り)」は、木星 が天球 上の「星紀」という場所に存在する年という意味である。
太歳と木星の移動 太歳紀年法 は、木星 の鏡像である太歳 の天球 における位置に基づく紀年法である。
木星 は天球 上を十二次 に沿って西から東に進むが、当時の人たちがよく使っていた十二辰 (天球を天の赤道帯に沿って東から西に十二等分した区画、十二支が配当された)に対しては、運行の方向と順序が逆であった。そこで、木星 の円軌道に一本の直径を引き、その直径を軸に木星 と線対称の位置に存在する太歳 という仮想の星を設定し、その十二辰 における位置で年を記すようにしたものである。
中国の戦国時代には、この直径は寅 の起点と申 の起点とを結んで引かれ、たとえば、「太歳在寅(太歳、寅に在り)」という記述があれば、その年は太歳 が寅 の位置に存在する年、つまり木星 が丑 の位置に存在する年のことである。その翌年は「太歳在卯」となり、太歳 は卯 、木星 は子 に位置する。
さらに、「太歳在寅」「太歳在卯」と記録する代わりに、太歳 が位置する各「年」に名称を設けて使用することが行われた(『爾雅 』「釈天」より)。
太歳の位置 子 丑 寅 卯 辰 巳 午 未 申 酉 戌 亥 歳名 困敦 赤奮若 摂提格 単閼 執徐 大荒落 敦牂 叶洽 涒灘 作噩 閹茂 大淵献 コントン セキフンジャク セッテイカク ゼンエン シュウジョ ダイコウラク トンショウ キョウコウ トンタン サクガク エンモ ダイエンケン
漢代 に入ると、『淮南子』 天文訓に「淮南元年冬、天一在丙子」と記述されるように、十干と組み合わせた干支 で太歳 の位置が記述されるようになった。
この太歳 の位置を示す十干 にも歳名が付けられた。
太歳の位置 甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸 歳名 閼逢 旃蒙 柔兆 強圉 著雍 屠維 上章 重光 玄黓 昭陽 エンホウ センモウ ジュウチョウ キョウギョ チョヨウ トイ ジョウショウ チョウコウ ゲンヨク ショウヨウ
この十干(歳陽)と十二辰(歳陰)の歳名とを組み合わせ、例えば、ある年を閼逢摂提格とすると、その翌年は旃蒙単閼、第3年は柔兆執徐…となり、第60年の昭陽赤奮若に至ると、再び閼逢摂提格から始めるという60年周期の歳名とした。
ただし、木星 の公転周期は正確には11.862年であるため、実際には1年に一次と少し進んでいることになり、約86年に一次(太歳は一辰)ずれることになる。これを「超辰」と呼ぶ。この超辰によるずれを解消するため、秦 の顓頊暦 では、太歳 を設定するための直径を丑 の起点と未 の起点に引き、秦の始皇帝 元年(紀元前246年 )を木星 が亥 にあり、太歳 が寅 にある年とする新しい基準を設けた。
前漢 の太初 元年(紀元前104年 )[ 注釈 5] の改暦(太初暦 )では、超辰を行い、丙子 を丁丑 に改めた。後に三統暦 の補正では超辰は114年に一次ずれると定義し、太初 元年を再び丙子 に戻し、太始 2年(紀元前95年 )を乙酉 から丙戌 へ超辰するとした。これによって三統暦による太歳紀年と後の干支紀年は太始2年から見かけ上、同じになる。
後漢 の建武 26年(西暦50年 )は、当時使われていた劉歆 の三統暦 の超辰法に従うならば、庚戌 を辛亥 とすべき年であった。にもかかわらず、光武帝 に随従していた学者たちは超辰を行わず、庚戌 のまま紀年を続けた。さらに元和 2年(西暦85年 )の改暦では三統暦の超辰法自体が廃止された[ 注釈 6] 。これ以後、木星 を観測して、その位置で年 を記録することはなくなった。この時から、木星の運行とは関係なく、60年周期の干支を1年ごとに機械的に進めていく干支紀年法が用いられるようになり、絶えることなく現在まで続いている。これは、後代に干支が伝来した朝鮮や日本とも共通である。西暦 2025年 の干支は乙巳 である。
民間では干支のうちの十二支の部分だけを用い、それに動物を配当した生肖紀年法 が今も広く用いられている。なお、広開土王碑 と12世紀 成立の高麗 朝による正史 『三国史記 』の干支に1年の違いがあるなど、時代や地域によっては必ずしも一定しないことも散見される。
十二支と十二獣 [ 注釈 7] がいつから結びつけられたのかは不明であるが、秦 代の墓から出土した睡虎地秦簡 [ 注釈 8] に含まれる『日書』には既に現在のように動物 [ 注釈 9] が配当されている様子が伺われる。
後漢 の王充 が著した『論衡 』物勢篇では、十二支を動物名で説明しており、これによって干支の本来の意味が失われ、様々な俗信 を生んだ。ただし、日 、月 、時刻 、方位 などを干支で示す慣習 が廃れた今日でもなお、干支紀年に限っては今なお民間で広く定着している要因ともなっている。日本 の風習 である年賀状 [ 注釈 10] などにも動物の絵柄が好んで描かれているが、下表のとおり、配当される動物には国 によって違いが見られる[ 注釈 11] 。西暦 2025年 の十二支は巳で、生肖 は蛇があてはまる。
稲荷山古墳 (埼玉県 行田市 )干支紀年の日本への伝来時期はよくわかっていない。日本に中国の暦本 が百済 を通じて渡来したのは欽明天皇 15年(554年 )[ 6] とされるが、実際には、それ以前にさかのぼる可能性が高い。上述のように、日本で最初の暦がつくられたのは604年(推古12年)のことと伝わる[ 3] 。
埼玉県 行田市 埼玉の埼玉古墳群 の一つ、稲荷山古墳 から出土した金錯銘鉄剣 には「辛亥年七月中記」の紀年があり、銘中「獲加多支鹵(わかたける)大王」を雄略天皇 とする考えが主流であることから、「辛亥 年」を471年 とする説が有力である。ただし、これに対しては531年 とする反論もある。
一方、和歌山県 橋本市 隅田の隅田八幡宮 に所蔵されている人物画像鏡 には、「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿…」という銘文が鋳されており、この「癸未 年」は、「男弟(おとど)王」が継体天皇 と考えられることから、503年 とする見方が有力である[ 注釈 15] 。
陰陽五行説 では、十干 に対し、天運を表す木 、火 、土 、金 、水 の五行にそれぞれ陰陽 一対を配して表す。訓読み では十干の名称は、甲(きのえ)、乙(きのと)、丙(ひのえ)、丁(ひのと)、戊(つちのえ)、己(つちのと)、庚(かのえ)、辛(かのと)、壬(みずのえ)、癸(みずのと)となり、五行のそれぞれに「(の)え」・「(の)と」がついたものである。「(の)え」は「(の)兄 姉 」を意味する。「(の)と」は「(の)おと」に由来し、「(の)弟 妹 」を意味する。「えと 」の呼称もこれに由来している。
十二支 にも五行が配される。四季 に対応する五行は、春 が木、夏 が火、秋 が金、冬 は水であり、土は各季節の最後の月にあたり、季節の変わり目を表す。土用の丑の日 は夏の最終月(土用 )の丑 の日という意味である。各季節に十二支を配すと、
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春 …寅(木)、卯(木)、辰(木、土用期間は土旺)夏 …巳(火)、午(火)、未(火、土用期間は土旺)秋 …申(金)、酉(金)、戌(金、土用期間は土旺)冬 …亥(水)、子(水)、丑(水、土用期間は土旺)となる。
陰陽五行説が起こったのは、中国の戦国時代 であり、騶衍 の五行思想 に陰陽思想 が結びついたものである。これが干支と結びついて干支五行説 として天地間の森羅万象における根本原理であると考えられるようになった。
相生と相剋 五行の組合せによって吉凶を占うことができるとされる。代表的なものを下に掲げる。
「相生 」…この関係は、天地陰陽の気が調和を保ち、万事が順調に進んで吉とされる。木生火(木は火を生じる) 火生土(火は土を生じる) 土生金(土は金を生じる) 金生水(金は水を生じる) 水生木(水は木を生じる) 「相剋 」…この関係は、天地の平衡が失われるため凶とされる。木剋土(木は土を剋す) 土剋水(土は水を剋す) 水剋火(水は火を剋す) 火剋金(火は金を剋す) 金剋木(金は木を剋す) 「比和 」…この関係は、同気が重なるため、五行それぞれの性質を強め、良い場合はますます良く、悪い場合はますます悪くなるとされる。 他に、相侮 、相乗 がある。
干支は、時刻 や方位 、角度 を表すのにも用いられる。
時刻については、現代の23時から翌1時までを子 の刻とし、以下、丑、寅、…と続いて、11時から13時までを午 の刻とした。現在、夜0時を「子夜 」、昼12時を「正午 」、正午より前を「午前 」、正午より後を「午後 」と称するのは、これに由来する。怪談 などで用いられる「草木も眠る丑三ツどき」とは今日でいう午前2時半ごろのことである。
なお、日本で初めて中国伝来の暦日を遵用して、時刻に十二支を配し、子を真夜中としたのは推古天皇 12年(604年 、甲子 の年)の正月のことであった[ 8] とされる。平安時代 の延喜 年間に編纂が始まり延長 5年(927年 )に完成した「延喜式 」でも、宮中 の諸門の開閉や日の出 、日の入り の時刻について、「申四刻六分」のように十二支を用いて示している。
「指南 」(漢代) 二十四方 恵方 十干は、五行説 によって説明されるようになると五行が表す方位である五方 と結び付けられた。さらに、後には十二支や、易 における八卦 を交えて細かい二十四山 が用いられるようになった。
十二支では、東 を卯 、西 を酉 、南 を午 、北 を子 の方位としている。東西を結ぶ線(緯線 とは厳密には異なる)を「卯酉線 (ぼうゆうせん)」、南北を結ぶ線(経線 に相当)を「子午線 」、経度 0度 のロンドン のグリニッジ天文台 を通る経線を「本初子午線 」と呼ぶのは、これに由来する。
四隅については、北東 ・南東 ・南西 ・北西 がそれぞれ「うしとら」[ 注釈 16] 、「たつみ」[ 注釈 17] 、「ひつじさる」、「いぬい」と呼ばれ、該当する八卦 から、「艮 (ごん)」、「巽 (そん)」、「坤 (こん)」、「乾 (けん)」の字を充当している。指南の実物を見るかぎり、南を指すためのレンゲの形状の磁石を置いた板の模様は、六壬神課 で使用する式盤 の地盤の形状に酷似している。
なお、二十四山 (下表参考)では、十干のうちの戊 ・己 は用いられない。したがって、十干のうちの8、十二支の12、八卦のうちの4を合わせての24方位となる。
漢字 中国語 日本語(音 ) 日本語(訓 ) 角度 方位 1 子 zǐ/ㄗˇ し ね 0° 北 2 癸 guǐ /ㄎㄨㄟˊ き みずのと 15° 北北東微北 3 丑 chǒu /ㄔㄡˇ ちゅう うし 30° 北北東微東 4 艮 gèn/ㄍㄣˋ ごん うしとら 45° 北東 5 寅 yín /ㄧㄣˇ いん とら 60° 東北東微北 6 甲 jiǎ /ㄐㄧㄚˇ こう きのえ 75° 東北東微東 7 卯 mǎo /ㄇㄠˇ ぼう う 90° 東 8 乙 yǐ /ㄧˇ いつ きのと 105° 東南東微東 9 辰 chén /ㄔㄣˊ しん たつ 120° 東南東微南 10 巽 xùn /ㄒㄩㄣˋ そん たつみ 135° 南東 11 巳 sì /ㄙˋ し み 150° 南南東微東 12 丙 bǐng /ㄅㄧㄥˇ へい ひのえ 165° 南南東微南 13 午 wǔ /ㄨˇ ご うま 180° 南 14 丁 dīng /ㄉㄧㄥˉ てい ひのと 195° 南南西微南 15 未 wèi /ㄨㄟˋ み ひつじ 210° 南南西微西 16 坤 kūn /ㄎㄨㄣˉ こん ひつじさる 225° 南西 17 申 shēn /ㄕㄣˉ しん さる 240° 西南西微南 18 庚 gēng /ㄍㄥˉ こう かのえ 255° 西南西微西 19 酉 yǒu /ㄧㄡˇ ゆう とり 270° 西 20 辛 xīn /ㄒㄧㄣˉ しん かのと 285° 西北西微西 21 戌 xū /ㄒㄩˉ じゅつ いぬ 300° 西北西微北 22 乾 qián /ㄑㄧㄢˊ けん いぬい 315° 北西 23 亥 hài /ㄏㄞˋ がい い 330° 北北西微西 24 壬 rén /ㄖㄣˋ じん みずのえ 345° 北北西微北
十二支が方位と結合していくのは、漢代のことと考えられている。漢代には易の解釈学である「象数易」という学問が隆盛し、そこでは、易の卦 や、それを構成する爻 に、十二月、十二律 (音律)、十二辰(支)、二十四節気 、五行、方位などが配当され、極めて複雑な理論が編み出された。
なお、歳徳神 の在する方向とされる恵方 (えほう)は、その年の干名によって定められている。
干支が十二獣や陰陽五行思想と結びついたことで、さまざまな伝承や俗信が生まれたが、日本に伝来すると日本固有のものとも習合して独自の俗信を生んでいった。中には、申 (さる)の日は「去る」と通じるので結婚式 を行わないなどというものもあった。
数え年 の61歳は、生まれた年(数え年では本来的には生誕直後から1歳となる)の干支に戻るので、「暦が還(かえ)った」という意味で「還暦 (かんれき)」といい、歳をとる正月 には、公私ともに正式に隠居 して長寿の祝いをした(東洋にあっては誕生日の概念は乏しかった)。この年齢に達すると親族などが赤い頭巾 やちゃんちゃんこ を贈るのは、もう一度赤ちゃんに戻って「生まれ直す」という意味合いをこめている[ 9] 。現在は、満60歳の誕生日や60周年に還暦の祝いをすることが多い。2周(120年)した場合は大還暦 という。
中国では「花甲」、日本と同じように60年の長寿を祝い、無病息災を願う習慣が今も続いている。
中国漢代緯書 にみえる予言説(讖緯 )である。中国よりもむしろ日本で信じられた。
辛酉 は天命 が改まる年とされ、王朝が交代する革命 の年で辛酉革命 という。日本では、平安時代 に政治的変革が起るのを防ぐ目的で、三善清行 の提唱によって、辛酉年の昌泰 4年(901年 )が「延喜 」と改元された。それ以来、日本では慶応 に至るまで、辛酉年と前年の庚申 年の2年続きで改元が実施されたが、中国ではこのような例はない。
また、『日本書紀』では、神武天皇 が即位したとする年を西暦紀元前660年 の辛酉の年に充てている。これについて、明治時代 の歴史学者那珂通世 は、『緯書』にある鄭玄の注に、1260年に一度(干支一周の60年(1元)×21元=1260年=1蔀)の辛酉年には大革命が起こるとの記述があり、推古天皇 9年(601年 )がその年に充たることから、この1260年前にあたる西暦紀元前660年を即位年に充てたとの説を立てた。また、1320年(60年×22回=1320年)周期説を採用する学者もあり、その場合、辛酉の3年後に充たる甲子年が革令(甲子革令 )の年であり、白村江の戦い の翌年の甲子年(西暦664年 )が基点とされる。
甲子革命については、中国でも、後漢末に太平道 の教祖張角 は光和 3年(180年 )に「蒼天已死 黄天當立 歳在甲子 天下大吉 (『後漢書 』71巻 皇甫嵩朱鑈列傳 第61皇甫嵩 伝[ 10] )」、蒼天(漢朝)已に死す 黄天(黄巾党)當に立つべし 歳は「甲子」に在り 天下大吉)とのスローガンを発しており、干支に基づく易姓革命 を意識して光和 7年(184年 )という甲子の年に黄巾の乱 を起こした史実がある。
神奈川県 藤沢市 伊勢山 公園の庚申塔(申 にちなんで三猿 が彫られている)近代以前の日本では、庚申 の日に広く庚申講が行われたが、これは道教 の伝説 に基づいている。
中国の言い伝えによれば、人間の頭と腹と足には三尸 (さんし)の虫がいて、いつもその人の悪事を監視している。三尸の虫は庚申の日の夜の寝ている間に天に登って天帝に日頃の行いを報告し、罪状によっては寿命 が縮められるとされる。そこで、三尸の虫が天に登れないようにするため、この日には徹夜しなければならないとされた。これを「守庚申」という。また、中国では、庚申の日には、菜食するのがよいとも言われていた。日本には庚申の晩に生まれた子、あるいは庚申の日の交わりで孕んだ子は盗人になるという言い伝えがあり、庚申の日に生まれた赤子には名に「金」の字を入れれば「ひと様の金を盗らない」という意味で厄除けになるとされた。夏目漱石 の本名である「金之助」は、この俗信にちなむ。
日本では、「庚申さま」として庚申の日そのものも神格化された。庚申の日の夜は村人が集まって神々を祀り、その後、寝ずに酒盛りなどをして夜を明かした。これを庚申講 という。庚申講を3年18回[ 注釈 18] 続けた記念に建立されたのが庚申塔 で、今も各地に残っている。
陰陽五行説 によれば、丙 も午 もともに剛強なる陽であって火 の性格をもち、中国ではその年は火災が多いなどといわれていた。
それが日本では、八百屋お七 が丙午 の年(1666年 )生まれたという風説があった[ 注釈 19] ところから、丙午の年に生まれた女性 は気性が激しく、夫 の運勢を圧倒して連れ合いを短命にするという俗信に変化した[ 注釈 20] 。これは男性 中心主義の見方であり、迷信俗説に類するものであるが、日本では丙午年の出産が避けられて、新生児の数が他の干支の年よりも少なかった。この迷信は戦後になっても残り、1966年 の出生数は、前年比で45万人減少した136万人だった。その反動もあり、翌年の丁未の年は新生児の数が例年よりおよそ57万人増え、193万人となった。なお、同様に火の重なる丁巳 (ひのとみ)は八専 の一つである。
五黄の寅 参照。
端午の節句 (江戸時代 の鯉のぼり )、『日本の礼儀と習慣のスケッチ』(1867年 )より干支は、二十四節気 や雑節 と結びついて、各地でさまざまな行事 が行われている。
中国の漢代には、正月 最初の子 の日には皇帝 が鋤 で耕し、皇后 が箒 で蚕床をはらって、祖先神 や蚕神 をまつる行事があったといわれている。
この行事は、古代日本にも伝播しており、正倉院 には使用した鋤と箒が現存している。正月初子(はつね)の日に、山野に出て若菜をつみ、若松をひいて長寿を願った行事が、『小右記 』にも記された「子の日のお遊び 」であり、平安時代の宮中の年中行事であった。
それ以外で著名なものとしては、次のものがある。
干支相生の日とされた天赦日 は、「よろずよし」の大吉日と考えられてきた。春(立春 から立夏 前まで)は戊寅 、夏(立夏から立秋 前まで)は甲午 、秋(立秋から立冬 前まで)は戊申 、冬(立冬から立春前まで)は甲子 の日である。
選日 のひとつ。1月・4月・7月・10月の亥 の日、2月・5月・8月・11月の寅 の日、3月・6月・9月・12月の午 の日を三隣亡 という。棟上げ など建築 に関することの凶日とされる。
選日のひとつ。干支21番目の甲申 の日から30番目の癸巳 の日までの10日間を凶とした。
選日のひとつ。夏至 以降3度目の庚 の日(初伏)、4度目の庚の日(中伏)、立秋以後の最初の庚の日(末伏)を凶日とする。庚(かのえ)は「金の兄」で金の陽性であり、金は火に伏せられること(火剋金)から、火性の最も盛んな夏の時期の庚の日は凶であるとする考えに由来している。
それ以外の選日に次のものがあり、いずれも干支が用いられる。
漢代には易 の解釈学として象数易が流行し、そこでは、易の卦 や、それを構成する爻 に、十二月、十二支、二十四節気、五行、方位などが配当されて、複雑な理論が編み出された。
特に八卦 と干支が結びついて占いに用いたものとして、納甲 がある[ 注釈 23] 。完成は前漢 代の京房 によるといわれており、三国時代 の呉 の虞翻 らによって継承された。後には十二支も易に用いられるようになり、八卦の各爻に干支が当てはめられた。唐の李淳風は『周易元義』で八卦六位図を伝えている。
一方、納音 は、陰陽五行説や中国古代の音韻理論を応用し、形容詞 を付加して30に干支を分類したものである。生まれ年の納音は、その人の運命を判断するのに用いられた[ 注釈 24] 。納音において凶日とされたのが五墓日 であった。戊辰 の日、壬辰 の日、丙戌 の日、辛丑 の日、乙未 の日がそれで、家作りは構わないが、動土・地固め・葬式・墓作り・播種・旅行・祈祷などは凶とされた。その名から、この日に葬式などを行うと、墓を5つ並べるといって忌むことがあった。
日の干支は、現代日本における七曜表形式のカレンダー でも、ある程度の情報量のあるものには記載されている。
十二直 とは、暦注 の一つであり、十二支とは別の12のサイクルを月に合わせて暦をつくり、その日の吉凶を占ったものである。中国では戦国時代に萌芽が見られ、秦と楚 では異なる十二直を使用していた。現代まで伝わっているのは中国を統一した秦の十二直である。十二直 は、建・除・満・平・定・執・破・危・成・納・開・閉から構成される。
現代において干支占いは、血液型性格分類 や占星術 と比べてマイナーである。血液型 や星座 は個人のプロフィールによく記述されるが、干支は記載されないことが多い。
心理学者 でもあった増永篤彦 によって行われた、生日の干支において干から支にひいた十二運 とある種の性格分類に相関があるとする研究は、動物占いや動物占いの動物キャラクターを別のもので置き換えた様々な占いに無断で流用されている。
ある年を西暦 (あるいは皇紀 )で表した値を10で割った余り、すなわち一の位を求め、下表から十干を割り出す。
余り(一の位) 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 十干 庚 辛 壬 癸 甲 乙 丙 丁 戊 己
同様に、西暦(あるいは皇紀)で表した値を12で割った余りを求め、下表から十二支を割り出す。
余り 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 十二支 申 酉 戌 亥 子 丑 寅 卯 辰 巳 午 未
この二つの組合せが、その年の干支である。すなわち、西暦と皇紀においては、10の倍数の年が庚 、12の倍数の年が申 、60の倍数の年が庚申 となる。例えば、西暦2005年(皇紀2665年)は、2005(2665)を 10 で割った余りが 5 となり、12 で割った余りが 1 となるので、乙酉 (きのととり・いつゆう)となる。
また、西暦で表した値から 3 を引いて 60 で割った余りが干支一覧の左端の数となる(0の場合は60にする)。例えば、西暦2005年は、2005から 3 を引くと2002で、2002を 60 で割った余りは 22となり、乙酉が求められる。
現在の日本においては、太陽暦 の年に対して干支を適用することが多いが、伝統的には節月 (立春 から翌年の立春の前日まで)を1つの干支として適用することも多く、一部の占いにおいては今日にも引き継がれている。また中国においては太陽太陰暦 (農暦)に対して適用している。
十二支は月 と同じ12個月的建子至建亥なので、月の十二支は毎年同じになる。十干は10個なので、十二支と組み合わせると、太陽暦 では5年(60か月)周期で月の同じ干支が繰り返されることになる。
西暦年の下1桁 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 (翌年の)1月
農曆月の下2桁 正月 二月 三月 四月 五月 六月 七月 八月 九月 十月 冬月 (翌年の)臘月
甲と己(4,9) 甲子 乙丑 丙寅 丁卯 戊辰 己巳 庚午 辛未 壬申 癸酉 甲戌 乙亥 乙と庚(5,0) 丙子 丁丑 戊寅 己卯 庚辰 辛巳 壬午 癸未 甲申 乙酉 丙戌 丁亥 丙と辛(6,1) 戊子 己丑 庚寅 辛卯 壬辰 癸巳 甲午 乙未 丙申 丁酉 戊戌 己亥 丁と壬(7,2) 庚子 辛丑 壬寅 癸卯 甲辰 乙巳 丙午 丁未 戊申 己酉 庚戌 辛亥 戊と癸(8,3) 壬子 癸丑 甲寅 乙卯 丙辰 丁巳 戊午 己未 庚申 辛酉 壬戌 癸亥
十二支は月 と同じ12個月的建寅至建丑なので、月の十二支は毎年同じになる。十干は10個なので、十二支と組み合わせると、太陽暦 では5年(60か月)周期で月の同じ干支が繰り返されることになる。
西暦年の下1桁 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 (翌年の)1月
農曆月の下2桁 正月 二月 三月 四月 五月 六月 七月 八月 九月 十月 冬月 (翌年の)臘月
甲と己(4,9) 丙寅 丁卯 戊辰 己巳 庚午 辛未 壬申 癸酉 甲戌 乙亥 丙子 丁丑 乙と庚(5,0) 戊寅 己卯 庚辰 辛巳 壬午 癸未 甲申 乙酉 丙戌 丁亥 戊子 己丑 丙と辛(6,1) 庚寅 辛卯 壬辰 癸巳 甲午 乙未 丙申 丁酉 戊戌 己亥 庚子 辛丑 丁と壬(7,2) 壬寅 癸卯 甲辰 乙巳 丙午 丁未 戊申 己酉 庚戌 辛亥 壬子 癸丑 戊と癸(8,3) 甲寅 乙卯 丙辰 丁巳 戊午 己未 庚申 辛酉 壬戌 癸亥 甲子 乙丑
十二支は月 と同じ12個なので、月の十二支は毎年同じになる。十干は10個なので、十二支と組み合わせると、太陽暦 では5年(60か月)周期で月の同じ干支が繰り返されることになる。
西暦年の下1桁 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 (翌年の)1月
農曆月の下2桁 正月 二月 三月 四月 五月 六月 七月 八月 九月 十月 冬月 (翌年の)臘月
甲と己(4,9) 壬戌 癸亥 甲子 乙丑 丙寅 丁卯 戊辰 己巳 庚午 辛未 壬申 癸酉 乙と庚(5,0) 甲戌 乙亥 丙子 丁丑 戊寅 己卯 庚辰 辛巳 壬午 癸未 甲申 乙酉 丙と辛(6,1) 丙戌 丁亥 戊子 己丑 庚寅 辛卯 壬辰 癸巳 甲午 乙未 丙申 丁酉 丁と壬(7,2) 戊戌 己亥 庚子 辛丑 壬寅 癸卯 甲辰 乙巳 丙午 丁未 戊申 己酉 戊と癸(8,3) 庚戌 辛亥 壬子 癸丑 甲寅 乙卯 丙辰 丁巳 戊午 己未 庚申 辛酉
1月は節分以前の月に該当するため、干支は前年1月のものとなる(例:2022年1月の月の干支は辛丑)。なお、ここでいう月は「暦月」(1日から翌月1日の前日まで)を適用する場合と「節月 」(節気から次の節気の前日まで)を適用する場合とがある。
ユリウス通日 に49を加えて60で割った余りに1を加えると、上表(「干支」のページ、一番上の右側に表示) に示した数字となる。
検表法
十干 A 甲 B 乙 C 丙 D 丁 E 戊 F 己 G 庚 H 辛 I 壬 J 癸 天 干 干 支 紀 日 速 查 表 世紀 日付 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 年 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 16 ユリウス 08 A B C D E F G H I J 0 002 21 23 40 42 61 63 80 82 23 02 06 07 J A B C D E F G H I 04 06 25 27 44 46 65 67 84 86 18 01 04 05 02 I J A B C D E F G H 08 10 29 31 48 50 69 71 88 90 20 03 01 H I J A B C D E F G 12 14 33 35 52 54 73 75 92 94 G H I J A B C D E F 16 18 37 39 56 58 77 79 96 98 22 F G H I J A B C D E 01 03 20 22 41 43 60 62 81 83 17 24 E F G H I J A B C D 05 07 24 26 45 47 64 66 85 87 D E F G H I J A B C 09 11 28 30 49 51 68 70 89 91 19 11 12 C D E F G H I J A B 13 15 32 34 53 55 72 74 93 95 21 09 10 B C D E F G H I J A 17 19 36 38 57 59 76 78 97 99 十二支 A 子 B 丑 C 寅 D 卯 E 辰 F 巳 G 午 H 未 I 申 J 酉 K 戌 L 亥 地 支 世紀 日付 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12 年 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 ユリウス 11 A B C D E F G H I J K L 0 007 16 23 32 39 48 55 64 71 80 87 96 20 23 09 L A B C D E F G H I J K 14 30 46 62 78 94 17 K L A B C D E F G H I J 05 21 37 53 69 85 07 J K L A B C D E F G H I 03 12 19 28 35 44 51 60 67 76 83 92 99 24 01 05 I J K L A B C D E F G H 10 26 42 58 74 90 21 01 03 H I J K L A B C D E F G 01 17 33 49 65 81 97 18 12 G H I J K L A B C D E F 08 15 24 31 40 47 56 63 72 79 88 95 10 F G H I J K L A B C D E 06 22 38 54 70 86 08 E F G H I J K L A B C D 13 29 45 61 77 93 22 02 06 D E F G H I J K L A B C 04 11 20 27 36 43 52 59 68 75 84 91 16 19 02 04 C D E F G H I J K L A B 02 18 34 50 66 82 98 B C D E F G H I J K L A 09 25 41 57 73 89
例えば、西暦2018年5月21日は、十干日付5月21日I、年18I、世紀20J (癸)、十二支5.21E、18E、20B (丑)、癸丑の日である。ユリウス暦の場合、西曆年で表した値を80で割った余りを求め(年 mod 80)、その他のステップと同じである。例えば、紀元前105年(-104 mod 80 = 56)12月25日は、十干日付12月25日G、年56G、世紀ユリウスA (甲)、十二支12.25G、56G、ユリウスA (子)、甲子の日である。以下に一例を挙げる。
1960.12.6: 十干HHE 戊、十二支LLE 辰、干支は戊辰である。 1800.1.1: 十干IIG 庚、十二支IIC 寅、干支は庚寅である。 1582.10.4: 1582 mod 80 = 62、十干EEJ 癸、十二支IIJ 酉、干支は癸酉である。 -2020.2.29: -2020 mod 80 = 60、十干GGB 乙、十二支GGJ 酉、干支は乙酉である。 公式法
グレゴリオ暦の公式:干支数 = (10 + [年/400] - [年/100] + 年 mod 80 x 5 + [年 mod 80/4] + 月値(m) + 日(d)) mod 60。 ユリウス暦の公式:干支数 = (8 + 年 mod 80 x 5 + [年 mod 80/4] + 月値(m) + 日(d)) mod 60。 月 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 月 値m
00 31 -1 30 00 31 01 32 03 33 04 34 閏年 -1 30 mを求める公式 ([30.6(M - 3) + 0.4] - 1) mod 60
c = 10 + [20/4] - 20 = -5 y = 2000 mod 80 x 5 + [2000 mod 80/4] = 0 干支数 = (c + y + m + d) mod 60 干支数 = (-5 + 0 - 1 + 1) mod 60 = 55 干支は戊午である。 c = 8 y = -4712 mod 80 x 5 [-4712 mod 80/4] = 42 干支数 = (8 + 42 - 1 + 1) mod 60 = 50 干支は癸丑である。 「五行」は十干、十二支それぞれの五行をあらわす。なお、十干が「弟(と)」の場合だけ、十干と十二支の間に「の」を入れて読むのが慣例である。
^ 『釈名 』、『史記 』暦書、『漢書 』律暦志 ^ 用兵など外事には十干の奇数日、祭祀 など内事には十干の偶数日を用いるのが良い、という意味。 ^ 一般に流布しているのは10巻本であるが、四庫全書 には巻九、十を除いた8巻本が収録されている。 ^ 甲骨を用いた占いには、癸 の日以後10日間の吉凶を判断する定期的な卜旬と、開戦・豊作・異常気象の終わりを祈願する不定期的な占いがあった。 ^ この年の紀年は、『呂氏春秋』、『前漢書』賈誼伝、『前漢書』翼奉伝、『史記』歴書では、それぞれ乙亥 、丙子 、丁丑 、甲寅 となっており、それぞれ流派の異なる紀年が混在していた。前漢末に劉歆 によって整備が始まり、これが最終的に整理されて完全に統一されるのは後漢初期の元和 2年(西暦85年 )の改暦であった。 ^ この改暦は、中国 における官暦の最初とされる。 ^ 十二獣がなぜ十二支と結びつけられたかには、西方バビロニア の天文学 における黄道 十二宮 が各宮の多くを動物 で表すことから、その影響を受けたのではないかとする見方がある。また、これが普及したのは農事暦 を農民 に教え、浸透させるための便法という説もある。 ^ 湖北省 雲夢県 睡虎地で1975年 に発見された秦代 の竹簡 。地方官吏 を務めていた喜 という人物の墓 に収められていた。^ ただし、シカ が入りイヌ がなく、配当も異なっているなど現代のものとは大きく異なる。 ^ 中国 や韓国 にも似た風習がある。^ 亥 (中国や韓国などにおける猪(ブタ ))が日本 ではイノシシ 、丑がベトナム ではスイギュウ などとなっている。日本で「猪」がイノシシを表すようになったのは、生肖紀年が伝来した当時の日本では、豚の飼育が必ずしも一般的でなかったからと考えられている。^ ヤギ を含む^ 類人猿 を除いたサル を意味する^ 『猪 』は中国語 ではブタ を意味する ^ 銘中の「斯麻」は百済 の武寧王 と推測される。しかし、この「癸未年」に対しても443年 との異論がある。 ^ 艮 (うしとら、北東)を鬼門 とする考えは、とくに日本で深められた。鬼 が牛 のような角をもち、虎 皮のパンツをはいて具象されるのも、「うしとら」からの連想である。なお、鬼退治のための動物が、桃太郎 の伝説ではイヌ 、サル 、キジ なのは、「うしとら」の反対方向が「ひつじさる」で、「ひつじ」の代わりに「とり」「いぬ」が入り、さらに「とり」が「きじ」に代わっていったのではないかという推測もある。^ 喜撰法師 の「わがいほは 都の辰巳(たつみ) しかぞすむ 世を宇治山と 人はいふなり」の「たつみ」とは南東方向を示している。^ 庚申の日は60日ごとなので、1年に6回ある。 ^ 実際は1668年生まれだった可能性が高い。 ^ 1810年 『燕石雑志 』に「丙午の女は必ず男を食えると世に伝えし」とある。^ 雑節 に基づく暦。雑節とは二十四節気 以外に設けられた季節の区切りのこと。本来は、土用 は立春 前、立夏 前、立秋 前、立冬 前の年4回ある。^ 「ウ」のつく食べ物とは、丑(うし)からの連想と思われる。ウリ や梅干し 、ウナギ などであるが、ことにウナギは有名である。実際に牛を食べなかったのは、肉食が憚られる時代には無理だったこと、当時の牛は肉や乳を供するのではなく主として労働力に用いられていたからなどの説がある。 ^ 納甲という名前だが、実際の占いでは十二支を使用することがほとんどである。 ^ 荻原井泉水 は生まれ年の納音「井泉水」を俳号 としたものである。