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島田三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
曖昧さ回避この項目では、1852年生まれの衆議院議員について説明しています。1956年生まれの参議院議員については「島田三郎 (参議院議員)」をご覧ください。
島田 三郎
しまだ さぶろう
島田三郎
生年月日 (1852-12-17)1852年12月17日
出生地江戸
没年月日 (1923-11-14)1923年11月14日(70歳没)
死没地東京府
所属政党立憲改進党
在任期間1915年5月17日 -1917年1月25日
天皇大正天皇
選挙区神奈川県第一区
当選回数14回
在任期間1890年 - 1923年
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島田 三郎(しまだ さぶろう、旧姓・鈴木、幼名・鐘三郎、号・沼南1852年12月17日嘉永5年11月7日[1] -1923年大正12年〉11月14日)は、日本政治家衆議院議員[1]ジャーナリスト官僚。族籍は神奈川県平民[1]

経歴

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幕府御家人鈴木知英の三男として江戸に生まれる。昌平黌漢学を修め、明治維新後は、ブラウン塾[2]沼津兵学校大学南校大蔵省附属英学校で学ぶ。1874年(明治7年)、『横浜毎日新聞』社員総代島田豊寛の養子となり、同紙主筆となる。

1875年(明治8年)7月、元老院書記生に任じられ、1877年(明治10年)の官制改革に伴い元老院三等書記生・同二等書記生・同御用掛(準判任)を経て、同年10月に元老院権少書記官、1879年(明治12年)7月に元老院少書記官に累進[3]。同年12月末より地方官会議御用掛を務めた後[3]1880年(明治13年)に文部省に移り文部権大書記官となるが、明治十四年の政変大隈重信派として諭旨免官となり、『横浜毎日新聞』(この当時は『東京横浜毎日新聞』に改題)に再び入社。1882年(明治15年)、嚶鳴社幹部として立憲改進党の創立に参加、同年に神奈川県会議長となった。1888年(明治21年)、沼間守一から『東京横浜毎日新聞』社長の座を受け継いだ。

1886年(明治19年)1月3日に植村正久から夫婦で洗礼を受け一番町教会(現・富士見町教会)に所属する[4]1900年(明治33年)にユニテリアン協会に加わるも、後に植村に謝罪して復帰を認められた。

衆議院議員

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1890年(明治23年)の帝国議会開設後は、神奈川県第一区(横浜市)選出の衆議院議員として第1回帝国議会では衆議院初代議長に中島信行、副議長に津田眞道、全院委員長に島田が就任した[5]。これ以降、連続14回当選し、副議長・議長を務めた。進歩党憲政党憲政本党立憲国民党と立憲改進党系の諸党を渡り歩くが、犬養毅との対立から大石正巳らとともに桂新党(立憲同志会)に入り、後に憲政会に合流する。しかし、憲政会が人道や軍縮に積極的ではないとして離党、立憲国民党の解散を余儀なくされていた犬養と和解して新党革新倶楽部の結成に参加した。

労働組合会長に就任

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1897年(明治30年)、アメリカ労働運動を研究して帰国した高野房太郎らが労働組合を組織することにも理解を示し、佐久間貞一松村介石とともに協力[6]1899年(明治32年)5月には活版印刷工の労働組合 「活版工同志懇話会」の会長に就任した[7]

普通選挙を領導

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帝国議会は開設されたものの、一定の納税額にに達していなければ選挙権が与えられなかった制限選挙を廃し普通選挙を行うことを要求する普選運動を主導した島田は[8]、反対派に命を狙われることもあった。1920年大正9年)2月に行われた普選要求演説会では、暴漢が短刀で襲いかかったが、参加していた労働組合員らが阻止して事なきをえた[9]1925年(大正14年)に普通選挙法が可決成立し、男子に限られたが25歳以上の普通選挙が実現した。

ミッション・スクールの創設に尽力

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1899年(明治32年)1月に、築地居留地にあった無認可の立教尋常中学校が、同年7月の改正条約発効を見据え認可申請を行ったところ、なかなか認可を得られず、代議士である島田らの助力によりようやく認可が下りたという[10]

人道と正義を貫いた人生

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他に、キリスト教会の諸活動、廃娼運動足尾鉱毒被害者救済運動、矯風事業選挙権拡張運動を生涯にわたって支援し、第一次世界大戦後は軍縮を主張した。足尾鉱毒事件を告発した田中正造とは盟友であり、栃木県佐野市惣宗寺にある田中正造の分骨墓碑石に刻まれた「嗚呼慈侠 田中翁之墓」という文字は三郎の直筆である。

政治上の不正にも厳しく対応し、星亨の不正を攻撃、シーメンス事件を弾劾した。また、東京専門学校(現・早稲田大学)の創立期のメンバーでもあった。墓所は青山霊園(1イ13-5)。

栄典

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家族・親族

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島田家

著書

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伝記

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脚注

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  1. ^abcde人事興信所 編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年、し45頁https://dl.ndl.go.jp/pid/1703995/1/953?keyword=島田三郎 
  2. ^高橋昌郎、2003年, 20頁
  3. ^ab国立公文書館所蔵『勅奏任官履歴原書 転免病死ノ部』より
  4. ^高橋昌郎、2003年, 129頁
  5. ^開国五十年史 下 明治百年史叢書 年表』1970年、1073頁https://dl.ndl.go.jp/pid/12284229/1/611?keyword=島田 
  6. ^安部磯雄社会主義小史』(大隈重信 撰)原書房〈明治百年史叢書 開国五十年史 上〉、1970年、965頁https://dl.ndl.go.jp/pid/12284229/1/557?keyword=島田 
  7. ^朝治武 2013, p. 52.
  8. ^普選尚早論者に酬ゆ : 階級打破の弁妄 : (島田三郎氏演説) 大阪時事新報 192年4月25日号”. 神戸大学新聞記事文庫. 2025年6月27日閲覧。
  9. ^「赤心団の壮士短刀を閃めかして島田三郎氏を刺さんとす: 東京の普選国民大懇親会」大阪毎日新聞 1920年2月22日号”. 神戸大学新聞記事文庫. 神戸大学. 2025年6月27日閲覧。
  10. ^鈴木 勇一郎「元田作之進と立教学院 : 立教中学校との関わりを中心に」『立教学院史研究』第13巻、立教学院史資料センター、2016年、2-25頁。 
  11. ^『官報』第3811号「叙任及辞令」1896年3月16日。
  12. ^『官報』第565号「叙任及辞令」1914年6月19日。
  13. ^『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
  14. ^『官報』号外「叙任及辞令」1915年11月10日。
  15. ^『官報』第1218号「叙任及辞令」1916年8月21日。
  16. ^人事興信録 第15版 上、1948、島田孝一の項
  17. ^西村潤蔵『人事興信録』第8版、昭和3(1928)年

参考文献

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関連項目

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ウィキメディア・コモンズには、島田三郎に関連するカテゴリがあります。

外部リンク

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その他の役職
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