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島津光久

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
島津 光久
島津光久像(尚古集成館所蔵)
時代江戸時代前期
生誕元和2年6月2日1616年7月15日
死没元禄7年11月29日1695年1月14日
改名虎寿丸(幼名)→忠元(初名)→光久
別名又三郎(通称
神号天大空泰雲雄命
戒名寛陽院殿泰雲慈温大居士
墓所鹿児島県鹿児島市池之上町島津家墓地
官位従四位上侍従左近衛少将→左近衛中将、薩摩守大隅守
幕府江戸幕府
主君徳川家光家綱綱吉
薩摩鹿児島藩
氏族島津氏
父母島津家久
島津忠清の娘
養母島津亀寿
兄弟光久忠朗北郷久直忠広町田忠尚忠紀禰寝重永久雄鎌田政勝伊集院久国忠心伊勢貞昭樺山久尚北郷翁久正室、島津久慶室、種子島忠時室、島津久章室、島津久頼室、肝付兼屋正室、島津久茂室、入来院重頼正室
正室伊勢貞豊の娘・曹源院殿
継室平松時庸の養女・陽和院殿
側室:松澤氏、黒田氏、救仁郷氏、津留氏
綱久北郷久定忠長久岑久逵久侶鎌田正長久理喜入久亮久明久当久記桂久祐畠山基明入来院明雅久房久雄税所久皎、満、辰、酉、亀、鶴、鶴千代(詳細別記
養女島津久雄継室
継嗣島津綱貴
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島津 光久(しまづ みつひさ)は、江戸時代前期の外様大名島津氏19代当主。薩摩藩の第2代藩主。初代藩主・島津家久(忠恒)の子、島津義久の玄孫にあたる。

生涯

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元和2年(1616年6月2日、初代藩主・島津家久の次男として鹿児島に生まれる。寛永元年(1624年)に江戸幕府の命により人質となり江戸に移住したが、これは大名の妻子を江戸に定住させる政策(参勤交代の一環)の先駆けとなったと言われている。寛永8年(1631年4月1日将軍徳川家光から、松平の名字と偏諱(「光」の一字)を与えられ、初名の忠元(ただもと)から光久(「松平薩摩守光久」)に改名[1]。寛永14年(1637年)、島原の乱が勃発した際、父・家久が病気になったために代わりに参陣するよう命じられ、初めて帰国の許可が下りる。この直後に家久が死んだため、実際には島原の乱に参加することはなかった。

内政では、財政の立て直しのため家老島津久通に命じて、寛永17年(1640年)に長野(現在の鹿児島県薩摩郡さつま町永野)に金山を開発する。しかし、幕府の妨害により寛永20年(1643年)には早くも操業を停止させられるなど苦難の連続で、金山の再開発が始まるのは明暦2年(1656年)であった[2]。光久の治世は、幕府の鎖国政策によりそれまで依存していた海外貿易に収入の期待ができなくなったことから、この金山開発の他、新田開発、洪水対策など、産業振興による収入源の確保が基本政策となった。

また、光久の藩主就任直後は家中が安定せず、分家・新城島津家当主で妹婿の島津久章を自害に追い込んだり、父・家久お気に入りの家老であった島津久慶[注釈 1]を閑職に追放し、その死後には彼の名前を系図からも削除して記録からも抹殺しようとした事件もあった。

また父の代より始まった飫肥藩との牛の峠境界論争は延宝3年(1675年)に幕府の裁決により、飫肥藩側勝訴・薩摩藩側敗訴の決着の上で両藩の境界が確定、決着している。

その後、光久の長命もあって貞享4年(1687年隠居して孫・綱貴家督を譲るまで50年も薩摩藩を支配した。38人もの子女に恵まれた艶福家でもあるが、その母親の大半が記録には「家女房」とだけ書かれ、素性不明である。これは他の当主と比べても異常で、非常に奇異とされている[4]

鹿児島県名勝仙巌園はこの光久の命によって築かれたものである。また鹿児島の夏の風物詩である六月灯も光久が始めた行事と言われる。練り羊羹に必要な寒天の発明にも関わったと言われる[5]

系譜

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脚注

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注釈

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  1. ^初代異国方宗門方掛け家老という[3]
  2. ^寛政重修諸家譜』では「某氏」、『島津氏正統系譜』では「家女房」とある。

出典

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  1. ^村川浩平『日本近世武家政権論』(近代文芸社、2000年)ISBN 4-8231-0528-1
  2. ^今吉弘編 鹿児島県の不思議事典』(新人物往来社、2003年)ISBN 4-404-02994-2
  3. ^『職掌起原』
  4. ^木村礎藤野保村上直編『藩史大事典7巻 九州編』(雄山閣、2015年)ISBN 4-639-00725-6
  5. ^鶴屋八幡HP
  6. ^忠清の母・御平とは姉妹、光久の曾祖叔母にあたる
  7. ^万治元年6月11日1658年7月11日)死去
  8. ^abcdefghijklmnopqrs『島津氏正統系図』
  9. ^寛永15年2月3日(1638年3月18日) -正徳元年8月12日1711年9月24日後光明天皇掌侍、万治2年(1659年)婚姻
  10. ^ab『島津氏正統系図』には「母ハ和泉茂兵衛忠参姉」「実母ハ津田氏女日アラ不シテ死ス時ニ忠参姉局役ヲ勤メ命ヲ受テ子ト為」とある
  11. ^島津家久は妹の島津御下に三千石の領地を与えた。御下は島津久元宮之城島津家)と再婚し久近を産んだ。しかし久近が夭折したため、御下死後にこの領地をどうするかという問題が持ち上がった。家久は久元の長男・島津久通(母は久元先室)にこの領地を継ぐように命じたが、久通は辞退した。そのため御下死後、久岑が御下の領地と遺臣を継ぎ、創設されたのが佐志島津家である。
  12. ^「旧記雑録拾遺諸氏系譜三」には「母中井五左衛門女也」とある
  13. ^「旧記雑録拾遺諸氏系譜三」には「母松元某女也」とある
  14. ^ab「旧記雑録拾遺諸氏系譜三」には「母濱田勘左衛門純昌女也」とある
  15. ^『島津氏正統系図』には「母ハ家ノ女房」「母氏ニ因テ税所氏ヲ冒ス」とある

関連項目

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丸に十字紋島津氏19代当主(1638年 - 1687年)島津十文字紋
宗家

忠久????-1227 |忠時1227-1265 |久経1265-1284 |忠宗1284-1318 |貞久1318-1363 | 総州家と奥州家に分裂

総州家

師久1363-1376 |伊久1376-1404 |守久1404-???? |久世????-1417 |久林1417-1430 | 断絶

奥州家

氏久1363-1387 |元久1387-1411 |久豊1411-1425 |忠国1425-1470 |立久1470-1474 |忠昌1474-1508 |忠治1508-1515 |忠隆1515-1519 |勝久1519-1526 |貴久1526-1566 |義久1566-1587 |義弘1587-1602 |家久1602-1638 |光久1638-1687 |綱貴1687-1704 |吉貴1704-1721 |継豊1721-1746 |宗信1746-1749 |重年1749-1755 |重豪1755-1787 |斉宣1787-1809 |斉興1809-1851 |斉彬1851-1858 |忠義1858-1897 |忠重1897-1968 |忠秀1968-1996 |修久1996-2024 |忠裕2024-

分家・支流

越前家
播磨家
伊作家

久長1281-1317 |宗久1317-1354 |親忠1354-1371 |久義1371-1422 |勝久1422-1433 |教久1433-1442 |犬安丸1442-1458 |久逸1458-???? |善久????-1494 |忠良1494-1526 | 相州家相続

薩州家

用久????-1459 |国久1459-1498 |成久1498-???? |忠興????-1525 |実久1525-1553 |義虎1553-1585 |忠辰1585-1595 | 断絶

相州家
垂水家
豊州家
玉里家

久光1871-1887 |忠済1888-1915 |忠承1915-1990 |忠広1990-現在

加治木家
佐土原家

忠興1610-1637 |久雄1637-1663 |忠高1663-1676 |久寿1676-1690 |惟久1690-1723 |忠雅1723-1753 |久柄1753-1785 |忠持1785-1816 |忠徹1816-1839 |忠寛1839-1896 |忠亮1896-1909 |忠麿1909-1926 |久範1926-1944 |忠韶1944-1973 |忠範1973-現在

重富家
和泉家→
今和泉家
宮之城家
永吉家
日置家
北郷氏
都城家
佐多氏
知覧家
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