| 島津 久家 | |
|---|---|
| 生誕 | (1876-07-23)1876年7月23日[1][2] 宮崎県[注釈 1]都城 |
| 死没 | (1922-01-19)1922年1月19日(45歳没)[1] 東京市 |
| 所属組織 | |
| 軍歴 | 1901年 -1922年 |
| 兵科 | 歩兵科 |
| 最終階級 | 少佐 |
| 指揮 | 近衛第2師団歩兵第2連隊大隊長 |
| 勲章 | 功五級金鵄勳章[2] |
| 配偶者 | 恭子(明治18.8生、伯爵南部利淳妹)[2] |
| 子女 | 淑子(黒岡通孝夫人)、圭子(姉小路公俊夫人)、瑛子(姉小路公俊夫人)、島津久厚 |
| 墓所 | 龍峯寺跡島津家墓地[1] |
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島津 久家(しまづ ひさいえ)は、明治時代から大正時代の陸軍軍人。都城島津家27代当主。宮崎県[注釈 1]都城出身。正四位勲四等、男爵。
25代当主久静の弟で分家北郷家に養子に入った北郷久政の長子。
明治17年(1884年)、26代当主久寛が急死し子どもがいなかったことから、本家の家督を相続。明治24年(1891年)12月18日付けで、都城島津家の由緒と久寛の維新の功により男爵を授爵。
明治34年(1901年)に陸軍歩兵少尉に任官。軍事学研究のためフランスに留学。
明治37年(1904年)日露戦争開戦にあたって従軍のため帰国し、近衛歩兵第2連隊に入り中尉に進級、さらに大尉に進み、軍功により受勲される。
大正11年(1922年)1月19日、近衛師団奉職中、病気で東京にて死去。
| 日本の爵位 | ||
|---|---|---|
| 先代 叙爵 | 男爵 (都城)島津家初代 1891年 - 1922年 | 次代 島津久厚 |
| 宗家 | |
|---|---|
| 総州家 | |
| 奥州家 | 氏久1363-1387 |元久1387-1411 |久豊1411-1425 |忠国1425-1470 |立久1470-1474 |忠昌1474-1508 |忠治1508-1515 |忠隆1515-1519 |勝久1519-1526 |貴久1526-1566 |義久1566-1587 |義弘1587-1602 |家久1602-1638 |光久1638-1687 |綱貴1687-1704 |吉貴1704-1721 |継豊1721-1746 |宗信1746-1749 |重年1749-1755 |重豪1755-1787 |斉宣1787-1809 |斉興1809-1851 |斉彬1851-1858 |忠義1858-1897 |忠重1897-1968 |忠秀1968-1996 |修久1996-2024 |忠裕2024- |
分家・支流 | |
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