| 川橋豊治郎 かわはし とよじろう | |
|---|---|
| 生年月日 | 1883年12月10日 |
| 出生地 | (現葛城市) |
| 没年月日 | (1967-10-30)1967年10月30日(83歳没) |
| 出身校 | 早稲田大学専門部法律科卒業 |
| 前職 | 実業家 |
| 所属政党 | (立憲民政党→) (日本自由党→) 新自由党 |
| 称号 | 正五位 勲三等旭日中綬章 |
| 選挙区 | (京都府第1区→) 旧京都1区 |
| 当選回数 | 3回 |
| 在任期間 | 1932年2月20日 -1937年3月31日 1947年4月25日 -1948年12月23日 |
| 在任期間 | 1922年1月26日 -1925年5月20日 |
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川橋 豊治郎(かわはし とよじろう、1883年〈明治16年〉12月10日[1] -1967年〈昭和42年〉10月30日[2])は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(3期)。旧姓は井村[3]。
奈良県北葛城郡新庄町(現葛城市)生まれ[4]。井村萬三の三男として生まれ、川橋鉄之助の養子となる[3]。1904年(明治37年)、早稲田大学専門部法律科を卒業した[2]。
東西電球取締役、寿重工業取締役、尾平鉱業取締役、東洋硫黄工業取締役などを務めた[2][3]。
政界では京都市会議員、同参事会員、京都府方面委員などを務めた[2]。1922年(大正11年)1月26日から1925年(大正14年)5月20日まで第21代京都市会副議長を務めた[5]。1932年(昭和7年)2月、第18回衆議院議員総選挙に京都府第1区から立憲民政党所属で出馬して当選[2]。次の第19回総選挙でも再選された[2]。
戦後、1947年(昭和22年)4月、第23回衆議院議員総選挙おいて旧京都1区で日本自由党から出馬して当選し、その後、新自由党に所属して衆議院議員を通算3期務めた[2]。
1948年(昭和23年)12月、昭和電工事件により逮捕されたが[6]、1952年(昭和27年)10月22日の東京地方裁判所判決および1958年(昭和33年)2月11日の東京高等裁判所の判決でも無罪となり、検察側が上告を断念し無罪が確定した[7]。
1967年(昭和42年)10月30日死去、83歳。死没日をもって正八位から正五位に叙される[8]。